日本人児童刺殺事件を考える ――八ヶ岳山麓から(488)――
- 2024年 9月 30日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」日本人児童刺殺事件阿部治平
9月18日、中国広東省深圳で男に襲われた日本人学校の男子児童(10)が命を落とした。信濃毎日新聞の見出しは、「また凶行、中国の法人不安」「不安はけ口、外国批判を習指導部黙認」「日本人学校『愛国』の標的に」というものだった(2024・09・20)。
中国外交部は「前科のあるものによる個別事案」「同種の事件はどこの国にでも起こりうる」といい、それ以上の犯人像、犯行動機など真相につながる情報を出していない。20日になって地元メディアが、ようやく犯人は44歳・漢民族・安定した職業についていないと報じたという。国連総会に参加した上川外相も、王毅外交部長に詳細な調査と邦人保護の対策を求めたが、木で鼻をくくったような対応だった。
読売ネットは、20日、(深圳)事件では、中国当局が厳しい情報統制を敷いており、ある中国メディアの男性記者は発生直後、「うちはこの事件は報道しない」と断言した、と伝えた。たしかにこの時点では、中央電視台CCTVなど主要メディアはなにも伝えていない。だが、ネットの中には日本の報道を引用している投稿があるから、民衆の中にも少しずつは事件のニュースが浸透しているようだ。
中国社会に反日感情がことさらに強くなったのは2012年からである。中国の交流サイトでは、スパイ容疑での邦人拘束や福島第1原発処理水の海洋放出への反発に加え、「日本人学校がスパイの拠点だ」とか、「日本人学校は租界か」といった攻撃をしている。このなかには、今回の事件後、「日本でも中国人が殺されている」とデマを流し「殺人犯は英雄だ」とするものがある。
こうし書き込みは、事件後わずかに削除されたが、習近平政権はいままではまったく放置してきた。靖国神社への度重なる落書きや、NHKの放送中に中国人アシスタントが「尖閣は中国の領土だ」と発言したことは、この流れである。
これとは逆に、事件後ネット上では、日本への憎しみをことさら煽るような教育や宣伝が事件を招いたとする批判も生まれており、「中国人として恥ずかしい」という市民の声もある。また、日本人学校の前には花を手向ける人々があると伝えられている。
ふりかえれば、4月3日、江蘇省蘇州で商社の日本人駐在員が切りつけられて負傷した。6月10日、吉林省吉林市の公園でアメリカのコーネル・カレッジからの派遣教員4人らが刃物で刺され負傷した。6月24日、蘇州で日本人母子が襲われ負傷した。このときこれを防ごうとした中国人女性が死亡した。中国メディアは日本人親子が襲われたとは伝えず、死亡した中国人女性が被害者をかばって暴漢と英雄的に戦ったと伝えた。
こうした事件の連続発生をどう防ぐかについて、中国当局が動いた形跡はない。
今回の事件について、東京大学の阿古智子教授は9月19日の産経ネットで「日本への憎しみを生むような教育をしていなかったか、中国側はこれを機に考えるべきだ。この日なら許されるなどの感情が働いたかもしれない」と述べた。いうまでもなく、中国では昔から「日本への憎しみを生むような教育」が行われている。
中国には学校や役所、さらには住民が参加する年中行事がある。たとえば、3月1日は満洲国建国、7月7日は盧溝橋事件、8月15日は日本降伏、9月3日は対日戦勝利、9月18日は満鉄爆破の柳条湖事件、12月1日は南京大虐殺の日である。日本降伏と対日戦勝利のほかは、日本に侵略された屈辱と苦難の歴史をふりかえり、国家の隆盛を誓う「国恥記念日」である。阿古教授がいう「この日なら許される」は、9月18日「九一八=ジュイバ」であった。しかし、日本には中国侵略という歴史の負債があるから、これをやめてくれというわけにはいかない。
それ以上に、中国共産党には反日を中身にした愛国教育を絶対にやめられない事情がある。というのは中共がなぜ中国を統治するか、という「統治の正統性」の問題があるからだ。議会制民主主義国家では、国政選挙によって政権政党の統治は正統性が担保される。だが、中国では国民の政治参加がないから、中共は「15年間の抗日戦争を勝利に導いたのは中国共産党である」と絶えず民衆に説いていなければならない。だが、これは神話に近い。抗日戦争の主力は中共ではなく国民党軍だったからだ。この事実は国民の間に少しずつ漏れ知られてきた。
もうひとつは、「今日の強国と繁栄をもたらしたのは中共が統治しているからだ」というものである。ところが反右派闘争・人民公社・数千万人の餓死・文化大革命・改革開放と中共の支配は波乱万丈であった。今日、習近平政権2期目以降は、不景気・失業が蔓延して、コロナ感染が終って2年経っても経済は回復しない。いま青年の失業率は18%である。
こうした「統治の正統性」の揺らぎに直面して、習近平政権はSNSへの書き込みなど反日の声を抑えるわけにはいかないのである。いやもっと積極的に、西欧や日本から侵略された歴史を強調して中華民族主義をかき立ててきた。「社会安定」をスローガンに改訂反スパイ法、国防法を制定し、「軍事予算を上回る治安維持費を計上して国民を締め付け、対外的には「戦狼外交」を展開した。また、官僚・知識人から庶民にいたるまで「習近平思想」を学ばせている。
阿古教授は、「中国は経済が悪化し続けており、習近平政権を批判的に見る中国人も増えている。だが、言論統制で不満を口に出すことができず、官民ともに暴力で解決する傾向が強まっていると感じる。思想教育とプロパガンダが行われる中、余裕のない人が『敵』と教わった日本人を不満のはけ口としてみている恐れもある」という。
その通りである。中国在住20余年の北京ウォッチャーは「今日、2012年よりも中国社会の反日感情は深刻だ。いま反日デモが起きたら習近平政権はこれを抑えることができないだろう」という。
思い起こせば、12年前胡錦涛から習近平へ政権が代わる直前、香港の活動家らが尖閣に上陸し、強制送還されると各地にデモが起こった。9月民主党野田政権が尖閣3島を国有化すると、中国メディアは一斉に尖閣特集を行い、反日感情を煽った。上海・北京・西安など数十の都市に数千人の反日デモが起こり、日本大使館は2万の群衆に取り囲まれ、日本人に対する暴行、日系の商店・料理店・日本車の破壊が続いた。情報通によれば、中共中央の対日強硬派はこれらを黙認したという。
さて、かりに習近平政権が「思想教育とプロパガンダ」をやめたとしても、中国には景気の良し悪しに関係なく、指導者やメディアが扇動すれば、簡単に激しい反日感情が生まれ、事件が起きる土壌が存在する。それは中国民衆のもつ日本への「仇恨」の気持である。これに対して、日本人は現代史教育が不十分なために、まるでのんき・鈍感である。
中国人は、日本を「小日本」と蔑称でいい、日本人を「鬼子=クイズすなわち人殺し」と呼ぶ。日本軍の非行は、占領地域の親から子、子から孫に伝えられ、反日・嫌日感情は中国人の遺伝子に組み込まれたかのようである。
21世紀に入ってからも、わたしは中国で学生から「小さいレストランに入ってはいけません」とたびたび注意された。これは不衛生だというほか、日本人とみればわざと汚いものを食わせるおそれがあるかであった。
タクシーに乗ると、ドライバーはたいてい「韓国人か」と聞いてきた。かなりのドライバーが乗客に「日本人か」と聞くのは失礼だと考えているのである。
あるとき左翼と称する日本人ジャーナリストが、繁華街を歩いていて後ろからズボンに痰を吐きかけられたことがあった。わたしは「日本人と見てやったのだ。外では日本語を大声で話してはいけない」といったが、左翼もわけがわからないようだった。
ある中国人研究者は、わたしと南京大虐殺の実態をめぐって議論したとき、「南京事件は殺された人の正確な数が問題ではない。庶民の感情だ」といった。「実は、わたしの父方の祖父は日本兵の刺突訓練の的にされましてね。祖母は夫の虐殺を前に強姦されショックで失明、一家の柱を失った父のきょうだい4人は餓死、父だけが生き残った。それで私がいまここにいるというわけです」
わたしの結論は単純だ。中国は現政権の下では、日本企業が安心して仕事ができる国ではない。ましてや従業員が家族連れで赴任するとか、気楽な観光旅行ができる国ではない。安心して中国へ出かけられるのは、日中両国の指導者が高度な知性をもって国を統治した後のことになるだろう。
これからも14億の巨大市場は魅力的だが、今回の日本人児童の死をきっかけに、外資の中国への投資意欲は低下し、外国企業の中国からの撤退が加速するだろう。
いまの中国では、あなたは思いがけない理由でスパイの疑いをかけられ、捕まるかもがれない。それが治安関係の係官が成績を上げるためだったとしても、中国政府はこれを正当な法手続きだとして処理するにちがいない。
(2024・09・24)
初出:「リベラル21」2024.09.30より許可を得て転載
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