伊東良孝君の大臣就任について思うこと
- 2024年 10月 5日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
石破内閣が成立し、その内閣の一員として我が同窓生伊東良孝君が、地方創生大臣に就任しました。いまから10年ほど前、ミャンマーから帰国してほどなく、何十年かぶりで高校のクラス会に出席しました。それは、同じ同窓生の小畑道会議員が飛行機内でカスハラ行為を行なって、世論から糾弾され道会議員を辞職するという事件があったすぐあとでした。それで私は、いま根釧地区ではだれが衆議院議員かをたずねると、「君には多分記憶にないと思うが、3年E組にいた伊東良孝というやつがなっている」との答えでした。あとで調べると、伊東君は市会議員や道会議員、そして釧路市長も務めた経歴もあることが分かりました。
私が伊東君なる人物を一生懸命想い出そうと眉をしかめていると、女性のSさんが、「あのひと、エレキギターのグループで活動してた人よ」と、助け船を出してくれました。それでも伊東君なる人物の像は結べませんでしたが、エレキの記憶は鮮明にありました。当時ヴェンチャーズというバンドが釧路に来て、一大エレキ・ブームを巻き起こしていました。たしか高三の秋口だったと思います。我々が放課後、英語の特別授業でB・ラッセルの「幸福論」の読解に四苦八苦しているときに、講堂で文化祭のためだったのでしょうか、エレキの練習をしているのが聞こえてきて、耳障りに感じたのを鮮明に憶えています。「そうか、あのときの一員だったのか」と納得。氏は高校卒業後も釧路は出ずに、学芸大釧路分校に進学したと聞きました。
その伊東良孝君、このたび石破総理から地方政治の長い経験を生かしての地方活性化の重責を与えられて「地方創生大臣」に就任。写真でみたところ、ぎらついた権力志向をもつ政治家にはみえませんが、自民党道連会長も務めていることもわかりました。我が同窓生が国務大臣に就任、保革云々の違いはあっても通常は多少なりと誇らしく感じるべきところでしょうが、そう単純に喜べないのが悲しいところです。
かつては道東一の繁栄都市だった釧路は、マスメディアやYouTubeなどでさんざんコケにされているように、現在典型的な「衰退都市」の惨めな姿をさらしています。水産業は二百カイリや資源枯渇、気候変動などの影響で衰退産業化し、石炭産業は廃業、製紙工業は撤退等の憂き目にあって、最盛期から人口は5~6万人減となっており、この傾向に歯止めがかかっていません。何より重大なのは、第一次・第二次産業の衰退と相まって釧路市中心街の空洞化が恐るべき勢いで進行していることです。かつて買い物客や遊楽客でひしめいていた商店街は、ほぼ壊滅。シャッター街どころか、テナント募集の空きビルと更地=駐車場ばかりが目立つゴーストタウンになりつつあるのです。「こんな釧路に誰がした!」と、毎度帰省のたびごとにわが心は叫びました。
この惨状は、明らかに歴代自民党地方政権の誤った都市政策の結果です。中央直結を政策の柱にした保守政治が、産業更新の知恵もなく、大店舗の進出を無批判に迎い入れた結果なのです。モータリゼーション化を背景にした、無秩序な郊外のスプロール化で、市街地は野放図にかつての湿原地帯に広がり、中心市街地は空洞化していきました。歴代釧路市政には(社会党市政も含め)、都市計画についての定見がなく、タダ同然の湿地帯を造成して住宅地に変えることによる、土木・建築業の拡大の利益追求=税収増加しか頭になかったのです。都市計画的見地から不可欠なもの―産業立地と市街地の計画的な配置、市内の各町区に不可欠のへそとなる商店や公共施設(コミュニティ施設、図書館、広場など)をおき、コミュニティとしてのまとまりがあるコンパクトなまちづくりは、発想すらされなかったのです。
自民党政治は、その悪影響への対策抜きに巨大スーパーの郊外立地を許してきました――これは全国の都市の共通の問題です。世界遺産である貴重な湿原を次々につぶして、道路・住宅地造成を行ない、公共交通の整備抜きにマイカーをあふれさせ、巨大スーパーの集客力に見せかけの繁栄を演出したのです。 しかし新開地の造成から半世紀以上すぎて町全体の高齢化が進むにつれ、公共交通の便が悪く、近くに商店街や公共施設、医療施設が不在のため、これから買い物難民、医療難民が生じることは火を見るより明らかです。
つらつら考えてみるに、都市の郊外へのスプロール化とその代償としての旧中心街の驚くべき衰退――これは自民党政治が主犯であるにせよ、そういう自民党に市政をゆだねてきた市民全体が責任の一端を負うべきものです。それもこれも、市民共同体のなかに自分たちが暮らしやすく、住みやすい街をつくる主体であるという意識が希薄なために結果したものであり、市民の側からもそのことの自覚と克服の努力が求められているのです。
私はミャンマーから帰ってすぐ帰釧、私のために集まってくれた10人ほどの同窓生たちのまえで、苦言を呈しました。(実は我が高校は、市の中心街にある商店・企業などを営む家の子弟が圧倒的に多かったのです)
――「釧路新聞」と「十勝毎日新聞」を読み比べれば、一目瞭然。十勝の記事からは、人と仕事の営みと暮らしの様子が手に取るように伝わってくるが、釧路新聞からは人のぬくもりが伝わってこない。全国配信の記事が多く、地方の現状が見えてこない。(釧路新聞は、明治の終わり、石川啄木が記者を務めたという栄光の歴史を持つ)
この差はどこから生まれたのか。十勝には私財を投じて開拓に身をささげた人物が目白押しである。帯広開拓の祖である晩成社の与田勉三、陸別開拓の関寛斎(司馬遼太郎「胡蝶の夢」の登場人物)、浦幌開拓の二宮尊親(二宮尊徳の孫)などがすぐ頭に浮かぶ。釧路はどうであろうか。水産資源や天然資源(石炭、硫黄など)に恵まれ、原野を切り拓いて耕作地にする労は免れていた。開拓精神なき資源への依存経済――これを現代では「資源の呪い」といって、資源に恵まれている国ほど開発が遅れるという現象をさしている。帯広が地場産業と結びつきの強い帯広畜産大学を抱えているのであるから、釧路には水産大学がほしかったところであろう。釧路公立大学にはそういう産業関連の特色は希薄であり、そこでも帯広の後塵を拝する結果になってしまった。知と切り結ばない産業は、没落の憂き目にあう、ということでしょう。
しかし近年の注目すべき動向として、根釧地区の中心である釧路市の衰退と対照的なのが、釧路市に隣接する釧路町や白糠町、鶴居村などの独自のまちづくりの試みである。独自の産業政策をもって地域活性化をはかり、生き残りをかけて頑張っているようにみえる。釧路市の方こそそこから謙虚に学ぶべきではないのか。また産業起こしの観点から、たとえば酪農王国であるデンマークなどの先進例から徹底的に学ぶべきではないのか。大分県の湯布院が、ドイツの避暑地バーデンバーデンに学んで町おこしに取り組み、国内有数の観光地に生まれ変わった例もある。デンマークに市の職員や公立大学の教員を留学させて徹底的に学ばせ、酪農プロジェクト計画を立案し、官民協力でフィージビリティ・スタディに着手する、そうしたアイデアもあるではないか・・・。
現在の釧路市の中心市街地の惨状に、じつは伊東良孝君は行政のトップとして、また政治家として大いに責任を負っています。野生の山ブドウを原料に、国内では最初の自治体経営によるワイン醸造を試みて成功させた池田町町長だった丸谷金保氏のような成功体験が、かれにはあるわけではありません。むしろ地方都市経営の失敗の責任者として反省しなければならない立場の伊東良孝君が、地方創生の担当大臣になるというのは、皮肉というほかはないでしょう。能力というより、保守政治の力学から大臣の職に就いたとすれば、地方創生の未来は暗い。しかし不思議なもので、高校時代をあの同じ校舎で学んだという同胞感情のせいでしょうか、伊東君には失敗してほしくはいという気持ちが、批判の裏側にあることも事実です。日本の地方の未来は、伊東君、きみの手腕にかかっているのですよ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13901:241005〕
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