ていこう原理 35 気付かぬままの〈あたりまえ〉に気付け
- 2024年 11月 15日
- 時代をみる
- 子ども長谷川孝
◆「当たり前に戻した」学校改革とは
「『当たり前やめた』をやめた中学」という見出しがついた(毎日新聞2024・9・2夕刊)学校改革があります。東京・千代田区立麹町中学校です。ダンス部の部活動で「ヒップポップ禁止」と騒ぎになった学校です。
同校では十年ほど前から校長の下で,生徒が主体的に学ぶ姿勢を育てようと、宿題や定期テストの廃止、生徒の自主・自律性を重んじた私服登校も許すなどの「学校の当たり前」をやめる改革が進められ、注目されていました。この改革をやめ、いわば「当たり前の公立学校」に戻す立て直しに取り組むのが現校長。学校生活の規則を整える方針で、服装や髪形のルールも変更されたとのこと。
つまり「当たり前の公立学校」という学校像が〈あたりまえ〉にあるのです。校長による学校改革で有名だったある中学に、校長が代わった後の様子を問い合わせたら、「今は普通の公立学校です」と答えられたことがありました。
◆見えない・見てない〈あたりまえ〉
たしかに学校は、当たり前の沼のようです。重いランドセルを背負って、遅刻しないように急ぎます。遅刻チェックで、校門に挟まれて死んだ事件もありました。時間割に従いきちんと決まった席に座って授業を受け……男女別の名簿もまだ多いらしく、出欠も男女の順になります。
ある教育関連の集会の分科会で、「あたりまえ」がテーマの討論がありました。その分科会では、一人の障がい児が担任教員のケアもあって、通常学級で活動している報告があり、「特別支援学級に在籍」と明記されていました。しかし討論では誰からも、これが〈あたりまえ〉でいいのか? という指摘は出ませんでした。日常の中の普通なのでしょう。
通常学級(学校)に在籍し、必要に応じて特別支援学級に通級が当たり前なのが、インクルーシブのはず。現状や普通、「いつも」に浸っていると、当たり前のオカシさは見えてこないように思います。管理や統治、教育を施す立場からの当たり前か、権利・人権、自治の立場からの当たり前かも、大事な観点です。
◆「…られる」子ども観は変えよう!
児童憲章の表現に見られる子ども観は旧来の子ども観の定番と言っていいでしょう。一九五一年に全国の各界代表による制定会議が定めたもので、児童は「人として尊ばれる。社会の一員として重んじられる。よい環境の中で育てられる」という前文の後に、12項目のが並びます。憲法の精神にしたがい子どもを大切に、という温かい眼差しがあるように感じられます。しかし、項目の多くは、育てられ、与えられ、まもられ、みちびかれ、指導されと、「られる」が並びます。「人として、社会の一員として」の子どもは、どこにいるのでしょうか?
こうした子ども観が当たり前であってはならないはずです。国連子どもの権利条約が批准されて三〇年、児童憲章の改廃が検討されていいように思います。
学習権に関して最高裁は、旭川学テ判決(一九六六年)で、子どもは「学習要求を充足するための教育を施すことを要求する権利」を有すると認めました。だが子どもは、教育を「施される」対象で、学ぶ主体とされてはいません。
学校で教職員は子どもたちに、書かせ、発言させ、自治活動もやらせた、などとよく言います。これも見直すべき学校の当たり前。権利主体としての子ども観を〈あたりまえ〉にしたいです。(読者)
初出:「郷土教育784号」2024年11月号より許可を得て転載
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