水俣病が映す近現代史(25)水俣病事件の発生①
- 2024年 11月 26日
- スタディルーム
- 水俣病葛西伸夫
このシリーズは水俣病事件を通して見えてくる近現代史を記述する試みで、これまで水俣病をマクロの視点で見てきたが、水俣病の発生についてはいわば「焦点」にあたる部分で、ここだけはミクロアプローチとなる。発生から激動期までを時系列に3回に分けて書きたいと思う。(記事末に図版あり)
さて、前々回の拙稿(23)において、新日窒水俣工場は朝鮮戦争(1950年~1953年)がもたらした好景気の波に乗り、アセチレン系列の工場設備に次々と予算が付き、新設・増設を重ねていったことを書いた。
朝鮮戦争が休戦した1953(昭和28)年、水俣湾周辺では魚が浮上、猫が踊り、海鳥やカラスが舞い落ちる現象が見られ始めた。その年の12月、水俣市月浦(つきのうら)に、四肢運動障害、言語障害、視力障害などを主症状とする原因不明の疾患が現れた。第一号患者と言われる、溝口トヨ子さん(5歳)であった。彼女は3年後の3月に死亡した。
翌年も次々と同症状の患者が現れた。
その報告がなされたのは、4年後の1957(昭和32)年のことであった。
熊本県が「公式」に患者の確認をしたのが1956(昭和31)年5月1日で、上記の報告はその翌年になされたのである。
もちろんその時の経過の間に汚染は広がり(潜在的)患者は増え続けている。ところが工場の当該装置を停止させ政府が公害認定するのは、第一号患者の発病から15年後、1968(昭和43)年のことであった。
このあと述べるが、水俣病の拡大を最小限で抑えるチャンスは昭和27年に既にあった。ところがそれから幾度とない「放置」が為され、結果として水俣病は、(認定患者数はともかく)症状を訴える被害者が8万人を数える(潜在的にはもっと多い)空前の大公害事件となった。
なぜこのような「放置」がなされたのか。ここに水俣病事件の「事件」たる本質がある。たいへん複雑な話になるが、なるべく時系列・多元的に説明していこうと思う。
まずは整理のために、登場人物ならぬ登場組織について大雑把にまとめておこうと思う。
<国>
通産省、厚生省、水産庁。これらは巧みに責任のなすりつけ合いをしながら、問題の所在を国まで上げさせず(おお事にせず)、県レベルで抑え込もうとする。
だから国は、「水質二法」、特別措置法などで排水や工場の操業を規制する術を持っていたが、巧みに回避した。
最激動の1959(昭和34)年、高度経済成長の仕掛け人である池田勇人が通産大臣になると、彼は暴力的に終息を図る。
<熊本県(知事)>
工場に対して停止まで含む様々な措置の発動、食品衛生法の適用、県条例の発令など、大きな権限と責任を持つ。それだけに国や(地元・化学)工業界からいつも睨みを利かせられていた。
<熊本県議会>
全国屈指の自民党王国。議会が本格的に問題化するのは1958(昭和33)年から。不知火海全体に被害が広がると、農漁村に基盤を持つ議員が漁民側の味方に付き始めた。
<水俣市長>
元工場長(橋本彦七)で、工場・労働者擁護。しかし事件が展開し始める1957(昭和32)年の市長選では新日窒が対立候補(中村止)を擁立し、橋本を負かす。
<水俣市議会>
工場に対して及び腰。1958(昭和33)年、政府に立法化を陳情。漁民の「暴動」からは反漁民、工場を止めるなという立場(「水俣統一戦線」と呼ぶ)となる。
<水俣漁協>
大正時代から排水による漁場の汚濁に苦しめられてきた。
水俣病については早い時期から経済・健康被害に見舞われる。他漁協より一足早く闘ったが、新日窒に端金(はしたがね)で和解させられ、他の漁協からは「裏切り者」「抜け駆け」呼ばわりされてしまう。
<不知火海沿岸の各漁協>
新日窒が排水口を変更した1958(昭和33)年から次々と(健康・経済)被害を訴えた。
<新日窒・七工会・産対協・御用学者・日本化学工業協会>
激動の年である1959年、不知火海沿岸工業地帯は通産省の臨海工業地帯開発公団構想に盛り込まれた。七工会は戦前からのその工場群の協議体である。また「産対協」は熊本県の関連部長・次長による産業総合利益対策協議会のことである。これらは地元で新日窒の利益を損なう動きに対して睨みを利かせていた。その背後には日本化学工業協会という業界と御用学者らが、さらにその背後に通産省というふうに、新日窒にたいして多重のディフェンス陣営を構えていた。
【最初の被害地域の人々】
水俣市の海岸部はリアス地形で、入江と岬が繰り返し連なっている。北に水俣川の河口があり、中部の最も深い入江の最奥部に百間という港と新日窒の排水口がある。そして南部には辺鄙な漁村集落が点在している。この連稿の(8)「天草・島原の悲劇」で書いたが、南部の漁村集落(茂道・湯堂・坪谷)は明治初期から始まった天草からの移民によって形成された。そのため、彼らは戦争中に日窒に労働奉仕したり、敗戦直後にまちぐるみで工場を復興させた「水俣工場共同体」とは一線を画している。
移民である南部漁村集落はまとまった耕地を所有せず、魚介類を主食にわずかな畑作物を食べるだけだった。急勾配の地形が多く、稲作をする家は無かった。彼らは漁民に分類されるが、食料を海産物に依存していただけで、職業漁民はそう多くはなく、漁民≒漁協である。経済の半分は物々交換で成り立っていたという。
水俣病初期は、水俣工場の排水口から比較的近い水俣南部の漁村部に患者が集中した。”集中”とはいえ患者は散発的に発生し、伝染病との誤解から熾烈な差別に見舞われ横のつながりを持てなかった。
漁協の主導により1957(昭和32)年8月水俣奇病罹災者互助会が結成された。後に水俣病患者家庭互助会と改名する。かれらの闘いは漁業補償を中心に求める漁協とは異なり、水俣病の原因が工場排水とは決して認めない新日窒(水俣統一戦線)とは最も困難で孤独な闘いを強いられた。
1958(昭和33)年以降は水俣地域外からも患者が発生するが、彼らが組織を作るのはずっと後である。
【敗戦後の熊本県の状況】
熊本県は九州の西側中央に位置しており、天草を除く沿岸部は三角半島を境として北側は有明海、南側は不知火海(八代海)となっている。どちらも内海(陸地に囲まれており、狭い海峡で外洋とつながっている閉鎖海域)で、不知火海は日本の内海の中で大村湾に次いで閉鎖度が高く、次に有明海の順となっている。水銀廃液の被害が集中した理由にそのような地形的な要因がある。
熊本県は第一次産業の割合が高く、工業のほとんどが軽工業の中小企業が占めていたが、例外的に八代以南の不知火海沿岸は戦前から大企業による工業化が進んでいた。
・日本セメント(八代)
・興国人絹(八代)
・三楽酒造(八代)
・十条製紙(八代・坂本)
・東海電極製造(田浦)
・日本窒素肥料(水俣)
これらの工場は、球磨川の電力と用水、石炭・石灰岩や木材の原料を近隣から供給できる場所に立地していた。戦後、この6社7工場は、最大企業の(新)日窒が筆頭となって「七工会」という協議体を組織した。
戦後の熊本県の財政状況は決して良くなかった。1955(昭和30)年には赤字となり、財政再建団体に指定された。財政再建のプランの一つとして工業化政策を進め、有明海(荒尾、玉名、熊本)と不知火海東沿岸に臨海工業地帯を造成しようとした。この場合、不知火海沿岸のほうが、工業地域がすでにあることに加え、球磨川からの用水と電力が得られること、それに八代干拓地がある点で格段に有利だった。
1958(昭和33)年には八代を中心とした臨海工業地帯造成計画(八代工業地帯計画)が立案され、港湾整備も始まった。しかし、その頃始まった「なべ底不況」で興国人絹八代工場と鏡の日産化学(かつての日窒鏡工場)が閉鎖に追い込まれ、大量の失業者を出した。これは戦前からの旧型産業構造が不況をきっかけとしてスクラップされていく過程の一つだったが、熊本県としてはこれ以上の閉鎖や失業者を出すことは避けなければならず、既存工場の保護に苦心した。
こうした状況に対応するため、熊本県は関係方面との折衝を担当する窓口として「産業総合利益対策協議会(産対協)」を設置した。
【昭和20年代後半までの出来事】
(最初の漁場汚濁の訴えと和解)
日窒は戦前から廃水による漁場汚濁を引き起こしていた。1926(大正15)年、陳情する水俣漁協に日窒が「永久に苦情を申し出ないことを条件に」見舞金1,500円を支払って和解したのが最初だった。
この、「永久に苦情を申し出ないこと」は、現状最後の2009年まで幾度も行われる「補償・救済策」に必ず付随する条件である。加害者にとって水俣病とはそれを終わらす歴史にほかならなかった。
ただしこの条件の元祖は、足尾鉱山鉱毒事件での補償策にあった、補償と引き換えにそれ以前および以後の鉱毒被害の請求権を放棄させる「永久示談契約」であった。歴史をよく学んでいるのは誰であろうか。
(水銀廃液の無処理放出開始)
1932(昭和7)年5月、水銀を利用したアセトアルデヒド工場が稼働し、海洋への廃液無処理放出が始まった。
(再度の漁場汚濁の訴えとその処理)
1943(昭和18)年、漁場の汚濁に抗議した漁民に対して日窒は、汚染海域の漁業権放棄と15万2,500円の「永久漁業被害補償」とともに水俣川河口・八幡付近の埋め立てを行った。
その埋め立て工事は、石と土堤で護岸を作り、その中に廃棄物を投棄して行われた。当然、護岸からの漏出が多く、海水は白濁したと思われるが、工事の許認可をした熊本県が改善指導することはなかった。
(海の生物の異変)
1944(昭和19)年、月浦付近で牡蠣の腐死が目立ち始め、その後水俣湾内に拡大した。
(百間港浚渫工事)
水俣工場は1908年からカーバイド製造を行っており、大量の廃棄物が百間港の海底に堆積し、ついには満潮時以外船舶の出入りができなくなるほどになった。
1949(昭和24)年、熊本県河港課は4カ年計画で浚渫と港湾の改修工事を始めた。百間港は、ほぼ日窒の専用港であり、汚泥堆積原因は日窒工場以外に考えられないが、スタートを切ったばかりの橋下市政は、それを自然堆積だとして、工事費用を全額水俣市に拠出させた。
この浚渫のとき、熊本県は浚渫汚泥の調査をし、カーバイド残渣であるという見解を残している。工事は1952(昭和27)年まで3年間かかって845万m³を浚渫し、2,042万円が費やされた。
(朝鮮戦争特需)
1950(昭和25)年6月、朝鮮戦争開戦後、水俣工場は大幅な増産体制に入った。
(助触媒の変更)
1951(昭和26)年の夏頃、新日窒はアセトアルデヒド製造工程における触媒酸化剤(活性を失った水銀の再活性化工程で使う物質で、新日窒は「助触媒」と呼んでいる)の変更を行っている。プラント開発者の橋本は二酸化マンガンを使用していたが、効率が悪いため、彼の失脚後、朝鮮帰りの技術者たちが中心になって朝鮮工場での経験を元に研究を進め、硫酸第二鉄に変更した。これが生産効率を上げると同時に水銀のメチル化率も飛躍的に高めていたことが後の研究で分かる。
(工場 ⇒ 県の回答文書に「水銀」)
1951(昭和26)年、水俣市漁協から漁場汚濁問題が熊本県水産課に持ち込まれ、翌年52年3月、新日窒に排水処理状況を問い合わせていた。そのときの水俣工場からの回答文書には、水銀を含んだ廃液の流出が明記されている。この時点では水銀を問題視していなかった可能性が示唆される。この報告書は公表されなかった。
(熊本県水産課による現地調査)
同年、1952(昭和27)年8月、漁場汚濁の被害を訴える漁協から再度の依頼を受け、県水産課による調査が実施された。県当局による最初の現地調査報告であった。
排水の性質や量について記されており、カーバイド残渣が主要生残物で莫大な量であるとされている。汚濁や堆積の範囲の書かれた図も添付されてある。
この調査中、担当者は「七工会」事務所に呼び付けられて、調査の狙いを厳しく問われたという。
聴取報告では、酢酸系の原材料の記述に「水銀」と明記されていた。その上で、排水の成分(環境中の堆積成分ではなく)を明確にしておくことが望ましいと指摘していた。この文書は熊本県水産課内で供覧された後秘匿された。
この調査を行ったのは水産課係長の三好礼治といい、この報告書は「三好復命書」として水俣病事件史では知られている。三好の指摘した措置を県が早急にとっていたら水俣病は最小限度で防げた可能性が高いからだ。
三好は1957(昭和32)年に依願退職している。
(患者の発生)
冒頭で触れたように、1953(昭和28)年12月、水俣市月浦付近で5歳の少女が発病する。また翌年にも同症状を訴える患者が続発する。この報告は4年後(1957年1月)に「水俣奇病に関する調査」として新日本窒素附属病院によってなされる。
この年は、水俣湾周辺で魚が浮上、猫が踊り、海鳥やカラスが舞い落ちる現象が見られていた。
(熊本臨海工業地帯造成計画)
1953(昭和28)年、熊本県は有明海沿岸と不知火海沿岸に工業地帯を造成する計画を立案する。
(テレビ放送はじまる)
1953(昭和28)年2月1日、NHKが東京でテレビ放送(白黒)を開始。それから6年間、1959(昭和59)年にはほぼ全国で視聴できるまでに普及する。
白黒テレビは、洗濯機、冷蔵庫とならび、当時の家庭にとって重要で欠かせない三つの製品という意味で「三種の神器」と呼ばれた。誰が呼んだか不明だが、この3つを所有すれば生活水準の向上を実感できる、という国民にとってわかりやすい目標となって高度経済成長を牽引するスローガンの役割を果たした。
テレビに関しては、耐久消費財としての側面に加え、ニュース映像と映像コマーシャル(昭和34年~)媒体の機能を持つことで、その普及には冷蔵庫や洗濯機とは別の特性があった。
(「神武景気」が始まる)
1954(昭和29)年末から「神武景気」と呼ばれる好景気が始まる。1957年(昭和32年)6月から始まる「なべ底不況」まで続く。
(熊本県赤字団体に)
1955(昭和30)年、熊本県は赤字団体に転落。翌年から5年間にわたる財政再建計画を進める。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1328:241126〕
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