「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実
- 2012年 3月 18日
- 評論・紹介・意見
- 渡部富哉白鳥事件
特別インタビュー 社会運動資料センター・渡部富哉氏に聞く①
聞き手:今西 光男、山城 オサム
(インタビューは2月23日、東京・日比谷の日本記者クラブで行われた)
60年前の1952(昭和27年)1月、札幌市内で同市警の警備課長、白鳥一雄警部が拳銃で射殺された「白鳥事件」。当時、捜査当局は、地下に潜行して武装闘争を目指していた日本共産党札幌地区委員会の組織的な犯行と断定し、同委員会の委員長・村上国治氏(故人)ら同党関係者を一斉検挙した。事件は村上氏が犯行を計画・指揮した首謀者として懲役20年の有罪判決が確定して終わった。ところが、この事件は、指名手配された実行グループは未だに逮捕されず、凶器の拳銃が未発見など物的証拠も乏しかった。さらに転向組の同党党員の証言が立証の決め手とされただけに、多くのナゾが残され、冤罪説や謀略説がいまだに絶えない。
これに対し、日本共産党の元党員で同党大幹部やこの事件の関係者とも深い交流があり、同党の裏も表も知り尽くした元活動家、渡部富哉氏(82歳)は長年の独自調査で発掘した裁判の新資料などを基にこう断言する。「この事件は、日本共産党札幌委員会軍事部による組織的な犯行であり、冤罪ではなかった。ただ、朝鮮戦争という時代背景のなかで、当局は共産党の壊滅を狙った戦前の「スパイM」(飯塚盈延)を使って、大森銀行ギャング事件などを引き起こした手法を使った経験の再生ともいえる「やらせ」の側面、つまり当局は事件の発生を事前に承知のうえで謀略を行った。当局の証拠の弾丸のねつ造などもあったという。白鳥事件60年目の真実が今、明かされようとしている。
事件の核心を物語る裁判資料を発掘
当時から「党がやった」と確信
――米占領軍の統治下にあった昭和20年代、わが国では下山事件、松川事件、三鷹事件などの不可解な事件が相次ぎました。多くは当時の日本共産党による組織的な犯行とみなされ同党関係者が検挙されました。しかし、大半は証拠の決め手に欠き冤罪で終わっています。そうした流れの中でみると、同時代に起きた白鳥事件(注1)も、有罪判決が確定して一応の決着がついた形ですが、今でも冤罪説が根強いようですね。
渡部 そりゃそうでしょう。当時、日本共産党は公式には白鳥事件との関係を否定し、白鳥事件対策協議会(機関紙「白鳥事件」)を発行して110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた冤罪キャンペーンの国民運動を展開しましたからね。一般国民の目に冤罪と映ったのも無理はありません。それに、この事件を取り上げ独自の推理を展開した松本清張著『日本の黒い霧』の影響も大きいでしょう。彼はよく調べて書いてはいますが、CICの謀略・冤罪説ですね。確かに当局による一部証拠(弾丸)のでっち上げがありましたから、それが、なおさら冤罪説を広めたといえるかもしれません。しかし、あの当時、日本共産党にいて地下活動をしていた私達のような一部活動家にとっては、事件が発生した時、「ああ、党がやったな」とピンときたものです。
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白鳥事件:1952(昭和27)年1月21日午後7時40分ごろ(警察発表)、札幌市内で、札幌市警の警備課長、白鳥一雄警部(36歳)が自転車で帰宅途中、後ろの自転車の男に拳銃で撃たれ死亡した。体内から見つかった弾丸から凶器は拳銃(ブローニング32口径)とわかり、死体のそばから薬きょう1個が見つかった。捜査当局は、日本共産党北海道地方委員会傘下の札幌委員会メンバーの複数の自供などから、同党の地下軍事委員会指揮による中核自衛隊の犯行と断定。犯行を指揮したとみられる委員長の村上国治氏ら同党員多数を検挙した。しかし、殺人容疑で指名手配された関係者10名は中国に逃亡し、うち7名は帰国したが、実行犯(共同正犯)とされる3名は現在まで逮捕されていない。国外逃亡は時効が停止するため、逮捕状は現在も更新されている。殺人罪などで起訴された村上氏は1審、2審とも有罪となり、1963(昭和38)年、最高裁で上告が棄却され懲役20年の刑が確定した。その後再審請求を経て最高裁で特別抗告も棄却されたが、「疑わしきは被告人の利益に」という「白鳥決定」が下され、再審裁判の門戸を開く役割を果たした。村上氏は1969(昭和44)年に仮釈放されたが、1994(平成6)年11月、埼玉県大宮市の自宅で焼死体となって発見された。
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5全協から武装闘争に方針転換
――となると、立場は変わって渡部さんが、当時、白鳥警部殺害の指令を受けていたら犯行に加わっていたかもしれない。そんな党の時代だったということでしょうか。
渡部 極端な話で言えば、そういうことですね。私も独身の活動家の基準で選ばれて日電三田工場のレッドパージ反対闘争を支援する「南部プチロフ行動隊」に加わり、反米ビラを撒きましたからね。これが翌年の蒲田糀谷の反植民地闘争にいなって暴発したのです。ご存知のように、日本共産党は、1951(昭和26)年10月の5全協(第5回全国協議会)以降、武装闘争の時代(注2)に入っています。後に左翼冒険主義といわれる暴力闘争路線にカジを切ったのです。それは、紛れのない事実です。
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武装闘争の時代:日本共産党は5全協以降、それまでの合法的な平和革命論から武力による暴力革命へ、いわゆる武装闘争の方針に転換。表向きの組織とは別に秘密地下組織として、全国の都道府県、その傘下の地域単位に各軍事委員会が設置され、地域には闘争の実施部隊である中核自衛隊が組織された。党が発行した秘密文書「球根栽培法」「新しいビタミン療法」などには、軍事組織の作り方、戦略・戦術、武器の調達・製作の方法などが具体的に書かれており、これに基づいて軍事訓練なども実施された。このほか、農山村での革命の拠点づくりを目指す山村工作隊、祖国防衛隊などもつくられた。こうして主に警察、米軍、公共施設などを襲撃する本格的な軍事闘争が展開され、それは朝鮮戦争が休戦となる1953(昭和28)年7月ごろまで続いたとされる。
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――白鳥事件も、そうした軍事闘争の一環だったというわけですね。
渡部 その通りです。冤罪ではないという根拠を説明する前に、私のことをお話ししておきましょう。私は終戦の翌年16歳で郵政省の東京貯金局に就職し、1950(昭和25)年5月に日本共産党に入党し、11月にレッドパージされました。
党の非公然活動に入り、地下に潜行しました。非公然活動では、党の中央組織局(大衆運動綜合指導部)のテクをやりました。テクというのは、非合法の連絡や会議場所の設営などを担当する秘密技術部です。公然化した6全協以降は、神奈川県鶴見で未組織労働者を組織して労働組合運動、60年安保闘争、その後ベトナム反戦運動などに携わりました。
――地下に潜行してテクをやっていた時に、党の大物幹部と知り合うのですか。
渡部 潜行当時から六全協によって公然化したのち、さらに70年にかけて石川島播磨重工の田無工場(ジェットエンジン製造)の研磨工として、田無反戦を組織して活動した時代まで党の裏側を見ることができたし、大物幹部と接触し、深い交流をすることができました。名前を挙げると、政治局員クラスでは、志賀義雄(元衆院議員)、志田重男(国内指導部責任者)、椎野悦朗(元臨時中央指導部議長)、伊藤律(元党政治局員)、長谷川浩(元党政治局員)、鈴木市蔵(国鉄労組元副委員長、臨時指導部員)、御田秀一(組織部長)、)吉田四郎(北海道地方員会元議長)などです。ここに列挙した人物は全員が故人になっています)の各氏とは、親しくさせてもらいました。いずれも党の中枢にいた人たちですから、白鳥事件のことは、そういう人たちから詳しく聞いていました。このうちの何人かは、上京すると、私の自宅を定宿にしていたし、この人たちの葬儀や追悼会も私が担当しました。志賀、椎野、鈴木、御田氏は、その死後、各氏の資料整理をまかされました。それが社会運動資料センターの基礎資料になりました。志田重男は私が神奈川に行って労働者工作をする決意表明したとき、「所帯をもって落ち着いてやれ」と激励し、仲人になりました。私のかみさんは彼の女房が世話してくれのです。伊藤律は私が彼の遺言の執行者で、文藝春秋から、のち彼の遺稿『伊藤律回想録』を出版しました。吉田四郎の最期は経済的な苦境を私が援助したのです。こんなわけですから、白鳥事件が党の組織的な犯行というのは、当時から私にはわかっていました。
埋もれていた裁判資料をボランティアで製本化
――渡部さんは、戦後の党関係の様々な資料を収集・分析し、研究成果を発表しています。白鳥事件についても、膨大な裁判資料を収集・整理するなど研究を進めているそうですね。
渡部 ええ、白鳥事件は私の青春時代の忘れがたい事件ですし、友人たち(北海道地方委員、深倉其義氏)が関与していますので強い関心を持っていました。そんな折、この事件を研究している北海道の知人から白鳥事件の裁判資料を見たいと協力を求められたのです。調べてみると、長野県松本市の司法博物館に裁判資料一式が保存されていました。これは、事件の主任弁護人、杉之原舜一氏(故人)が保管していた札幌地裁、同高裁、最高裁の全裁判資料でした。段ボール箱30数個に入れられたままで未整理の状態にありましたが、同博物館関係者からこの整理を依頼されたので、原本のコピーを提供してもらうことを条件にこれを引き受けました。こうして私は、多くの友人の協力を得て、1年半をかけてボランティアで整理・製本化しました。全部で156冊にのぼる「白鳥事件関係裁判資料」が完成し、2002(平成14)年3月閲覧室で公開され、記者会見をおこない、テープカットして、華々しくスタートしましたが、2008(平成20)年、財政難から同博物館は松本市に移管となり、とたんに裁判資料はお蔵入りとなってしまいました。公開されては困る人たちの仕業といきり立ち、情報公開法にもとずいて白井久也氏(日露歴史研究センター代表)が手続きして調べましたが、真相はわからずしまいでした。そこで、私は、限られた友人に「白鳥事件裁判資料抄録」(上下、150頁)を30セット作って配っています。とにかく、この裁判資料を読めば、事件の核心がすべてわかります。冤罪ではないことが明白になります。
有罪の根拠となった「追平雍嘉(おいだいらやすよし)上申書」(手記)を発見
――たとえば、その資料から具体的にはどんな事実がわかるのでしょうか。
渡部 その裁判資料によると、当時の日本共産党北海道地方道委員会の下にあった札幌委員会の組織的な犯行であることを、検挙されて脱党した3人の党員が詳しく自供しています。とくに追平雍嘉氏(札幌ビューロー委員)が自分の入党の経過、地下組織の全容、事件の詳細を述べた「追平雍嘉上申書」(手記)は、有罪判決の根拠の1つとなった重要な証言です。この上申書の存在は分かっていましたし、彼の供述は裁判資料にありますが、私が整理するまで本人が執筆した「手記」は行方不明でした。たまたま私が整理する中で発見できました。その全文は、これまで明らかにされていませんでした。裁判資料による供述書や裁判長の訊問記録などは「手記」にもとずいているから彼の供述の根本資料と言えるものです。
それによると、札幌委員会には、地下組織として軍事委員会があり、その責任者が委員長の村上国治氏です。彼の指示で事前に白鳥警部の銃撃作戦が練られ、拳銃の射撃訓練を実施。さらに北海道大学の学生を中心とした中核自衛隊の隊員が数グループに分かれて、白鳥警部の尾行を開始し、銃撃の機会をうかがいます。実際に銃撃をした実行犯はポンプ職人の佐藤博という人物(事件後中国に逃亡、1988年1月14日に病死、月刊「治安フォ―ラム」)、因みに宍戸均は同年2月7日死去)であることなどが詳細に述べられています。犯行翌日に追平氏が佐藤氏の自宅で、佐藤氏から犯行の具体的な状況を聞く部分があります。その一部を抜粋してみます。
「(追平氏が)『やったなー』と炬燵のわきに立ったままで言うと、『誰がやったと思う』と、ヒロ(佐藤博氏)が真剣な顔つきで言うので『君だろう』と言うと、『うーん、どうしてわかった』と、多少警戒するような様子で、またどうしてわかったのだろうという顔つきで、慌てた様子であった」
「また自転車の上から乗ったまま、ピストルを撃つのはどうやったのか、非常に興味があったので、『どうやって撃つんだ』というと、ヒロは『後ろからペダルをとめて手拭(?)に包んだまま出して、後ろから撃った』『しばらくそのまま走っていたがガックリとした』と言っていた」(以上原文のまま)
――生々しい証言ですね。脱党して転向した3人の供述は信用できないという言い方をする人もいますが、具体性があって信用できると渡部さんはみているわけですね。
渡部 ええ、詳細に分析してみましたが信用できますね。弁護団は佐藤直道、追平雍嘉、高安知彦たちの証言の微細な証言の食い違いと矛盾点を衝いて、「信用できない」としていますが、私はむしろそれが当然だと思っています。高安知彦を例にとれば、彼が逮捕されるのは翌年の6月9日です。1年4箇月も経っているのです。「そこに誰がいたか」、「それは何時、何時ころだ」と追及されても細部に記憶がずれるのはむしろその方が真実だと思っています。
事件立証の決め手はまだ他にもあります。しかし、それとは別に当局の証拠のねつ造の疑いも出てきました。真相に迫る事件のタネは尽きません。
(続く)
渡部 富哉(わたべ・とみや)氏略歴 1930(昭和5)年東京生まれ。日本共産党元活動家。社会運動資料センター代表。46年郵政省東京貯金局に就職。50年日本共産党に入党し、レッドパージを受けたあと、翌51年労働組合の書記となり、その後、非公然活動に入る。6全協以降は造船所の労働者として労働組合を結成し、60年安保闘争を闘う。61年石川島播磨田無工場に研磨工として入社。同時に田無反戦を組織し、ベトナム反戦や数度の造船合理化と闘う。85年に定年退職となり、「徳田球一記念の会」理事となる。著作には、伊藤律のスパイの冤罪を立証した『偽りの烙印』(五月書房)。『生還者の証言』五月書房などがある。
「メディアウォッチ100 2012.3.16. 第159号」より許可を得て転載。
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<講演会・白鳥事件60年目の真実>
主催 社会運動史研究会、現代史研究会、ちきゅう座、社会運動資料センター
1. 日 時 4月14日(土)午後1時~5時
2. 場 所 明治大学リバティータワー
※教室については3月中旬確定
千代田区神田駿河台1-1 (JR お茶の水駅下車3分)
3. 講 師 ① 渡 部 富 哉(社会運動資料センター)
演題 「裁判資料から検証する白鳥事件」
② 中 野 徹 三(札幌学院大学人文学部教授)
演題 「北海道大学の学友たちが体験したこと」(仮題)
③ フロアー発言(事件関係者、研究者)
4. 参加費 資料代 1000円
※講演では事件の経過は省略します。松本清張著『日本の黒い霧』、山田清三郎著「白鳥事件」などをお読みになってお出かけください。
申し込みは 葉書またはFAXで
〒201-0002 狛江市東野川3-17-2-912
由 井 格
Fax 03(3480)1392
追記。講師に高安知彦氏(事件関係者)が参加し、質問に答えます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0808 :120318〕
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