日本はどんな社会に向かうのか(その2)
- 2012年 3月 25日
- スタディルーム
- 岡本磐男
まえがき
以前に書いた論稿において、私は日本の資本主義のシステムが、商品販売が円滑に行われず限界に近付き、ついには破綻に陥れば、民主主義国家自身も財政危機を中心に危機に陥ることがありうると指摘しておいた。実際、大阪市長橋下徹氏が率いる「大阪維新の会」は勢力を増強しつつあり、地方と国家の政界に2千数百名の議員候補を送りだそうとしている。民主主義下では何も決定されないという実情を踏まえて、こうした独特な―独裁の言葉をも許容する―政治集団の人たちが政界に送り込まれようとしているのは、明治維新という市民革命―最も維新が市民革命またはブルジョア革命とはいえないという所説があることも承知しているが、その点はともかく―が、国民大衆にとっても光り輝いた社会変革の時代であったことを物語るものであろう。確かに徳川幕藩体制末期に、尊王攘夷を旗印に掲げて台頭した長州藩、薩摩藩、土佐藩の下級武士層の人たち、例えば高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬に代表されるような革命の志士たちに人気が集中するのもそのためであろう。
明治維新の特質
明治維新は、徳川封建体制から(西欧型の)近代的な代議制国家の体制・資本主義社会の体制への転換期であった。徳川封建体制は、貴族と平民(ないし奴隷)という階級関係ないし生産関係に依拠する古代の社会と、領主と農民という生産関係に依拠する中世の社会から引き継いだ身分制の社会であった。徳川時代の末期には、封建体制は内的矛盾を抱えて行き詰まっていた。その体制とは農民層が自らを支配する武士層に対して貢租としての米を5公5民の割合で納める搾取のシステムであったが、農村に市場経済(ないしは商品経済といってもよいが、厳密にいえば両者の概念は一致しない点もある)が浸透し、貨幣が流通するにつれ、武士層は―奢侈な生活に陥りがちとなり―農民層に対して苛斂誅求を強めるようになったため貧困な農民が増えていたからであった。そこで下級武士層が立ちあがった。下級武士層は封建社会を鳥瞰して言えば、被支配層としての農民に対する支配層ではあったが、他方では上級武士層からは抑圧されていた。それゆえに身分制を廃止するために決起したのである。もっとも徳川封建体制が崩壊するのは他方では、黒船来航という外的要因もあったことはいうまでもない。だがそれにしても下級武士層は、決起後に自らは社会の支配層ではなくなるかもしれぬと予想しながら―実際に、維新後に没落した武士は大勢いた―大義名分に依拠して決起したのである。
所有関係の変革
明治維新はしかしながら単に領主(および武士)と農民という生産関係を変革したのみではなかった。維新といえば廃藩置県を重視する見解が多いが、それ以上に秩禄処分と地租改正(これによって土地は商品化された)が重視されねばならぬ。即ち後者によって土地所有は次第に武士層から裕福な農民(または地主)層へ移譲されるようになる。即ち、維新の革命は所有関係の変革をも伴ったのである。維新の成立の頃には日本の商人資本もかなり富を蓄積しつつあったが、これに追加して明治政府の殖産興業政策も重要な役割を演じたことによって、近代資本主義社会が漸進的に成立するようになる。こうしたことは、今日の「大阪維新の会」の関係者、支持者たちもおおむね理解している事態かもしれぬ。
「維新の会」の関係者の理解
だが多分、「維新の会」の関係者たちは、今日、日本が直面している危機の状況は、資本と労働との生産関係にまでメスを入れねばならぬほどの深刻なものであることを理解していないのではあるまいか。その点は、彼らが提案している「船中八策」を読めばわかる。これによれば彼らは、主に地方分権の推進、強化のための統治機構改革や行財政・公務員制度の改革及び首相公選制の導入や参院改革のための憲法改正などの方針を主張しているのであるが、こうした政治機構の改革や法改正は、今日の日本の経済システムの発展や失業問題や貧困の救済にはほとんど寄与せぬものであろう。要するに彼らは、市場経済のシステムに起因する問題をほとんど理解していないのである。
今日の格差社会とは
今日の日本社会の最大の問題は、格差社会と貧困の問題にあり、これによって社会全体に閉塞感が漂い、若者も夢と希望を見出せないでいる、ということは、大方の人々が認識していることのように思われる。もっとも、近年、格差社会という場合、種々の側面から人間相互の間に格差が生じているといえることは確かである。その点に簡単にふれるなら、以下のようにいえる。第1には、大企業における社員間の給与格差がある。この点ではいわゆる正規社員(労働者)と非正規社員(労働者)との間の給与格差がしばしば取り上げられる。第2には、大企業の労働者と中小企業の労働者との間の賃金格差である。この点については既に高度成長期の頃から、日本の産業は大企業と中小企業との二重構造から成り立っており、両者の間には賃金格差がある点が指摘されてきた。第3には、10年ほど前から指摘されるようになったが、大都市の職場と地方都市の職場とでは、かなりの所得格差があるという、地域間格差である。第4には、家庭間に所得格差があることによって、高所得の家庭では立身出世の高学歴のコースを辿らせるような良好な教育環境を与えられうるが、低所得の家庭では、その反対の教育環境しか与えられないという、所得格差に伴う教育格差が最近とみに指摘されるようになった。
大企業における格差とは
このように一慨に格差社会といっても種々の側面から捉えうるものであるが、我々にとって特に興味深い格差は、やはり都市大企業における正規労働者と非正規労働者の関係の問題である。二種の労働者の平均給与は、前者が年収400万円強であるのにたいし、後者は200万円程度であり、比率はほぼ2対1であるといわれている。だが問題はこれにとどまらない。従来は大企業のサラリーマン(ホワイトカラー)という言葉が使われ、現場労働者のブルーカラーと対比される管理部門における企業人を表示していたが、今日ではメディアでもこの言葉は使用されなくなり、企業の中のどの程度の割合の人がこれに該当するかも統計上明示されることもなくなった。先に労働者の正規と非正規の所得格差が関心事であると述べたが、それは現象面のそれにすぎない。真の関心事は別にある。ここで私が言いたいことは、資本主義経済とは、資本が商品の生産過程をつかむことによって、商品による商品の生産がおこなわれる経済という意味であるが、その経済システムでは労働者に支払われる賃金は、本来は商品としての労働力の代価であるにもかかわらず、労働者の支出する労働に対する対価であるがごとく捉えられることによって、このシステムが階級社会であることが隠ぺいされていることである。(賃金が労働に対する対価ではなく労働力商品の対価であるということは、賃金額が労働者本人と家族が必要とする生活資料の額に規制される点に明らかであろう)だが実態は階級社会なのであって、資本家対労働者の関係を基本的社会関係とする生産関係が存在するとみなければならないのである。今日の資本家層は、大企業・大株主と経営者からなるのであるが、大株主の所得は捉えきれないにしても、大企業経営者の所得は労働者の賃金の10倍にも20倍にも上っているとみてよかろう。
大企業における階級関係
大企業の経営者はこう考えているのかもしれない。自分たちは学生時代から激しい競争に打ち勝ってきた。自らの努力によって、能力と資質が養われてきた。それゆえ自分の得る所得・収入が労働者の賃金の何倍かになるとしてもそれは当然である、と。我々もまたいかなる経済システムであろうと、その発展のためにはある程度の競争の要素は必要なので、企業に働く人たちの間にある程度の所得格差が生ずるのはやむを得ないとは思う。それにしても今日の日本の資本主義企業における経営者、労働者間の収入の格差はあまりにも著しく拡大し過ぎている点に問題があろう。特に今日のように情報経済化が進み、これによってロボットを操作したり、キーボードを打ったりボタンを押したりする単純労働が増えつつあり、この単純労働は企業の事務管理労働分野においても浸透していると思われるから経営者の独自性(知識)を発揮する分野は少なくなっているのではあるまいか。この点を考えるならば、今日の大企業経営者の収入は過大にすぎるといえるのではないか。
生産物の過剰と貧困
大企業経営者が正規労働者より非正規労働者の方を好んで雇用する傾向がある(実際今日では、非正規労働者の人数は1700万人に及んでいる)のは、非正規労働者ならば、商品が売れず、景気が悪化する際に、容易に解雇できるシステムが出来上がっているためであろう。労働者が解雇され失業者となれば、当分の間は失業手当で食いつなぐか、生活保護を受けるしかない。現在では日本の失業者数は280万人ほどになっているが、こうした貧困者が増大すればそれだけ消費は停滞し、景気は停滞的となることはいうまでもない。景気が停滞するということは、商品生産物が売れず過剰にあり余っているということである。即ち、今日のように技術革新の進展した資本主義経済の下では、一方では物としての生産物が過剰に存在しているにもかかわらず、貧困者が多いためにこれを消費することができないという矛盾が現れるようになることである。
物の生産は消費のためであるはず
本来、生産物の生産とは、人間がこれを消費するために行われるのが自然の、あらゆる歴史を通じて現れる、当然の原理である。だが資本主義市場経済システムの下では、生産は直接には消費と結びついてはいない。それは、このシステムの下では、商品の生産が直接には消費のために行われるのではなく、資本の利潤追求のために行われるという方式をとるためである。生産と消費の間に利潤追求という問題が介在するためである。資本主義社会における最大の問題性はこの点に帰着するのである。
今日の世代間格差の問題
さて現在の日本の格差社会の問題からやや横道にそれてしまったが、今日最も重大視されている日本の格差問題は、以上にみたものではなく、以前の論稿に書いたような世代間格差の問題である。即ち老齢化社会がこのまま進展していくと、年金生活者が増大していくから、年金生活者を支える若年層、壮年層の人たちの負担が漸次増大していくという問題である。この問題に対処するためには、高齢者の定年を延長させ、高齢者をこれまでのように60歳で仕事からリタイアさせるというのではなく、更に5年、10年と退職の年齢を引きのばすようにし、年金の支給開始年齢を68歳とすべきである等と、最近の政府当局者からも提案された。だが今日の大企業において、労働者の定年の年齢を68歳とか70歳にまで延長する等ということは、例え賃金を半分に引き下げるとしても、所詮無理ではなかろうか。それは企業の経営活動に厳しい制約を課することになる。それは企業の収益が上がらない以上、壮年者をリストラの対象にしたり、学卒者を採用しない等、の措置を取らざるをえなくなるからである。
定年退職後は協同組織体へ
それゆえに私見では以下のようにすればよいと考えている。それは60歳位で定年退職した人たちは、とりあえず農業関係、食糧関係を中心とする数10人規模の協同組織体を構築し、生産活動と当事者同士で生産物の公正な配分と消費を行うようなシステムを創り上げるということである。ここではメンバーの定年は75歳としてもよい。その際には生産物の生産は、メンバーの消費需要に即応して行われるようになる。またこのシステムでは市場経済下の貨幣―銀行券や預金通貨―などは使用しない。自給自足―といってもその組織のそれであるが―が原則である(もっとも、貨幣に代わる指図証券や労働証券が必要となることはありうる)。更に生産される生産物は、消費財に限られず生産財(投資財)にも及ぶようになる。またこうしたシステムが発展すれば、単に農業生産物、食糧に限られず、衣料品、日用品、住宅、電気製品等々にも及んでいく。60歳前後で定年に達した人たちは、15年か20年位はこうした自立的システムの下で働けばよい。
共同体の復権
こうした共同体経済というのは、実は、古代、中世の階級社会、徳川封建制の階級社会においても、農民、漁民の間で脈々と受け継がれてきた自給自足経済であろう。古代、中世においても狭隘な流れをなして市場経済は存在していたが、歴史的発展の基軸は計画的な共同体経済であった。明治維新後、特に第二次大戦後の日本の市場経済の発展は、何世紀にもわたる村落共同体の経済の破壊の歴史であったといえるのだろうが、現在では資本に支配されない共同体経済を復権させることが重要なのではあるまいか。
今日の日本の市場経済の矛盾
今日の日本資本主義のシステムの下では、高度な科学技術の発展によって産業の高度化、情報化、複雑化が進展し、生活必需品としての商品も質的、量的にきわめて多彩なものとなってきた。また人口も増大した。それゆえに往時の、例えば徳川封建時代のシステムに戻すことは不可能なのではないかとの反論もあるであろう。だが私は、こうした考え方には賛同しない。私はいかに現在の日本の経済システムが発展し、生産力が向上しているにしても、失業者が累積し続けるという矛盾が消失しないならば、人間社会としては退歩していると認めざるを得ない。それゆえに、高齢者間のみにおいて、都市または地方において、共同体主義的な社会の構築が発展することを希望しているのである。もっとも、高齢者間のみならず、60歳に達しない壮年層の人たちの間でも、こうした社会的傾向が発生するならば、それはそれで歓迎さるべきだろう。
情報化と共同体経済
計画経済または経済の計画化というと、一般にはソ連型社会主義の計画経済が想起され、あの経済システムの下では、計画当局によって消費財の需要情報が十分に捉えられなかったために、市民、大衆は消費財の不足に悩まされたと論じられる傾向がある。だが今日では、もとよりコンピュータ、通信、情報技術等を中心とするハイテク技術の高度な発展によって、計画当局は一定地域内の人々の需要情報など瞬時に捉えられるし、またこれに対応した生産物の生産量・労働量を計算することも容易にできるであろう。それゆえ現在の絶大な生産力をもってすれば、我々が想定する共同体的社会は決して貧しいものではなく、豊かな社会を築くことが可能と考えるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study462:120325〕
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