“国産”のイスラム・テロリストに戦慄する欧州 -乱射事件は犯人射殺で一件落着したが… -
- 2012年 3月 26日
- 評論・紹介・意見
- イスラム過激派ユダヤ人学校乱射事件伊藤力司
フランス南部の大都市トゥールーズで起きたユダヤ人学校の乱射事件は、犯人のモハメド・メラ(23)が特殊部隊の警官に射殺されて一件落着した。犯人はフランス生まれのアルジェリア移民2世、フランスの公教育を受けて育った若者であった。彼が国際テロ組織「アルカイダ」のメンバーを自称する“国産”のイスラム過激派テロリストに育ったことは、欧州を戦慄させている。
フランスのみならず欧州諸国はかつてイスラム圏に多くの植民地を従えていた歴史ゆえに、北アフリカ、パキスタン、トルコなどから来た多数のイスラム教徒の移民を抱えている。その2世、3世はキリスト教社会に受け入れられず、定職に就けず、疎外感を持っている。その反動として欧米文化に反感を抱き、欧米に庇護されるイスラエルを憎む。彼らはいわば欧州“国産”のテロリスト予備軍であり、モハメド・メラはその典型だった。欧州のメディアが報じた材料から彼の短い人生を振り返ってみよう。
モハメド・メラはミッテラン長期政権時代の1988年10月10日、トゥールーズ北部の貧民街ベルフォンテーヌで生まれた。両親は南仏に多いアルジェリアからの移民で、兄2人、姉1人、妹1人という5人きょうだいの4番目。少年時代はサッカーに夢中だった。そのころは、同じアルジェリア移民2世のジダン(1972年マルセイユ生まれ)が「欧州で最も優れたサッカー選手」の称号を受けた全盛時代。ジダンの活躍のおかげで、移民2、3世の肩身が広くなり始めていた。
モハメドが思春期を迎える前、ぐれた青少年に共通する不幸体験といわれる両親の離婚に見舞われ、父親は家を出て行った。やがて母親は5人の子供を連れて、北部のベルフォンテーヌから市の中心部に近いイザールのアパルトマンに引っ越した。そこで14歳になる前のある夜、モハメドは初めて家出をした。イザールからベルフォンテーヌまでは地下鉄で15分もかからない。夜のベルフォンテーヌは「危ない街」で、良家の子女は近づかない所とされている所だ。
だが、そこはモハメドが子供時代を過ごした街であり、幼馴染が多かった。友達には「麻薬をやっている」(麻薬を打ったり、麻薬の売り買いをする)者がざらにいたが、モハメドは麻薬はやらなかった。しかしコソ泥やひったくり、無免許運転などの「悪さ」の常習犯で、ベルフォンテーヌ警察の記録では少年時代に計15回補導され、未成年の非行を扱う軽罪裁判を6回受けている。
2006年9月、18歳の誕生日を目前にしたモハメドは少年刑務所から出所、トゥールーズ市内の自動車修理工場で見習いの仕事を世話してもらった。仕事は主に板金作業だったが、彼は各種の自動車に触るだけで喜び、自動車のメカニックに熱中した。学業は得意でなかったが、身体を動かすことは好きだったというモハメドは工場主にも可愛がられ、工場主は当局に対し彼の保護司を務める手続きも進めたという。このまま修理工場で働いていれば、一人前の自動車修理のメカニシアンになれただろう。
ところがその翌年、彼は昔の友達と組んで市内の銀行の出口で、ある女性のハンドバッグをひったくる窃盗事件を起こしてしまった。その事件の裁判で、モハメドは2007年12月から2009年9月まで1年9カ月の禁固刑を宣告された。この入獄期間中に、彼はイスラム過激派のイデオロギーに目覚めたらしい。すなわち、出所してから彼の振る舞いは目に見えて粗暴になった。例えば、モハメドに息子がジハード(イスラム教の説く聖戦)に参加しろと口説かれたと、苦情を言いに来た昔の知人に対して「お前なんかぶっ殺してやる」と怒鳴りつけた。
さらにモハメドが自分の弟に戦闘訓練中のアルカイダのビデオと見せたとして、苦情を言いに来た知り合いの女性にサーベルを突きつけて脅したというエピソードも報告されている。また小学校時代に親しかった友人に、覆面したテロリストの姿で催涙ガス弾を見せてジハードへ参加するよう促し、断られると「お前を粉々に砕いてやりたい」と罵ったこともあったという。
欧州のテロ研究者によると、イスラム圏からの移民2世、3世が入獄中に仲間からイスラム急進主義の手ほどきを受ける例が多く、刑務所は“テロリスト養成所”の役割を果たしているという。獄中でイスラム急進派に成ったモハメドは2010年と11年の2回、パキスタンとアフガニスタンに旅行する。彼はこの旅行中、パキスタン北西部のタリバンの聖域とされるワジリスタン地区でムジャヒディン(イスラム聖戦士)の訓練を受け、アルカイダに加入したと主張している。
昔の友人たちによると、モハメドは1日5回のメッカ礼拝とラマダン(断食月)での断食は続けていたが、アフガニスタンから帰国後もイスラム過激派のようにあごひげを長く伸ばすこともせず、だぶだぶのズボンもはかなかった。だからイスラム過激派風には見えなかったと、友人たちは証言している。彼は“不良少年”時代に、アーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「ターミネーター」のビデオに熱中していたことも知られている。人を殺す武器に執心していたともいわれる。彼は出獄して間もなく、フランス陸軍に志願したが断られ、さらにパキスタン旅行に出かける前、外人部隊に応募したが撥ねられたという経歴もあった。
2011年のアフガニスタン旅行中、南部カンダハルで爆弾所持容疑によりアフガン警察に逮捕され、米軍に身柄を引き渡された。米軍は間もなく、正規のフランス旅券を持ったモハメド・メラをフランス行きの軍用輸送機で送り返した。この時米政府は、モハメド・メラをテロ容疑者として米民間機への搭乗と米国への入国を禁止する手続きを執った。フランス治安当局も帰国したモハメドを隋時監視下に置いた。しかしこの随時監視はかなり緩やかだったようだ。
自称アルカイダの一員であるモハメド・メラは、2012年3月11日の日曜日に最初のテロを実行する。トゥールーズ北方50キロの小都市モントーバンにはフランス陸軍の基地があるが、この街でスクーターを売りたいという男と待ち合わせた1人の兵士が、至近距離からの拳銃弾で射殺された。拳銃を撃ったのはモハメドだった。そして同17日(土)には、モントーバンの現金支払機の前で待ち合わせた2人の兵士をモハメドは射殺、もう1人を負傷させた。
さらに19日月曜日の朝、モハメドはユダヤ人学校にスクーターで出掛け、登校してきた児童や付き添いの保護者に向けて拳銃を乱射した。児童3人と付き添いの父親(同校の教師でもあった)1人が即死、17歳の高校生が重傷を負った。犯行を終えたモハメドは、大混乱の現場を後にスクーターに乗って逃走した。念の入ったことにモントーバン市街とユダヤ人学校の犯行現場で、彼は胸に付けた自動カメラで犯行の一部始終を録画していた。
さて、モハメド・メラを監視していたはずのトゥールーズ警察もやっと事態に気付いた。内務省に報告して国家警察特殊部隊の出動を仰ぎ、21日(水)の午前3時30分(日本時間同日午前10時30分)から、彼の閉じこもったアパルトマンを包囲した。モハメドは特殊部隊の警官と携帯電話で断続的に会話を続けた。警官の呼びかけに応じて投降してもいいような意思表示もしたが、結局は32時間に及んだ包囲戦にしびれを切らした特殊部隊が22日午前11時30分にアパルトマンに突入。浴室に隠れていたモハメドは突入警官を逃れようと地上に飛び降りたが、狙撃手の警官に頭を撃たれ、すぐ死亡が確認された。
これで、犯行動機の解明やテロリストとしてのモハメド・メラの自白を得る機会は永遠に封じられた。しかし包囲の間に警官と交わした会話で、彼はユダヤ人学校を襲ったのがパレスチナ人の子供たちを殺しているイスラエルへの報復であること、フランス軍兵士を殺したのはアフガニスタンへ派兵しているフランス軍への抗議と復讐であると語っていた。また、フランスが公共の場で、イスラム教徒女性のヴェール着用を禁止したことに抗議するとも言っていたという。
インターネット上にいくつも開かれているイスラム急進派のサイトは、世界のどこでも誰でも見られる。キリスト教社会のヨーロッパで、イスラム教徒であるがゆえに差別され、疎外されている移民2世、3世たちがこれらのサイトにアクセスした時、彼らの心に何が起こるか。「自由」「平等」「同胞愛」の3色旗の掲げ、世界に先駆けて人権宣言を発したフランス。そのフランスで生まれ、差別を肥やしに育ったイスラム・テロリストが起こした今回の惨劇の内包するものは複雑だ。
テロリストは殺害されて一件落着したが、一部始終を目撃したイスラム教徒、ユダヤ教徒がキリスト教徒主体の欧州に混在している現実は変わらない。異なる宗教を信じる者の共存は可能なのだろうか。八百万の神を祀る日本人から見ると、一神教の世界はなかなか大変だ。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0826:120326〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。