幼小被曝を生贄にした原発の虚構解体をめざして「大同」を!
- 2012年 11月 29日
- 評論・紹介・意見
- 原発ゼロ社会実現蔵田計成
(1)福島第1原発事故からすでに1年8ヵ月が過ぎました。事故による福島県の放射能汚染は突出しています。福島県にとどまらず、東日本全域が累積被曝の危険にさらされています。県庁所在地別の測定値でみると、3/11事故前の「平常空間線量」を基準にすると、福島市の被曝線量率は約「25倍」になっています。福島県に隣接した東北5県は「3倍~4倍」、首都圏は「2倍~3倍」を超えところもあります。数倍も高いホットスポットはそのなかに点在しています。このまま時間が過ぎれば、深刻な事態を招くでしょう。
被曝防護の原則は汚染を拡散させないで、これを封じ込め、累積被曝の進行を防ぐことです。汚染廃棄物の広域処理は汚染の「拡大」であり、これは論外です。いまだに、由々しい事態が続いています。セシウム含有物を焼却することの危険性は世界的に確認されていますが、いまだに焼却処理は続いています。焼却試験で安全性を確かめることもなく、各自治体は、放射能汚染廃棄物や下水汚泥を焼却し、広域処理を強行し、汚染を拡大させ、被曝を累積させています。
(2)米国L・R国立研究所元副所長ジョン・ゴフマンによると放射線による「傷つきやすさ」、すなわち「被曝感受性」は、被曝したときの年齢(被曝時年齢)に著しく敏感です。幼少世代の被曝感受性は極度に高くなっています。0歳児の被曝感受性は、大人(46歳)の被曝感受性の「30倍」です。5歳児は「26倍」、10歳児では「21倍」に達しています(ゴフマン理論の解析は近日別稿予定)。
では、ICRP(国際放射線防護委員会)は放射線の被曝感受性をどのように考えているでしょうか。ICRPは「年間1ミリシーベルト(Sv)・2万人被曝」という条件では、「被曝ガン死者1人」を想定しています。しかも、この「被曝ガン死数」は年齢とは無関係に成立するものとしています。では、このICRPモデルは適正といえるでしょうか。
ゴフマンは被曝感受性の年齢による違いを解明しました。たとえば、被曝したときの年齢が46歳以上の場合は、被曝「累積1ミリシーベルト(mSv)・2万人」「被曝ガン死=1人」以下と算定しています。この被曝ガン死は、先のICRPモデルと同程度の被曝リスクです。
ところが、ゴフマンモデルは年齢別の被曝感受性のちがいに着目して、被曝したときの年齢別に「被曝ガン死者数」を算定しています。その結果、ゴフマンモデルは年齢と被曝感受性は逆比例の関係にあり、被曝時の年齢が低くなるにつれて「被曝リスク」は激増していることを論証しました。
たとえば、0歳時の被曝集団では、同じ「1mSv」「2万人被曝」「被曝ガン死=30人」にも達します。これが被曝感受性「30倍」ということの根拠になっています。結局、同じ「1mSv」の被曝線量であっても、子どもは大人(中年世代)の「30倍」程度の「被曝ガン死」という、大きな被曝リスクを負うことになります。
ICRP(日本政府追随)は、このようにゴフマンが指摘した幼少時被曝の危険性を無視して、「一般公衆」という名のもとに「被曝線量限度」「年間1mSv」を設定しています。だが、この全世代一律の限度基準はどうみても不条理です。この線量限度「一般公衆」「年間1mSv」という設定は、幼少世代にとってはあまりにも過大です。被曝防護を骨抜きにしてしまいます。
このような被曝感受性における年齢差を考えたとき、被曝時の年齢差を無視した「被曝線量限度」の設定は、到底許されるものではありません。だが、このような被曝感受性の年齢差無視は、原発国家が内包する本質的な矛盾です。高い「線量限度」を設定することによってしか、採算可能な原発コストを維持することはできないからです。年少世代の切り捨ては必然です。この矛盾を止揚するためには「原発ゼロ」しかありません。
(3)チェルノブイリ事故の経験が示しているように、除染の効果に過大な期待を寄せることは禁物です。とくに幼少世代の被曝は避けるべきです。若い世代の避難は最優先課題です。にもかかわらず、子どもたちはいまだに汚染地域に閉じ込められています。避難したくても避難できないその背景には何があるのでしょうか。そこには政治的無為無策という現象が目につきますが、その根っ子には重大な構造的欠陥が存在しています。
行政は、あるべき被曝防護策とは逆を演じています。累積被曝を避けるための避難策ではなくて、汚染地域に閉じ込めるための除染策を優先させています。では、本来の被曝防護策の実現を阻んでいる要因は何でしょうか。その根底には、幼少期被曝の危険性に対する基本的認識が広く共有されていないという事実があります。それに加えて、いくつかの阻害の実態や要因を指摘することができます。
① 政府、東電をはじめとした、政産官学の責任回避、自己保身。被曝対策の政治的不在。
② 原発共同体による利権の暗躍、原発の再開・維持を目論む経済的強欲。それを支える原発の「便益」偽装志向が、事態の深刻さを覆いかくしていること。
③ 自治体が、徹底した住民の被曝防護や避難よりも、住民の故郷志向にこと寄せて、自治体行政維持を優先させていること。
④ 除染に過大な活路をもとめて、汚染地域への呼びもどし策という本末転倒を演じ、結果として、幼少世代に犠牲を強いていること。
(4)福島第1原発事故がもたらした汚染は、東北、関東、首都圏全域に広がっています。この核災害は原発開発史の転換点にならざるを得ないでしょう。核兵器開発を偽装した「核の平和利用」という虚構、それを支えた物質文明主義的価値観を含めて、人類史的発展の意味を根元的に問い質すことになるでしょう。
これを先取りするかのように、3/11事故以来「原発再稼働反対、原発ゼロ」の声は大きな流れになっています。その流れと高まりは、戦後46年食糧メーデー(50万人)、60年安保闘争(30万人)に次いで、3番目に大きい集会(17万人~20万人)となりました。この運動高揚の背後には、「原発ゼロ社会の実現」こそ、人類共通の利害にかかわる重要な歴史課題であるという思いが、広がりと、高まりをみせているからでしょう。その意味では、「原発ゼロ社会実現」の運動は政治イデオロギーや政治党派性を超えた「絶対的核廃絶論」にも通じる重要な政治的、社会的、人道的課題といえます。これは将来世代の生存、人類の存亡にかかわる歴史課題であるとともに、広島、長崎に次いで、福島第1原発事故という3度目の惨禍を強いられた私達の責務でしょう。
(5)過去の歴史過程と現実の政治的結果を直視したとき、そこに至る運動の蹉跌から目を背けるわけにはいきません。おそらく、いま運動主体の側で現状に対して無念さをかみしめている人達は少なくないと思います。過去のかかわり方いかんにかかわらず、共通な試練として重く受け止め、次なる飛躍をめざすべきです。そのためには、克服すべき運動上の問題点があります。これまでのような市民運動の行動様式や枠を超える協働行動が求められています。その上に立ってこそ、強大な権力をもつ核・原発利権に立ち向かい、その野望を打ち砕く力を獲得することが必要です。この原発ゼロ社会実現という人類史的な課題に応えるためには、社会的、政治的、実践的な「大同」が求められています。大同をめざした目的意識的な努力、選択、決意が迫られています。なにはともあれ、「いまというとき」を逃したら、千載に悔いを残すことになるでしょう。現世代が残した核廃棄物の負担を減らして、未来世代への生存を脅かさないためにも「連帯」と「大同」は欠かせません。原発ゼロをめざす運動の求心力を高めるには、論理と思想を獲得し、運動の回路を切開くことが重要です。そのような思いを共有し、連帯の輪をひろげ、政治的社会的影響力を強めていくことが、何よりも必要です。その成否は近・現代史の帰趨を決するでしょう。
補足1 東日本の汚染の実態を「事故前空間線量」による倍率でみる
福島県庁2階で計測している11月の「大気中の環境放射線量」は、ほぼ「毎時0.91マイクロシーベルト(μSv)」(換算年間8mSvに相当)を記録しています。この線量は、福島第1原発事故前の平常時に記録した環境中の「空間線量」の「23倍~25倍」になります。さらに、線源30km地域南相馬市附近のホットスポットに至っては、「280倍」(11月、測定市民グループ)という異常値を記録しています。以下は、ある日、ある地点の線量を、事故前の平常線量と比較したに過ぎませんが、ひとつの傾向を示しています。
① 宮城県仙台市若葉区では「3倍~3.8倍」(11月、保健環境センター測定、比較)。
② 東京江戸川区河川堤防上部「4.4倍」(10月、江戸川区測定)。
③ 東京町田市小川町路上「2倍~5倍」(11月、市民測定グループ)。
なお、ここでもとになる事故前の基準線量には、測定条件の違いによって生じる一定の幅があり、均一に設定することはできません。たとえば、以下の通りです。
① 文科省資料(註1)実測「全国平均空間線量毎時0.036μSv」(換算年間0.31mSv)。
② 福島県が除染開始の際に基準にした線量「毎時0.04μSv」(換算年間035mSv)。
③ 東京都新宿(百人町、新大久保駅近く)、地上18m、12日間の平均「毎時0.034μSv」(換算年間0.29mSv、註2)。
④ 文科省集計:事故前全国空間線量の平均最小値「毎時0.033μSv」、平均最大値「毎時0.082μSv」、中央値「毎時0.057μSv」(換算年間0.5mSv)がある。ただし、事故前平均値はこの中央値を、「0.01μSv~0.02μSv」は下回るものという専門家もいる。
これら上記の数字から推定すると、事故前の空間線量は「毎時0.034μSv~0.04μSv」と推定することができます。これを基準にして、各地域の汚染度をみると、ひとつの目安になるでしょう。
(註1):文科省集計「放射線モニタリング情報、過去の結果、都道府県別環境放射能水準調査結果」(平成23年3月12日~13日)」。測定日は事故直後であるが、実質的には、「事故前線量」と同じ。現在の線量は文科省「大気中の環境放射線量」、毎日新聞12年11/10。
(註2):東京都新宿・事故前空間線量平均=毎時0.034μSv、測定期間:12年3/1~12、1日平均、東京都健康安全研究センター。
ただし、雨の日はラドンの線量が高くなるという一般的な気象条件があります。また、環境放射線には地域差があり、一律には論じられません。首都圏では富士山の噴火によって覆われた関東ローム層などの影響で地殻線量が遮られています。西日本では花崗岩が多い地域があるとか、中国大陸からの黄砂などの影響を指摘する研究者もいます。さらに「もともとインチキな線量を、いい加減な測定線量と比べること自体が無意味である」という見方もあることを付記しておきます。
補足2 事故前の空間放射線量に関して、見逃せない「過去の事実」を指摘しておきたいと思います。それは、政府による自然放射線量の操作がきわめて欺瞞にみちたものであったという事実です。
国連科学委員会は1988年(チェルノブイリ事故の2年後)に、当時の「自然放射線量」を世界の平均「年間2.4mSv」、日本の平均「年間1.4mSv」と発表しました。
ところが、福島第1原発事故の発生直後、当時の枝野官房長官はこの「日本の平均」を「世界の平均」と同じ線量「年間2.4mSv」にすり替えて、故意に、1mSvも底上げしていました。
御用専門家も、先にみた日本の事故前の実測値・平常空間線量が「年間0.31mSv(毎時0.036μSv」であるにもかかわらず、あたかも、自然放射線量が「年間1.4mSv」であるかのごとく論じていました。こうして、事故直後から自然放射線「年間1.4mSv説」がメディア上で飛び交ったのでした。
だが、「自然放射線量」は外部線量と内部線量の合計というのが学問的には常識中の常識です。この「自然放射線量」は、「外部(被曝)線量」(空間線量)と、経口摂取や吸入摂取による「内部(被曝)線量」(通常の線量計では測定できない)とを合計した線量です。また、人体が浴びる自然放射線の内外比は約「55:44」で、外部被曝線量(空間線量)の方がやや少なめです。いま、当時を振り返ってみると、無念としかいいようがありません。この被曝線量の実態に関して、当時の世間は無知を余儀なくされたわけです。
事故後はじめて、文科省が「外部線量」(空間線量)「年間0.67mSv」を公表したのは、事故半年後でした。それはあの「校庭20mSv論争」の際の「学校において受ける線量の計算方法について」(11年8/26)のなかでした。ところが、この「年間0.67mSv」は、先の実測値「外部線量」(年間0.31mSv)の「2倍」です。
果たして、この重大な事実は何を物語っているでしょうか。宇宙線や地殻から浴びる「外部(被曝)線量」を、実測値の2倍と設定していたことを意味します。この「インチキ線量」が20年以上もの長期間にわたって罷り通っていたことになります。
いずれにしても、東北を中心にした東日本の汚染と被曝の累積は決して予断を許しません。とくに、このまま事態が推移して幼少世代の被曝リスクが顕在化すれば、その時点から「安心神話」は吹き飛ぶことになるでしょう。しかし、それでは遅すぎます。徹底した被曝防護策が必要です。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1086:121129〕
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