官製英語教育
- 2013年 5月 7日
- 評論・紹介・意見
- 英語藤澤 豊
5月5日の朝日新聞朝刊のトップ記事に「官僚もTOEFL必須」があった。官製プレスリリースを編集しただけの記事だろうが、何が問題なのかという視点を完璧に欠いた、だらしのない内容だった。あまりのだらしなさに話題にするのも気が引けるのだが、問題は記事のだらしなさで収まりつかないところにある。
まず、見出しの解説を引用させて頂く。「キャリア官僚採用試験にTOFELなど民間の英語試験を取り入れ、海外で活躍できる人材を育てるため、まず官僚の英語力を高めるという方針という。」
ここまで読んで、おいおい、何を言い出したのかと呆れるのだが、さらに呆れるのが続いていた。「高級官僚の昇進にもTOEFLで一定の点数をと言い出したら、現役組から不安と抵抗が広がって、見送ることにした。」
英語圏の大学が非英語圏からの留学生の英語の能力を測るものとしてTOEFL、非英語圏の社会人の英語能力評価にTOIECが国際標準の試験のようになって久しい。ならば、TOFELでもTOIECでも評価ツールとして使う価値があるのであれば使えばいいと単純に思いかねないのだが、それでは済まない奇形化した日本の英語教育がある。
まず、些細なことを済ませておきたい。新聞では、TOEFLとTOIECの二つを民間の英語試験として取り上げていた。まあ、新聞記事だからしょうがないのだが。TOEFLもTOIECどちらも米国のNPOが“うまく”やっている非英語圏の人達を対象とした米国版英検だが、“民間の英語試験”がそのままTOEFLやTOEICということにはならない。“民間の英語試験”ということでは、英検も公益財団法人日本英語検定協会がやっているのだから、建前で言えば、英検も立派な“民間の英語試験”の一つのはず。それとも、英検は民間の検定試験ではなく、官製の検定試験なのか?雑な記事の揚げ足をとってるほど暇じゃないが、日本の英検では使い物にならないから米国版の英検を導入することになると、はっきり書けないのか。
日本と海外を股にかけて外資を渡り歩いてきた者からすれば、そもそも英検とはいったい何なのかと思っていた。お役所のお墨付きを頂戴した「実用英語技能検定」という正式名称からして胡散臭い。わざわざ“実用”と銘打つからには、暗に日本の英語教育“産業”には“実用でない英語検定”とか教育があることを揶揄してのことだろう。そこまでの認識(自覚と言ったら失礼か?)があっての上で、今度はというか、こっちは“実用”ですとの看板「実用英語技能検定」を掲げているのかと思いきや、現実は“実用”の名が泣くとしか言いようがない。
高度成長期前までは、フツーの人達にとって欧米という意味での海外は遠い存在だった。一握りの人達が特別な存在として英語に接する機会を持っていたに過ぎない。そのような環境下では、蘭学事始の延長線にあるような政府御用達の英語を多少でも嗜めば、フツーの人達から一端の英語使いとして崇められる社会があった。
ところが、高度成長期も中頃になると、フツーの人達にも海外が身近な存在になって、あっという間に海外が特別なものではなくなった。多くの人達が仕事や実生活で海外を体験し、日本語の英語ではなく英語を英語として使う、使わざるを得ない経験が珍しいものではなくなった。ハワイに新婚旅行が夢だった時代から、ハワイじゃ新婦が納得しない時代になって久しい。ここまでくると、日本の英語教育産業が長年メシの種の一つとしてきた「実用英語技能検定」の“実用”の部分が擬物であることを隠しきれない。
問題は、「実用英語技能検定」の実用性云々に限られる訳ではない。限られているであれば、ことは簡単で、新聞記事にあるように米国版英検を評価ツールとして導入すれば事足りる。問題の本質は、英検に至るまでの日本の学校における英語教育全てに、それを構築し守ってきた組織と文化にある。お偉い学者さんと英語教育産業とそれを取りまとめてきたお役所が営々と築き上げてきた、よくて教養の一環ででしかなく、実生活では使い物にならない英語教育をそのままにして、ただ、官僚の採用試験に米国版英検を採用すれば解決するような問題ではない。ちょっと考えれば誰にも明らかなはずだが、新聞記事ではこのことに触れていない。分かってて書かないのか、書く能力がないのかそれとも書けないのかが気になる。
学校の英語教育は、大雑把に言えば義務教育の中学で三年間に高校で三年と大学の教養課程で二年ある。短い人でも三年、長い人ではざっと十年近く使い物にならない官製英語教育の犠牲者にならざるをえないシステムがある。英語の勉強に割く時間でみれば、日本は、おそらく世界でも有数の英語教育が盛んな国の一つだろう。そして学者に教育産業、そしてお役所の立派な教育体制と労多くして功少なしの英語教育という点では、世界に類のない先進国だろう。このだらしのない官製英語教育体制のおかげで実用を売り物にした英会話学校が蔓延っている。
英語は植民地政策の過程でカドが取れて、母国語としない人達にとって習得しやすい、使い易い言語になった。フツーの人が、フツーの勉強方法で適当にやれば日常生活にたいした不便のないレベルの英語能力を身につけられる。三年もあれば十分過ぎる。それにもかかわらず、日本の官製英語教育では丸三年勉強しても、実生活で使えるというレベルには至らない。多くの場合、残るのは英語は苦手という英語コンプレックスだけだろう。一言で言えば、官製英語教育は英語コンプレックス製造システムということになる。
一部の不勉強な生徒や学生が習得できないのではなく、圧倒的多数が実用に耐える英語を習得できない。とんでもない時間をかけて習得できるのは、はっきり言えば習得しなければならないのは実用にならない英語のレベルを評価する実用という視点を欠いた試験をパスするための実用にならない英語以外ではあり得ないという官製英語教育体制がある。これは、誰の目にも、問題が学ぶ側にあるのではなく、教える側にあることを事実として実証している。
学ばなければならないことが山のようにある若い人達、次の社会を背負って立つ若い人達の貴重な時間が官製英語教育に浪費されている。恐ろしいことに、浪費は在学中で終わらない。社会人になって仕事で英語が必要になったときに、学校教育の延長線にある英検の受験勉強をする、させられる人達がいる。なかには、最短でも三年、長ければ十年近く使い物にならない官製英語教育で、その勉強の仕方では英語に限らす外国語の習得は難しいと実証されているにもかかわらず、官製英語教育の勉強方法でFOEFLやTOIECの受験準備をする人達までいる。
歴史を遡ってもしょうがないのだが、日本の官製英語教育を作り上げてきたお偉い学者ども、英語教育産業とお役所、それを真に受けてきたというよりプロパガンダの役すら果たしてきたマスコミ、まっとうな見方をすれば、人様の貴重な時間を無駄に消費させてきた社会的な犯罪者だ、と言ったら言い過ぎか?
官製英語教育全ての問題であることに言及せずに、開明派を気取った経営陣に追従してのことだろうが、米国版英検採用がどうのと言い出す政府とそれを聞いて保身を主張する優秀な官僚、でてきたものを官報よろしく垂れ流すマスコミ、ここまでくると、英検がどうの、TOEFLやTOIECがどうのという瑣末なことではないような気がしてくる。
そのうち、日本人は漢字の本来の意味をきちんと理解していないのが相互理解の障害だ。勝手に変な意味にしたり、変な使い方をするから話が通じなくなる。十四億人が正しく使っているのだから一億かそこらの日本人は十四億人の正しい使い方を勉強しろと、お隣の国から苦言を呈されて簡体字での漢検なんての、まさかないだろうな。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1290:130507〕
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