沖縄から見た橋下発言(上)-沖縄から(4) -根底に無意識の差別意識-
- 2013年 7月 5日
- 評論・紹介・意見
- 山根安昇橋下徹沖縄
日本維新の会共同代表・橋下徹大阪市長の「慰安婦発言」や「風俗活用発言」が国内外に大きいな波紋を巻き起こしている。なぜそうなったのか、発言の一方の当事者にされた沖縄からその問題点に触れてみたい。
そもそもこの発言は「軍隊と性」の問題を日本人(本土人)と朝鮮・韓国人、アメリカ人と沖縄人、本土人と沖縄人の四者の関係において、歴史的、現実的認識に基づいてなされたものだが、発言の論旨を貫いているのは橋下氏の傲慢な“差別意識”である。人間に対する、人種や民族に対する、少数弱者に対する、いわれなき差別である。
発言の反響の大きさに驚いて、あれこれ釈明したり陳謝したりしているが、恥の上塗りに過ぎない。ただそれだけのことなら、橋下氏の政治家としての資質の問題として片付けられないでもないが、問題は橋下氏だけでなく、彼の周辺や支持者の中に彼と同様な差別意識者の層があるということである。例えば維新の会の平沼赳夫代表代行は「慰安婦は戦地売春婦」だの「強制の証拠はない」などと、まるで慰安婦たちが自由意志で戦地へ売春に行ったといわんばかりのことを平然という。慰安婦にされた人たちにとっては、まさに踏んだり蹴ったりである。憎悪すら覚える発言だが、共同代表や代表代行の中にこのような「日本民族至上主義」の意識があるということは、維新の会の中にそのような独善的な差別主義者がそれこそ“うようよ”しているということであろう。
在沖米軍の性のはけ口として、もっと「風俗活用をしては」とのアドバイスにしても、なぜ沖縄に米軍がいるかという本質的なことを問うこともなく、対症療法的に沖縄の風俗業をあてがえと平気でいう。いわれた米軍司令官さえ顔を凍てつかせるようなことを。ここにも本土人の沖縄人に対する無意識の差別意識がさらけ出されている。
この発言、アメリカの側から「侮辱するな」と一喝され、「言葉の選択が間違っていた」と陳謝したものの、沖縄に対しては一言のお詫びもない。このアメリカと沖縄に対する姿勢の違いは、日本人の強者と弱者に対する心理の一端を示したものといえる。
よくアメリカは「罪の文化」、日本は「恥の文化」といわれる。沖縄でアメリカ人と日本人の違いを注意深く観察して見ると、その違いがよく分かる。アメリカは民主主義を建て前としている国だけに、米兵の粗野で下劣な人権無視の行為に対して、ある種の“恥じらい”を感じているようなところがある。今回の「侮辱するな」の怒りの反発もその現れであろう。ときには恥を合理化するために、強弁することもあるが。罪の意識の片隅に恥の意識も付随している。
ところが日本人の場合“本音と建て前”をうまく使い分けているせいか、罪の意識と恥の意識があまり感じられない。日本も民主主義の国だそうだが、民主主義とは縁もゆかりもない差別意識が時々顔を出す。無意識の意識として立ち現れるだけに、たちが悪い。差別の意識がないだけに、罪の意識もなければば恥じることもない。米軍基地の74%をこの小さな沖縄に押し付けても、そのことを罪とも恥とも感じない。本音と建て前をご都合主義的にうまく使いわけているうちに、人間の良心ともいえる恥の意識も罪の意識もなくなってしまったのではないか。そこにあるのは「大和民族の尊厳」を守るという日本民族至上主義の打算があるだけだ。ヒトラーの思想とあまり変わらない。
かってロバート・C・クリストファは、日本の7不思議のひとつとして、日本の差別意識を取り上げ、「日本人に日本人として認めてもらうためには、日本人に生まれる以外にない」と、日本人の“血の信仰”を日本民族の不思議としてあげている。さらにクリストファは、日本は同質社会といいながら同じ日本人を“被差別民”として扱い、在日朝鮮人を被差別民として扱うと指摘している。彼は、日本人が国内の差別問題を取り扱う方法は、「差別が存在している事実を認めない、ということだけである」という。痛烈な批判だ。
もともと日本の歴史は、同じ人間を上は“神”から下は“非人”まで分類区分けし、千年以上も人間を差別した歴史であった。それは今も「タテ社会の構造」を支えている潜在意識として残っている。日本人のこの差別意識は、人間の尊厳を基本とする民主主義の天賦人権思想とは相容れない。
原爆によっても、マッカーサーの絶対権力によっても、神が人間になるという奇跡によっても、三百十万人もの戦死者の血によっても、洗い流すことのできなかった蒙古斑点のような日本人の差別意識。今回の橋下発言や平沼発言は、この潜在的な差別意識がはしなくも露呈したものといえる。差別に苦しめられてきた沖縄人にとってただ一つの救いは、国内はもとより国際的にも多くの人たちが、この発言を許せぬものとして批判していることである。沖縄の諺に「ゆくしむにや、じょうまでん通らん(邪な言葉は門までも通用しない)」というのがある。沖縄のひとは良くものごとを見ていたともいえる。(続)
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