国家百年の計
- 2013年 8月 1日
- 評論・紹介・意見
- 国家民族藤澤 豊
遠くに探検旅行にゆくとき、誰もがその地域に関する出来る限りの情報を集めようとする。もし、その地域の地図があれば、たとえ大雑把なものでも参考にはなる。呆れるほど拙い地図にもかかわらず、十分役に立った地図があった。ヨーロッパが大航海時代に入った頃の地図を見る度にそう思う。当時ヨーロッパで作成された地図は、今日の常識では地図とは呼べない代物だった。測量に基づかず、伝聞や想像、人の思い入れで描かれたものは地図というより絵物語に近かった。その絵物語のような地図でも当時の航海計画-目的地に到達するまでの航路や寄港地(補給計画)を-立てる拠り所にはなった。個々の地域は、たとえ描かれていたとしても、あてになるはずもなく、行って見なければ分からない。それでも、その地図のおかげで、航路-進むべき方角は決められた。
方や時間軸のない空間を表した地図、方や空間のない時間軸に基いた将来の社会のありようなので、地図を比喩として持ち出すことに多少の抵抗がある。抵抗はあるのだが、大航海時代初頭の地図も将来の社会計画も、極端に言えばどっちも人の想像や思い入れで描いた絵物語のようなものという点では共通している。正確さや精密さを問うてもしようのない、本質的にあてにならない要素が大きな、それでも、何を求めてどっちにどのように進むべきかという具体的な計画を立てる拠り所になり得るということでは似たようなところがある。
自然界には人間の時間感覚では変わることのない、定数のようなことも多いが、こと人間社会においてはほとんどのことが、時間の経過とともに変わってゆく時間の函数で、何をするにも、何かが起きるにも時間がかかる。ましてや先進工業国にまで発展した社会が希望する将来へ向けての変化には時間がかかる。衰退や崩壊にはたいした時間がかからないだろうが、次の高次のレベルに押し上げてゆくには今まで以上の思索と努力に時間が必要になる。経済学でいうところの“迂回生産”の迂回ステップが益々増えて、複雑になる。目的に向かって直線的には進めない、何をして、何と何を組み合わせてどこまで進みうるのか、その先に進むための用意は。。。遠の昔から国家レベルの将来への計画や社会全体をどうしてゆくかなどの計画とその実行は一世代で完結するような単純なものではなくなってしまっている。十年や二十年かけた迂回生産のようなプロセスを踏んでも準備段階の手前までしか進めないことすらある。これをして言われてきたのが“国家百年の計”だろう。
明治維新や戦後の復興のときには、モデルとするヨーロッパ社会や米国の産業社会があった。明治維新も戦後の復興も一大事業だったが、そこには手本として使えるモデルがあったから、モデルを模すかたちで国家百年の計を立てるのにさしたる困難があったとは思えない。ちょっと長い歴史的スパンで見ても、日本には中国や朝鮮に手本とし得るモデルがあった。そのモデルを見れば長期的国家計画も立てられ、少なくとも進むべき方角は必然として決められた。ところが、今に目を向けるとどうだろう?日本は、既にヨーロッパや米国と似たレベルの社会経済構造に達して久しい。もう長期的な計画のモデル、時間軸で見た時に大きく先行した模し得るモデルがなくなってしまった。自分たちで自分たちのモデルを作ってこなかった、モデルを作る能力を養ってこなかった日本が方向性を見失った。
何時も大きく先行したモデルがあったことが、最小限の試行錯誤すらすることなく、長期計画を立て、最小限のエネルギ消費で計画を実行することを可能としてきた。この安易な、恵まれた環境が国民国家として最も大事な能力の育成を妨げてきた。その能力を必要としない歴史だったから育成のしようもなかった。今までモデルなしで、自分達で自分達の足元を確認し、自分達自身の遠い将来のあり方を自分達で思索し決めてきたことがない。この能力なしには民族が民族として、国民国家が国民国家として存続し得ない。常に先行国家や民族の後塵を拝するものとしてしか、あるいは、最終的には文化的に吸収される側の存在としてしかあり得ない。
民族が民族として存在し、他からもその存在(価値)を認めてもらえる民族、国家に脱皮するには、自らの現在を核にして、将来を思い描く人材の育成が必須となる。ところがそのような人材がいる必要のない時代が長く続いてきたがゆえに、その人材を育成し得る人材がいない。人材の迂回生産、文化の迂回生産からはじめなければならない状態にあることにどれほどの人達が気付き、何らかの解決策を講じようとしているのだろう?
寡聞のせいか、三年後のありようでですら聞こえてくることがない。目の前の問題や課題に終始し、十年後、次の世代の社会のありよう、そのありようのための今日、来年、再来年。。。何かがあるようには見えない。近い将来も今日と同じように先のことを考えることなく、目先のことでバタバタしているだろう。なにをもってして国として美しい、美しくないといっているのか見当もつかない。何時の時代でもそうだろうが、今は特にそのような言葉の遊びをしている時ではない。民族として、国民国家として、少なくも次世代、その次の世代までくらいまでの、たとえ大雑把なものでも、絵地図も描けないような民族やその国家が、その民族としてあるいは国家として存在し続け得るのか?否だろう。日本人は、日本という国は、百年、二百年というスパンで絵地図を描き続けてきた民族や彼らの文化に吸収される民族であり、国家ででしかあり得ないのか。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〔opinion1389:130801〕
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