陸上の権力が海を「私物化」してよいのか?―「日中共用の水域へ」論が孕む問題
- 2010年 10月 15日
- 時代をみる
- 安東次郎尖閣諸島
日中の領海は隣り合っている?
このサイトに西田勝氏の「尖閣諸島」は、わが国「固有の領土」か 日中共用の水域へ」が掲載されている。http://chikyuza.net/wp-admin/post.php?action=edit&post=3775
私はこの文を読んで、かなり驚いた。
「国際紛争」というのは、各国の利害のみならず、それぞれのナショナリズムが絡み、大変ナーバスな問題だから細心の注意を払って論じる必要がある。ところが氏はそもそもこの水域の基本的な問題を把握されていないのではないかと思われたからだ。
それを端的にあらわすのが、「この水域は、いずれにせよ、日中の領海が隣り合う地域である」という一文。一体何処で「日中の領海が隣り合」っているのか。尖閣諸島がどちらに帰属するにせよ、「領海」が隣り合う事実はない(注1)。
そもそも尖閣諸島の領有権が『問題』なのは、その領有権自体もさることながら、それが広大な「排他的経済水域」に結びつくからだ。
そして日中間の「排他的経済水域」と法的な「大陸棚」をめぐる問題(両国の見解の相違)からすれば、尖閣諸島の領有権の帰趨は、問題の一部にすぎない。
日中は78年に尖閣領有権問題を「棚上げ」にして、「平和友好条約」に調印したが、東シナ海をめぐる日中の問題は、こうした構造を持っていたから、この合意は日中両国にとって有益であった。(もちろんこの合意は、尖閣諸島は日本が実効支配している現状では、日本にとって有利なものである。)
ところが氏は、そうした経緯をどう考えられたか、「いつまでも、この問題を棚上げしておくわけにもいくまい。日本政府は真正面から、この問題に向き合い、「戦略的互恵」を踏まえて中国政府と協議と交渉を進めるべき」などとおっしゃるのだ。
しかし「いつまでも、この問題を棚上げしておくわけにもいくまい」=(はっきりさせよう)という氏の発想は、前原の発想の裏返しでしかない。氏が前原式の「解決法」、つまり「公権力を行使して日本の領有権を明確にする」を捉るのでないのは確かだが、だとすれば、氏はどうされるのか?
要するに氏は「棚」から下ろした問題をどうされるのか?
日本が尖閣諸島の領有権を放棄するべきか?分割するのか?それとも中国に日本の領有権を認めさせる秘策でもあるのか?
強い「ナショナリズム」が支配する「現実の世界」では、そのいずれもが可能とは思われない。そして可能でないのなら、そんな交渉は、結果として両国の「ナショナリズム」を煽るだけだ。
だからこそ「尖閣諸島の領有権問題は棚上げにする」(78年の合意を尊重する)ことが、依然「妥当な」選択なのだ。その上で東シナ海での資源開発等に関する日中間の「合意」と平和的な関係の構築を追求することが、大事ではないか。(ひとによっては「そんなことでは生ぬるい、一戦することも辞さず・・・」と言われるかもしれない。しかし「百戦百勝は善の善なるものに非ず」。)
東アジアでの「パワー・ゲーム」をどう見るのか?
ところで氏は、「今回の尖閣諸島の問題」を「日中間の問題」ととらえているのだろうか?私はむしろ「今回の事件は米中間のゲームではないか」とおもうのだが?
自主外交を志向した鳩山・小沢の退陣で民主党政権は対米従属に戻ったが、その菅内閣の初閣議の決定(領土問題は存在せず)が、今回の事件の発端だったわけだ。
この方針を主導し、海上保安庁をして「逮捕」させたのは前原であるが、いうまでもなく、前原は米国の強い影響下にある。そしてそもそもこの閣議決定は、佐藤正久議員の質問趣意書への答弁に関する決定である。佐藤議員はイラク派遣部隊の指揮官(ヒゲの隊長=陸自一佐)として有名であり、その質問の背景に米『人脈』を想像しても、そんなに的外れではないだろう。
それでは米国はこの6月初旬どんな問題意識を抱いていたのか?これについては、ネット上(注2)でゲーツ国防長官の「シャングリラ・ダイアログ」での演説が紹介されているので、ご覧いただけたなら、幸いだ。
以上のような背景を想い起こすと、6月初めには仕込まれていた(だろう)今回の事件の背後に、米国が浮かびあがってくるのは当然だ。
氏の議論には、こうした米国を含めた東アジアでの「パワー・ゲーム」の分析が欠けているが、これでは「尖閣諸島問題」にたいする有効な分析はできないし、まして東アジア共同体を「眺望する」こともできないだろう。しかしこうした問題点については、別の機会に譲る。
「日中共用の水域へ」に正義はあるのか?
氏の提起は以上のような問題がある(と思われる)が、もし氏の議論が――現実的有効性に欠けても――ある種の「正義」を代表するものであるのなら、私はこれを評価してもよいと思う。
しかし残念ながら、氏の議論には肝心の「正義」が欠けている。それを示すのが、「日中共用の水域へ」という標題だ。「日中が共用する」とは現実には何を意味するか?
この両国は、現実にはともに「官僚制国家」である。日中ともに実権は官僚が握っている。つまり「日中共用の水域へ」とは、東京と北京の官僚たちがこの「海域を支配する」こと以外の何ものでもない。それはベルリンとペテルスブルク(あるいはモスクワ)の権力者たちが「ポーランドを分割しよう」というのと、本質的には変わらない発想だ。せいぜい違いは「共用」という点くらいだ。それとも氏は「東京と北京の間には、両国の領土しかない」とお考えなのだろうか?
しかし氏自身が、「尖閣諸島」は、わが国「固有の領土」だと言えるものではない」と言っている(注3)。まさか氏は「尖閣諸島」が中国の「固有の領土」だと主張するわけではないだろう(注4)。
つまり当該の「水域」は――氏の論理に従えば――本来どちらのものでもないはずだ。それを『両国』で「共用」などと言う権利(正義)が何処にあるのか?(注5)
歴史的に見れば、尖閣諸島のみならず、沖縄も北海道も日本の「固有の領土」などではない。とくに沖縄は今後「独立」も十分にあり得るだろう。
同様のことは中国についても言える。「西域やチベットは中国の固有の領土なのか?」、「台湾は中国領なのか?」と問えば、これを否定する人々の数は決して少なくない。こうした人々(「帝国」には属したくないと思う人々)を無視して「日中両国」権力による「海の共用」が「正義」であるとは、私にはとても思えない。
歴史をほんの少し逆のぼれば、尖閣諸島周辺の海を「自分たちの海」と呼べたのは、他でもないこの海域を自在に航海できた「海民」だけであり、どんな強大な陸上の権力でも、海に出たなら―「海民」の助けなしには―まったく無力だったのだ。
現代においても、琉球列島や台湾の漁民たちは、東京や北京の官僚たちがこの海を「我々の海」などと呼ぶのを聞いたら、必ず憤慨するだろう。
追記。
氏は「國」という字について、次のように言われている。
<「國(くに)」という漢字を解体すれば、自ずから明らかだろう。「囗」は囲いで、まさに領土、「戈」は武器で、口は人で、一は大地だ。>
しかし、これは少なくとも私の理解とは違う。それでネットで調べていたら、阿辻哲次氏の次のような記述にであったので、紹介させていただく。http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0803/index01.html
<「國」は《或》と《□》でできており、《或》は城壁の周囲に「戈」(ほこ)をおくことから、武器で集落をまもる意味を表す。古くは「或」だけで防御態勢を具えた地域を意味し、「國」はそれをさらに城壁(《囗》)で囲んだ形である。>
(注1)日本の領海と排他的経済水域については、以下を参照のこと。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/ryokai/ryokai_setsuzoku.html
中国の主張する「排他的経済水域」については、取りあえず以下を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%B5%B7%E3%82%AC%E3%82%B9%E7%94%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C
かつては「領海」の外は「公海」であったが、いまでは「排他的経済水域」が認められている。しかし「排他的経済水域」は「領海」と異なり、他国の様々な権利が保証されている。なお「領海」も「領土」と比べると、よりオープンな性格を持っている。例えば、他国艦船―軍艦も含めて―の「無害通航権」が認められている。(「海上衝突予防法」なども「国際ルール」であり、「道路交通法」とは異なる。)
これらについて規定した国連海洋法条約の全文は、以下を参照。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/mt/19821210.T1J.html
なお、同法で規定された「大陸棚」については、次の説明がわかりやすい。
http://allabout.co.jp/gm/gc/293566/
(注2)http://holyland.blog.so-net.ne.jp/2010-06-05
(注3)ただし「固有の領土であるか」否かと「相対的に正当な根拠をもって主張しうるか」否かは、区別しなければならないだろう。
また氏は「無主の地」の「領有」について論じている。この場合も「先住者がいた土地に対する侵略」と「『無人島』に対する領有」は区別して論じるべきである。
(注4)氏は中国の領有権の主張の背景にある歴史上の記録を紹介している。しかし歴史上の記録をもって、主権の根拠とするならば、中国の王朝に朝貢していた諸国―朝鮮、琉球、そして倭国(「漢委奴国王」等々)に対して中国は潜在的に主権を持つことになる。現に中国には沖縄にたいする潜在主権を主張する『学者』もいる。
しかしその土地が何処に帰属するかを決める権利(正義)を持つのは、何より其の地に生きて、其の地を「父祖の地」(Vaterland)と呼び得る者たちだろう。
(注5) 先にも指摘した通り「排他的経済水域」においては、他国にも「共用する」様々の権利がある。この点を明確にしないで、「日中の共用」というのは、「他国」との関係からしても問題がある。そもそも「排他的経済水域」の設定の背景には沿岸国のエゴイズムがあることは、否定できない。こうした国家の「エゴイズム」を問題にしない「共用論」は、根本から問題を抱えている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1068:101015〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。