全国学力・学習状況調査と校長名の公表について
- 2013年 10月 9日
- 評論・紹介・意見
- 全国学力調査小川 洋
静岡県の川勝知事が、全国学力調査の一分野で静岡県が全国最低だったことから、記者会見で「成績の悪かった100校の校長名を公表する」と発言した。その後、軌道修正して上位の学校の校長名を公表するに至った。現在(10月4日)も静岡県のホームページに、知事のコメントとともに掲載されている。
知事によれば静岡新聞が社説で「全国学力テスト、最下位とはショックだ」として、学力調査結果を論じたことが契機となったという。新聞で初めて知った知事が、教育委員会にデータの提供を求めたが、データの所在や扱いをめぐってのやり取りがあり、その過程で知事が教育委員会への不信感を募らせたという経緯があったらしい。
文科省は学力調査結果の学校別結果の公表を禁じている。調査目的と調査の性格からして公表されるべきデータではないからである。そもそも文科省は、一度も「学力テスト」の語を使用していない。テストであれば、合格・不合格や序列が示されることになるが、調査はあくまで調査である。県民の健康調査を実施して、疾病率が高い地域の保健所長の名前を公表して批判したりするだろうか。疾病率が高ければ、その地域の衛生環境にどのような問題があるのかを確認して、必要な対策を打つだろう。調査とはそのようなものである。
知事は「学校教育の責任は現場の先生にある」「よい教師に恵まれれば、その学校の教育水準はあがります。逆も真です」と述べている。たしかに教師には子どもの学習指導に一義的責任がある。しかし、学校は工場ではない。原料(生徒)も違えば施設・設備も異なる。静岡県でいえば、浜松などの工業都市には日系ブラジル人家庭が多い。それら子どもたちには、通常の日本語能力を前提とした授業は困難だろう。
世界中でさまざまな学力調査が行われているが、学力を左右する最大の要因が保護者の経済的あるいは文化的地位であることは研究者の間では常識となっている。2000年から3年毎に実施されている国際学力調査(PISA)でも毎回、家庭環境についての調査が同時に行われ、日本も欧米諸国ほどではないが、家庭環境と学力との間に強い相関があることが示されている。
少しでも想像力を働かせれば納得できるだろう。高学歴で安定した収入をもつ両親のもとに生まれ、文化的に恵まれた環境で育ち、さらに学習塾に通ったりしていれば、学校で好成績を取りやすい。一方、生活を維持するだけで精一杯の両親のもとで、あるいは家庭言語が日本語でない家庭で育った子どもにとって、教室で学ぶ知識の多くは初めて触れるものであるだろう。教師も同じ指導法で授業は進められない。
耳塚寛明お茶の水女子大教授らによる文科省の委託研究でも、保護者の所得水準と学力調査での子どもの学力との間に強い関係があるとする分析結果が出されている。ただ、その中にも例外的な学校があり、貧困世帯の多い地区の学校で高いレベルを示すケースがある一方で、落ち着いた住宅街にありながら凡庸な成績となっている学校もある。
日本以上に経済力によって居住地が分かれるアメリカでは、低所得者の集まる地区で好成績を出している学校を"Exceptional School"として研究し、その報告が多く出されている。日本ではおもに関西の被差別部落地区を抱えた学校を対象とした研究の蓄積がある。それらの学校では、やはり教師たちがさまざまな工夫を凝らした学習指導をしている。
知事が、裕福な家庭の子どもたちが大半を占める地区で、結果が思わしくない学校を批判し、困難な条件を抱えているにも関わらず相対的に好結果を出した学校を褒める、という程度に丁寧な作業をして、学力調査結果について発言したのであれば、それなりに納得がいく。
しかし知事は、「成績が上位の小学校の校長名を公表したのは、校長にもまして、その学校で実際に指導にあたっている多数の現場の先生方を褒めるためです」と述べている。ということは、知事が当初、成績下位の学校の校長名を公表しようとしたのは、腹いせのように「現場の先生方を貶そう」としたわけだ。数値だけから判断して、教育委員会からの制止を振り切って学校を非難しようとしたことは、軽率の誹りを免れない。
いじめ問題への不適切な対応など、教育委員会への不信感の高まりを背景として、首長が教育行政に関与を強めようとする傾向が強まっている。大阪市では橋下市長が「学校の活性化のため」に多数の民間出身者を校長に任命した。しかし、その過半が就任半年以内に不祥事を引き起こしている。学校教育に性急な変革を求めて首長が手を突っ込んでも、あまりよい結果はでない。教育委員会制度のあり方に課題が多いことは確かだが、首長の教育行政への権限拡大が問題を解決するどころか、悪化させることが多いのも確かだ。
最後に全国学力調査そのものの問題点を指摘しておく。
第一に、文科省自身が、何のための調査なのかを十分に説明できていないことだ。PISAでは「学力」の定義を明確に示しているが、文科省の学力調査の出題については、毎回、専門家からも批判が繰り返されている。数十億円の費用を使って-その大半は採点手数料として民間企業に支払われている-、授業を一日中断して行うには、あまりに根拠が薄い。民主党政権は抽出調査+希望校に変更した。全国の傾向を把握するのであれば抽出調査で十分であるからだ。ところが自公政権が復帰した今年度はろくな説明もなく悉皆調査に戻った。
第二に、調査結果が現場での学習指導改善に役立てられないことだ。4月末に実施して結果は夏休み明けである。それでなくても新しい学習指導要領によって教える内容は増え、授業時間数も増えている。教員には学力調査結果を受け取り、分析し、指導方法を見直すという一連の作業をする余裕はない。
第三に、毎回の出題の難易度がコントロールされていないため、時系列的な変化がわからないことである。子どもたちの学力低下がしきりに言われているが、論者たちは印象論だけで発言しているのである。子どもたちの学力が下がっているのか、下がっているとして、どのような学力が下がっているのか、その議論に参考になるデータを提供していない。
第四に、マスメディアや首長のプレッシャーから、教育委員会や現場の校長たちの間に学力調査「対策」に取り組む動きがあることだ。一部の教育委員会では学力調査に先立って授業時間を削って、同様の出題に慣れる準備をさせたり、極端な例では特定の児童・生徒を調査から外したりするような動きも報じられている。
川勝知事の主張で完全に同意できる指摘が一カ所ある。「子供の能力の開発に生かせないような『全国学力・学習状況調査』は不要ではないかとも思いました」という部分だ。文部省には、これに答える義務があるはずだ。
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