「女の子にも教育を」と訴え、実践してタリバンに撃たれた少女 --
- 2014年 2月 14日
- 評論・紹介・意見
- 「わたしがマララ」伊藤力司書評
「わたしがマララ」マララ・ユスフザイ、クリスティーナ・ラム著
金原瑞人、西田佳子訳 (学研パブリッシング、428ページ 1680円)
世界中でベストセラーになった話題の書「わたしはマララ」は、女子教育に反対するイスラム教過激派タリバンの勢力が強いパキスタン北西部スワート地区で生まれ、育った15歳の少女が「女の子にも教育を」と訴え、実践したためタリバンに拳銃で撃たれ、瀕死の重傷を負いながら志を貫く物語である。少女の名前はマララ・ユスフザイ。これは傷のいえたマララが綴った、16歳までの彼女の人生の記録である。
この銃撃事件は全世界に衝撃を与え、命を懸けて世界中の女の子が教育を受ける権利があることを、身を以って訴えたマララは一躍有名人となった。スワート中央病院で応急処置を受けた後、パキスタン北西部の中心都市ペシャワールの総合病院にヘリで搬送されて緊急手術を受けた。弾丸は額から右の耳に貫通していたが脳を損傷していなかったので、辛うじて命は取りとめた。
事件にショックを受けたパキスタン政府と軍のお声掛かりで、マララは最高レベルの集中治療室のあるラワルピンディの国軍病院に再び移送されて集中治療を受けた。その結果合併症が治療され、最低限の小康状態が得られた。この段階で米英や、ドイツ、シンガポール、アラブ首長国連邦などから、マララの治療は自国の病院で引き受けたいとの申し入れが殺到。これらの申し出でを検討したカヤニ・パキスタン陸軍参謀長は、旧宗主国イギリスのバーミンガムにあるクイーン・エリザベス病院を選んだ。
もとよりこうした経緯は、マララの知らないところで進んでいた。マララが銃撃されたのが2012年10月9日。6日後の10月15日、マララはアラブ首長国連邦が提供した豪華ジェット機で英国に到着、バーミンガムのクイーン・エリザベス病院に入院した。数日後パキスタン政府の配慮で、マララの両親と弟2人がバーミンガムに到着。以後一家はバーミンガムに滞在することになる。
ひとりぼっちで英国に来てさびしかったマララは、家族と再会して元気を取り戻した。銃撃で損傷した顔面神経の蘇生手術や、緊急手術で頭蓋骨の一部をカットしたのを修復する手術など、予後の試練を乗り越えたマララ。ザルダリ・パキスタン大統領がクイーン・エリザベス病院にマララの見舞いに訪れ、国際的に大きく報道された。
2013年7月12日はマララの16歳の誕生日。潘基文(バン・キムン)国連事務総長の招待でニューヨークの国連本部を訪れたマララは、素晴らしいスピーチをした。「わたしは世界の指導者に世界じゅうのすべての子どもに教育を与えてください、と呼びかけた。」「本とペンを持って闘いましょう。それこそが、わたしたちのもっとも強力な武器なのです。ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです」
スピーチが終わると、400人を超す聴衆のスタンディング・オベーション(全員が立ち上がって拍手を続ける)が起こった。ニューヨークに同行した家族はこの光景に立ち合って感激した。マララの母は泣いた。父はマララが世界じゅうの人たちの娘になったと言った。この感動的なスピーチはもちろん全世界に伝えられた。
スピーチの映像を見た各国の識者の間から、マララにノーベル平和賞をという声が挙がり、ノ―ルウェーのノーベル平和賞選考委員会まで届いた。史上最年少の平和賞候補者である。この報道でマララの名前はさらに知名度を増した。マララ一家はパキスタン政府・軍の意向で、今も異郷のバーミンガムに暮らしている。
マララや両親は故郷のスワートに帰りたくでたまらないのだが、帰れない。もしマララたちがスワートに帰ってから再びタリバンに襲撃されたら、パキスタン政府・軍の面目は丸潰れになる。パキスタン軍は2009年5月から7月まで、スワートに大軍を派遣してタリバン征伐大作戦を行い、マララ一家の住む町ミンゴラからタリバンを追放した。だが、周辺の村に潜むタリバンのゲリラ活動は止まっていない。
それはパキスタン北西部からアフガニスタンに住んでいるパシュトゥン民族が、タリバンの主力だからである。人口約1億8千万のパキスタンにパシュトゥン人は15%、ざっと2700万人。人口約3400万のアフガニスタンのパシュトゥン人は38%、ざっと1290万人。おおよそ4千万人のパシュトゥン人がこの両国に住んでいる。そして両国のタリバンは、ほぼ100%パシュトゥン人で構成されているのだ。
本書の主人公マララもまぎれのないパシュトゥン人である。そもそもマララという名前はパシュトゥン民族の歴史的ヒロイン「マイワンドのマラライ」にちなんだものだ。マイワンドはアフガニスタン南部の中心地カンダハル西方の町。マイワンドの羊飼いの娘マラライは1880年の第2次アフガン戦争で、アフガン兵士を鼓舞して英軍を退けた戦いの英雄である。10代のマラライは英軍兵士に撃ち殺されたが、死の前に「愛すべきマイワンドの若者よ!このマイワンドで死ぬ覚悟がないのか。生きながら恥をさらすつもりか」と訴え、奮起したアフガン軍が英軍を全滅させたのだった。
パシュトゥン人の子供たちはみな、マラライのことを教えられて育つ。マララの父ジアウディンは1969年、スワーナ渓谷の一角で貧しい知識人である教師の家に生まれた。彼が10歳の時旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻、パキスタン国軍、CIA(米中央情報局)の支援を受けたパシュトゥン人青年たちがムジャヒディン(イスラム義勇兵)となって、ソ連軍とジハード(聖戦)を戦った。彼らがタリバンの源流である。
ジアウディン少年も義勇兵になりたかったが、まだ子供だったから諦めた。やがて苦学して大学を卒業、友人の妹であるトール・ペカイと恋に陥り、パシュトゥン社会では異例の恋愛結婚をした。最初に生まれた女の子に、父ジアウディンは迷うことなくマララと名付けた。パシュトゥン民族の誇りを娘に継がせたかったからだ。周囲は男の子でなくて落胆したが、ジアウディンは女の子誕生でも有頂天になった。
パシュトゥン社会は今でも、明治の日本のように圧倒的に男性優位の社会である。女は子供を産んで育て、夫の世話をすればよい存在とされている。だから女性に教育は必要ないとされ、現にマララの母も学校に行かなかったから文字が読めない。しかしジアウディンは、女の子も教育を受けるべきだとの信念の持ち主だった。そこで彼は、志を共にする友人と協力して私立学校を開き、因習を破って女の子も通学させようと苦闘する。
こういう家庭に育ったマララは6歳になると、父の経営する学校に学び始めた。クラスはもちろん男女別々である。マララは年少のクラス時代から勉強好きで成績優秀。試験の成績はいつもクラスで一番という努力家だ。学校では勉強の他に、級友たちと遊んだり、芝居をしたり、絵を描いたり、遠足に行ったり。マララは学校生活を充分楽しんだ。
マララは母語であるパシュトー語の他に、パキスタンの国語であるウルドゥ語と旧宗主国の言語である英語を自由に話せる。だからバーミンガムの病院でも医師や看護師と自由に意思疎通ができる。パシュトゥン人でパキスタンの学校に通った者なら、この3カ国語を操ることはごく普通のことである。英国の植民地であったことの功罪というべきか。
マララの生まれる4年前の1989年、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長はアフガニスタンからのソ連軍撤兵を実行する。ムジャヒディンの勝利であり、彼らを支援したパキスタン、米国、アラブ諸国の勝利であった。やがてムジャヒディンを源流とするタリバンがアフガニスタンの主要地を制圧、1998年にはほぼ全土を掌握してタリバン政権が生まれる。
アフガニスタンでのタリバンの勝利は、パシュトゥン人が多く住むスワーナ地方におけるタリバンの威勢に直結した。パシュトゥン民族はもともと保守的イスラム教徒で、女性に教育は不要、女性は外出する時はヴェールをかぶらなければならないとする習俗の下にあったが、タリバンはシャリーア(イスラム法)を厳格に適用するとして、女性抑圧の度を強めた。
教育家のジアウディンは、タリバンが伸長したスワーナ地方でタリバンに抗して女子教育の普及に奮闘した。マララは父の同志として、英国BBC放送のウルドゥ語番組のウェブサイトにグル・マカイという変名で学校生活を語る日記を掲載することになった。タリバンが幅を利かせる地域で、女の子が学校に通う日常のスリルと恐怖。そしてついに2012年1月、タリバンはマララともひとりの女性活動家を名指しで「このふたりはイスラムに反する考えを民衆に広めようとしている」として、インターネット上で死刑宣告を下した。
それを知らされたマララ一家だったが志は変えず、マララはヴェールをかぶらずに登校を続けた。そして運命の2012年10月9日、下校する女子生徒が乗ったスクールバスがタリバンに襲われ、マララたち3人が重傷を負った。結果として3人とも命はとりとめたが、このドラマはスワーナ地方のイスラム社会が抱える激しい相克を映し出した。
1947年英領インド帝国は、インドとパキスタンに分かれて独立した。イスラム国家パキスタン建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーはこう言っている。「男女が力を合わせなければなにごとも達成できない。世の中にはふたつの力がある。剣の力とペンの力だ。そしてもうひとつ、それより強い力がある。それは女性の力だ」と。
本書はマララ・ユスフザイと、南アジア事情に詳しい英国人女性ジャーナリスト、クリスティーナ・ラムの共著である。マララの綴った言葉を材料にクリスティーナがきちんとした英文に仕上げたもののようだ。原著は“I am Malala”THE GIRL WHO STOOD UP FOR EDUCATION AND WAS SHOT BY THE TALIBAN である。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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