日本国憲法の原理とマルクス主義
- 2014年 8月 5日
- 交流の広場
- 熊王信之
ちきゅう座で、武田明氏が御健筆を奮っておられますが、以前の稿で「本来、憲法の精神を順守する国家を実現するのであるなら社会主義、共産主義国家は、必然の道」と云われる一文に疑問を抱きましたので、既に退職に依り法律実務からは離れた身でありながら、憲法を参照した次第です。
以下の一文は、マルクス主義法学徒ならば当然の理屈ですが、簡単に条文参照の結果を述べたものですので御許しを願います。
「全文抜粋― 国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」
―即ち、一定階級の独裁等とは絶対的に無縁の原理で有る「国民主権」を基としていることを宣言したものと云うべきでしょう。 マルクス主義とは無縁の原理を基礎にしているのが日本国憲法です。 マルクス主義と、歴史的に経験を重ねた諸国民衆の経験が集積された日本国憲法原理とは全く相違したものなのです。
「第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
「第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
「第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
―これ等の他にも基本的人権に関わる規定には、一定階級を除く旨の規定は存しないのであり、如何なる意味に於いても「階級」等の恣意的定義において人権の享有を妨げられることが無いのが日本国憲法の原理です。 マルクスやレーニンの政治思想とは根本的に相違します。
「第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」
―基本的人権規定の中でも、本条が、マルクス主義とは決定的に相違するものです。即ち、如何なる事由に基づいても、私有財産を禁止出来ないのです。 しかも、この規定は、生産手段の私有か国有かと云った制度の議論では無く、人権規定なのです。 人が生まれながらに持つ権利として私有権があるのです。 人類の長い伝統から導き出された原理です。 民法は、この原理をこう規定しています。 「私権の享有は、出生に始まる。」(第三条 第一項)、と。
「第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」
「第六十五条 行政権は、内閣に属する。」
「第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」
―これ等の各条は、三権分立を定めたものです。 マルクス主義のプロレタリアート独裁原理に基づく政治制度とは相違します。 中でも、第41条は、「国権の最高機関」と謳っています。 国民の信託を受けた機関である故でしょう。
「第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
―この規定は、マルクス主義がアプリオリに一定階級に依る独裁を持って目標達成を図るものであるところ、正しく正反対に「人類の多年にわたる自由獲得の成果」を「過去幾多の試練に堪へ」たものとして「現在及び将来の国民に対し、―中略― 信託されたものである」と我々国民一人一人に対しての期待と自覚を求めるものです。
このように、政治原理、政治制度、人権規定、と簡単に観ただけでも、社会主義・共産主義原理とは相違した価値体系に依るのが日本国憲法です。 従ってマルクス主義者(のみではありませんが)が護憲と云われるのは、自己の都合に合った規定と解釈の範囲内であり、本来の意味での護憲とは相違するものと思われます。
蛇足ながら、私も一憲法学徒であるところから、日本でのマルクス主義憲法学で名高い故鈴木安蔵氏の各種憲法学書を精読もしました。 ただ、私には師事しました教授が京都学派の故佐々木惣一博士の愛弟子であったところから、憲法学は、憲法の定めるところの意義を精確に学び取ることが第一義的である、との教えに忠実に勉強したものです。
例えば、憲法第41条ですが、「国権の最高機関」との規定を、三権分立を厳密に捉える立場から、「政治的美称」と解する立場がありますが、私の師・故桜田誉先生は、それを戒め、憲法が「最高機関」と規定しているものを恣意的に解してはならない、その意義を考えよ、と諭されました。 今でもその時のことを記憶して自戒の言葉としております。 そうした立場からは、マルクス主義憲法学を異端的なものと見做していたことは確かです。 ブルジョワ憲法の規定を、自己の立場から有利に利用出来るものは利用する、と云う政治的思惑が垣間見えるように思えたのが事実でした。
自分自身でも聊か理想主義的な傾向があったかもしれない、と自戒しておりますが、いままた憲法学書を紐解くならば、そうした書籍を手に取ることになるかもしれない、と思っております。 因みに、土井たか子氏は、同じく故佐々木惣一博士の愛弟子であった故田畑忍氏を師に憲法学を学ばれたのです。 一本筋が通った政治家の背には、京都学派の憲法学理論があったのでしょう。
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