日本国憲法の原理とマルクス主義(追補)
- 2014年 8月 7日
- 交流の広場
- 熊王信之
先に投稿しました内容は、憲法学の中の特定国の憲法である日本国憲法の解釈学からの演繹の一端を述べたまででして、憲法学が実定法解釈のみに止まると誤解されては憲法学を御専門になる諸先生方に御迷惑をおかけすることになりますので念のために申し述べます。
今日では、学としての憲法学は、実定法解釈学のみに止まるものでは無く、判例の集積を基礎にした憲法訴訟の研究から、社会学的手法を用いた研究、更には、法哲学分野まで「社会科学としての憲法学」を目指すのが専門研究手法として主流になっています。 それには、世界各国の憲法との比較研究から、歴史的研究も含まれます。 その方法論の一例としては、小林孝輔著「社会科学としての憲法学」は、その黎明期のものであり、また、長谷川正安著「憲法学の方法」は、マルクス主義憲法学の立場からのものです。
私自身も、日本国憲法の単なる条文解釈に感けて居た訳ではなく、歴史的には、日本国憲法の前にあった大日本帝国憲法の研究も比較のために行いました。 美濃部達吉、上杉慎吉その他の先生方の専門書も精読しました。 自費で神田の古本屋から大量に古色蒼然とした古書を買ったものです。 昔は、この種の古書は安価で入手出来たのです。 今は、古書店でも見つからないでしょう。
外国憲法の研究では、英米と西独逸(当時)の憲法(西独逸は「基本法」)の勉強もしましたが、英国の憲法は、なかなか理解が進まず今でも一般的理解に止まっています。
何しろ、英国は憲法を有するが、憲法典は有しない国なのです。 その意味は、英国には「日本国憲法」のような憲法典と云う実定法が存在しないのです。 マグナ・カルタから権利章典、諸種の実定法、議会の慣習、そして裁判所の膨大な判例、等々で構成される集積が英国憲法なのです。 英国に住み、歴史と伝統を身に受けた者ならば、理解が簡易な対象であっても、その実態を含めて理解が進まない外国人には一筋縄では出来ません。
まだ西独逸基本法の方が実定法であるだけに理解が進むように思えました。
日本国憲法と縁のある米国憲法は、実定法があるので取り付き易いように思えますが、中々どうして、米国でも判例が重要な位置づけを占めていますので、一千頁以上ある判例集を読み込み、これまた、一千頁以上ある理論書と突き合わせて理解するのは容易ではありません。 米国では、法律学の専門課程では、これまでが基本で、講義では討議が主流になるので日本人ならば、まず語学が障害になるでしょう。 私自身は、基本を多少は齧った程度で、初歩の初歩で止まったままです。 悔しいことに、電話帳並みの分厚い英米独の専門書は本箱にあり、その重さで床が傷みそうです。
因みに、今般世間を騒がせた閣議決定に関わる法制局長官人事ですが、首相は、実定法の立法学と解釈学が素人で執務可能と判断されたかのようで、笑止千万と云わねばならないでしょう。 行政庁の諸分野で、当該分野に関わる諸法令に照らして、執務の法適合性を勘案して判断する、或は、憲法以下の諸法令と適合性のある立法執務を行うには、それ相当の知識と技術が要るのです。 況や、法制執務の責務に就く行政庁では、相当の能力を必要とされます。 ともあれ、全行政庁の注目を集めた人事であったことは間違いがありません。
さて、此処まで書きましたので序に、「戦う民主主義」(Streitbare Demokratie)について述べておきます。 日本国憲法では、憲法の原理に反する政治・政党に対してとる措置を規定してはいませんが、西独逸基本法では、憲法裁判所の制度化とともに、憲法原理に叶わない政治・政党には厳格に向き合うことになっていましたし、現独逸憲法でも同様の原理が採用されている、と認められています。 また、西独逸では、独逸共産党(KPD)は憲法違反とされ解散を命じられました。 例え、党内であろうとも、前衛政党の規律維持を名目に民主集中制をとったりすれば、党内言論の自由を制限するものとして憲法違反である、と云うのが西独逸基本法の原理であるのです。
これに比して、日本国憲法では、憲法裁判所は制度化されていませんので、憲法に叶うかどうかを専門に裁く裁判所が存在しません。 また、「戦う民主主義」は採用されていない、とされています。
さて如何でしょうか。 残念ながら、日本国憲法上も、政治原理としてのマルクス・レーニン主義は、憲法原理に従えば、憲法違反と言わざるを得ないのです。 ただ、同じく憲法原理では、言論の自由や、学問の自由は認められていますし、何よりも思想の自由が認められています。 しかしながら、憲法が政治原理として正統化し制度化することは出来ないのです。
厳しい物言いですが、武田明氏の云われる「必然的歴史の道筋としての社会主義革命に移行できないのは、ただただ、『民主主義未満』であり、『憲法理解未満』の国民教育の未満的状況によるものである」と国民を教育と指導の対象として観ることは、マルクス・レーニン主義に基づく前衛政党のエリート意識がなせる技なのでしょうが、革命の結果が如何なる悲惨な結末をその国の民衆に齎したかを真剣に考えない政党・政派には未来は無いでしょう。 ともあれ日本国憲法の原理では、そのようなエリート意識を有する集団に未来を託するのでは無くて、「現在及び将来の国民に対し『信託』されたもの」としています。
(参照)第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
この様に憲法学のみでは無く、全て法律学では、議論をするに際しては、空理空論で抽象的範疇を設定し、レッテル貼に徹するイデオロギー論争等と云う空虚な遊びはしないものなのです。 レッテル貼の後に事実関係を御都合で御仕着せ議論をしても空中楼閣です。
余談ですが、組合の学習会等で、マルクス主義経済学者の講演を聴いた後に、私たちはよくこんな冗談を言い合っていました。 「矛盾で矛盾で、ムムムンガム。」。 実際、学者より、私が講師をした方が好評でした。 全総(全国総合開発計画)と地価高騰の因果関係を示し土地投機の裏側を説き、高騰局面でマイホームを買うリスクを説明し、また、証券投資で証券会社の言うままに回転売買をするリスクの説明、等々です。 知識は力なり、ですもの。
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