廣松渉『存在と意味』について(もしくは、入門的導入部分)
- 2015年 3月 29日
- 交流の広場
- 武田明
事的自然観の地平
http://chikyuza.net/archives/51906
廣松渉哲学は、マルクス、もしくは、マルクス主義哲学の復興、もしくは、体系的完成を目指していた。
哲学から開始したマルクスが、経済学に傾倒して行き、哲学は、空洞のまま放置されて1世紀以上の時を経てきている。
近代の超克をそのままカント哲学の超克として捉えていたと理解するわかりやすさが、
漢字ドイツ語混合の現代的ではない文体は、むしろ、日本より、中国にてもてはやされているようだが話題性ばかりで一向に、その哲学の核心は完成されずに放置されている感がある。
カント哲学の主客図式は、その始まりから矛盾が指摘されていた。
物自体から始まりながら物自体には辿り着けないなど。
廣松渉哲学は何処まで完成し、そして、何処からが未完であったのか。
存在と意味の第一巻が、カントの純粋理性批判、
第二巻が、純粋理性批判であるとするなら、
第三巻、判断力批判に該当するものだけが、未完だったのだろうか?
事的世界観の前哨
共同主観性
それから、存在と意味は、まだまだ、第一巻としても、晩年急いで出した感じが拭えず、本人としても満足のいくものではなかったのではないかと感じる。
廣松渉哲学の正当なる復活は可能であろうか?科学哲学としての公共性哲学を目指しながら何故、それは、一種、廣松渉氏の独我論的段階から抜け出せていないのだろうか?
それが常々の疑問でもあったので、一筆してみた次第である。
廣松渉著作集第十五巻を開いてみよう。
目次の構成からも何を主題的に、語りたいかが見えてくるはずである。
積ん読本を脱する努力を広げたい。
『存在と意味』第一巻
序文
緒論
第一篇 現相的世界の四肢構造
第二篇 省察的世界の問題構制
第三篇 事象的世界の存立機制
(因みに、全三巻の構想は、カント哲学三批判に対応していると解説坂部恵氏)
認識的世界の存在構造 純粋理性批判
実践的世界の存在構造 実践理性批判
文化的世界の存在構造 判断力批判
序文の冒頭によると
実践哲学 第二巻の内容 実践力批判
価値哲学 資本論哲学
社会哲学
歴史哲学 ヘーゲル歴史哲学批判?
文化哲学
人間論
制度論
権力論
規範論
学問論
芸術論
宗教論
これらを含む壮大な構想によって完成させたいとしていたが第三巻までは辿り着けなかった。
しかしながら、廣松渉著作集十五巻の解説 坂部恵氏によって、ヘーゲルではなく、何故、カントの三批判へまで回帰して構成されているのかについて若干の予測が語られているのであるからそれに従いつつ、感じているものを更に、書き出してみようと思う。
カントにとってもやはり、『純粋理性批判』が、独立した意味でも重要である事が伺えるので、まずは、主客図式を乗り越えられて、『存在と意味』第一巻が、認識論の基本たる『純粋理性批判』にとって変わられたのか?
即ち、物から事へとパラダイムチェンジ出来たのか出来ていないのか?出来ていないのだとしたら何が今だに足りないとされているのかを明確にする所から、哲学の継承を考察しなくてはならないだろう。
足りないのは、第三巻であるは、認識論存在論次元としては当たってはいないだろう。
日山先生の『事的自然観の地平』には、それを明確にしたい野心を感じることが出来る。
カント哲学は、ニュートン力学の認識論と呼ばれたりしていたからであり、現代物理学のアインシュタイン相対性理論の哲学として、パラダイムチェンジを現代的に、言及する欲求の出発点は、理解の届くものであるからだ。
量子力学と相対性理論は、今だに、難解なものであり、大衆の理解に届くものとは言い難いながらも難解であるが故の魅力もあり、ブルーバックスなど高校生、中学生でも手に取れる解説書が多数出ている状況もある。
カント哲学についても同様の状態であるが、残念ながら、廣松渉事的自然観哲学は、語り変え不能な段階であると言わねばならないのは、何故かと言う事である。
本来、哲学は、科学に対してどの様な位置にあり、何を求めた学問であるのかの問いにまで遡るそもそも論の問いも繰り返されねばならない。
廣松渉氏は、ハイデッガーの『存在と時間』を強く意識していたとこれまた、坂部恵氏の解説の中で語られている。
『純粋理性批判』と『存在と時間』に対して、『存在と意味』第一巻は、如何なる位置づけにあるのかを明確に出来るなら大衆的次元においても説明責任に届くこととなろうし、市民権に到達するかも知れない。
数学の言葉で語られた科学に対して、認識論たる哲学は、国語、もしくは、言語学的置き換えであるのだとしたなら、必然的に、論理学的道筋としての伝達普遍性を示す事に他ならないからだ。
カント哲学が、三批判として完成されていなくとも、『純粋理性批判』だけでも充分とも言えるように、『存在と意味』第一巻の完成度内容による問題であるだけであると推測されるのだ。
そして、具体的問題意識として、「事的自然観の地平」としての具体的仕上がりはどうであったかを辿るのは、理解の届くもの。
ちなみに、ヘーゲル哲学として、論理学、自然哲学、精神哲学の体系としては、自然哲学こそが、最も弱いともされていた部分のようだ。
科学という言葉が、宙に浮いている指摘は、
「ピケティと経済学の貧困」こちらでも語られてる通りでもある。
異常なピケティブームを支える経済学の貧困(2月25日掲載)
http://chikyuza.net/archives/51094
本来、「科学的社会主義」は、ただ空想的でも宗教的でもないという意味だけで使用されていたが、今日、別の意味で、技術革新と科学、更に、近代経済学から現代経済学に対しても「科学的」として、基礎付けるとしたならマルクス以上の本の虫として、体系は、完成されなくてはならないのだろう。
一人で完成させる時代は、カントもしくは、ドイツ観念論近代個人主義哲学であり、共同体哲学、もしくは、間主観性科学哲学は、個人の超克としての基盤でなくては意味をそれこそなさないのではないだろうか?
新たなる「百科全書」もしくは、「場」の哲学としてはじめて、廣松渉科学哲学は、完成されるのだと言う当たり前の結論をまず、提示しておきたいのだ。
廣松渉『存在と意味』について(もしくは、入門的導入部分)
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