陸軍にもあった海上特攻隊 - ベニヤ製の小型艇で敵艦に突っ込む -
- 2015年 9月 19日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘戦争歴史
8月28日付毎日新聞夕刊社会面のトップ記事に目が止まった。「『真珠湾』最初の爆弾投下」「軍神 敗戦を予見」という見出しのついた記事。アジア・太平洋戦争の口火となった1941年の真珠湾攻撃で最初の爆弾を投下し、翌年、南洋で35歳で戦死し「軍神」とあがめられた日本海軍のパイロットが生前、家族に戦争指導部の無謀な作戦と無残な敗戦を言い当てていた、という内容だった。「戦争指導部の無謀な作戦」という活字に、私は、今夏、広島で見聞した「旧陸軍の海上特攻隊」を思い出した。
8月7日、広島で「海から見えるヒロシマ(船をチャーターしての、広島湾海上フィールドワーク)」というツアーがあった。竹内良男さん(東京都立川市、元教員)が企画したツアーで、狙いは「歴史の現場を自分の足で歩きながら、今につながる話を聴き、自分の目で見ることを通して、戦争と平和を考えよう」というものだった。参加者は約50人。
6日に広島市内で行われた市主催の平和記念式典や、原水爆禁止関係団体の集会を取材するため同市に滞在していた私もこれに参加したが、ツアーのコースは宇品(うじな)港――似島(にのしま)――江田島(えたじま)――金輪島(かなわじま)――宇品港。ツアー参加者は広島市街南端の宇品港を小型客船で出航、これらの島々を回った。
乗船前に竹内さんが参加者に配布したツアーの予定表を見ていたら、江田島では、「海の特攻」の訓練に取り組んでいた元陸軍少年兵の証言を聞く、とあった。私は、頭をかしげた。特攻といえば、「空の特攻」、すなわち航空機による特別攻撃隊がよく知られいる。これには、海軍によるものと陸軍によるものがあった。これに対し「海の特攻」と聞いて、私がとっさに思い起こしたのは、「人間魚雷」といわれた海軍の特攻兵器の大型魚雷「回天」だった。
この「回天」に乗って訓練中、事故で殉職した特攻隊員のことを取材すべく、私は以前、「回天」訓練基地があった大津島(山口県の徳山湾内)を訪れたことがあった。だから、「海の特攻」といえば、海軍によるものとばかり思ってきたのである。「陸軍にも海の特攻があったって?」。ますます興味を覚えた。
船が江田島に近づいた。戦前生まれの人にはかなり知られた島と言っていいだろう。敗戦まで、この島に海軍将校養成のための海軍兵学校が置かれていたからである。
私たちは、桟橋から島に上陸した。島の北端、幸ノ浦というところだという。畑の中に家屋が散在する静かな海浜の村落だ。江田島市の一部という。
桟橋のわきに、海を背にした石造りの慰霊碑が建っていた。それには「海上挺進戦隊顕彰之記」が刻まれていた。建立は1967年とあった。
竹内さんが参加者に配布した資料などによると、幸ノ浦に基地が置かれていた「海の特攻」とは次のようなものだった。
アジア・太平洋戦争で日本の敗色が濃くなったのは1944年(昭和19年)である。何とか局面を打開しなくてはと、海軍が開発したのが航空機による特攻「神風特別攻撃隊」だった。軍用機に乗った隊員が敵艦に体当たりして自爆し、敵艦に打撃を与えるという、いわば戦死を前提とした戦法であった。この年10月には、フィリピンのレイテ沖海戦で神風特別攻撃隊が初めて出撃する。
陸軍も特攻作戦の具体化を急ぐ。その結果、創設されたのが、「海上挺進戦隊」だった。自動車のエンジンで駆動するベニヤ製の小型艇に250キロの爆雷を積み、夜陰に乗じて1人で敵艦に突っ込む部隊だ。小型艇は長さ5・6メートル、幅1・8メートル、最大速力20~25ノット、航続時間3・5時間。部隊の存在は秘匿され、小型艇の製造も極秘裡に行われた。出来上がった小型艇は「マルレ」という秘匿名称で呼ばれた。
隊員の大半は、15~19歳までの少年兵。陸軍各部隊から選抜した者や志願者で構成した陸軍船舶兵の特別幹部候補生だった。広島市宇品にあった陸軍船舶司令部が隊員養成と戦隊編成に当たった。
瀬戸内海の小豆島などで訓練を受けた戦隊隊員は、江田島幸ノ浦にあった基地に集められ、ここから44年9月以降、順次、フィリピン、台湾、沖縄方面に出撃した。戦地に向かった戦隊隊員は約計3100人、うち戦没者は1790人とされる。「30ヶ戦隊が昭和19年9月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和20年1月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年3月以降の沖縄戦に至る迄鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし……挙げたる戦果敵艦数10隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり」と慰霊碑にある。
そればかりでない。隊員たちは予想もしていなかった事態に遭遇する。米軍による広島への原爆投下だ。この時、爆心から南約13キロの幸ノ浦基地には、本土決戦にそなえて特攻隊員、整備要員ら約2000人が駐在していた。隊員らは、広島の空高くのぼった、きのこ雲を目撃したはずである。
原爆投下直後、隊員たちは船舶司令部からの命令で広島市内へ向かい、被爆者の救援にあたった。多数の被爆者が運ばれた隣の島の似島で被爆者の救援活動にあたった隊員もいた。こうした経緯から、隊員の中にはその後、放射線障害に苦しむ人もいたと伝えられている。
ツアー一行が幸ノ浦に滞在中、村落の集会所で、元海上挺進戦隊隊員の和田功さん(89歳)=広島市=の話を聞く機会があった。敗戦の8月15日には、上官の命令で、ベニヤ製の小型艇を焼いたという。和田さんは「あんな船でよくも戦争したものだ」と悲しそうな表情を浮かべ、「秘密部隊として扱われた部隊の歴史を知ってほしい」と訴えた。
それにしても、ベニヤ製の小さな舟艇に爆雷を積んで単身、敵艦に突っ込むとは。何という無謀な作戦だろう。それにより、まだ成人前の若い生命が多数失われた。島を去る時、私は桟橋わきの慰霊碑の前に再び立った。戦死の瞬間に、少年兵たちの脳裏をよぎったものは果たして何だったのだろうか。そう思うと、無謀な作戦を遂行した戦争指導者への言いようもない怒りがこみ上げてきた。
知り合いの元新聞記者によれば、アジア・太平洋戦争の開戦時、米国の国民総生産(GNP)は日本のそれの13倍だったという。そんな大国に宣戦布告した日本。冷静に考えれば、まことに無謀な戦争だったのである。
作家の半藤一利氏は著書『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年刊)のむすびの章「三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」中で、「昭和史の二十年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます」として、5点を挙げている。その一つに「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想」を挙げ、「これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした」と述べている。
半藤氏はこの章の中で「歴史に学べ」と言っている。戦後70年。日本人はこの間、過去の歴史に学んできただろうか。
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