異論なマルクス カント・ヘーゲルとマルクス~内田弘氏の論考から
- 2015年 10月 18日
- スタディルーム
- ブルマン!だよね
先般10月10日、現代史研究会(ちきゅう座協賛)主催の内田弘氏の講演会に参加したが、そこでの論調が内田氏著作『資本論の対称性』以上にマルクスのヘーゲル連関を殆ど排除したうえでのカントへの方法的依拠を強調するもののように聞こえたが、私の読解ではカント的な帰謬推論があからさまな局面と、見かけ的に弁証法的論理が現れる局面とがないまぜになって資本論の体系的推転はあるように思える。前者は例えば使用価値の捨象から抽象的人間労働に至る価値実体論と貨幣の資本への転化、後者は言うまでもなく価値形態論である。
私の分析は後で少しまとめて述べるが、まず言いたいのはそのことよりも、オーストリーマルクス主義のある部分がすでにして新カント派的認識論主義の流れにマルクスの思想や理論を包含させようという試み、たとえばマックス・アドラーに代表されるような、が先行してなされてきておりそれなりに歴史的な評価は下されてきていると思われるのだが、それに対する言及がまったくされていないのは何なのか、それがまずはとても気になるところなのだ。私自身はカント―マルクス連関問題にそれほどの関心があるのではないが、内田氏が資本論解釈にカントを召喚すべきだと主張するならば、そうした学説史的な文脈にも配慮されるのが当然ではないのか。
さらには、内田氏は実はこれも新カント派マルクス主義の基軸的主張でもあるのだが、資本論の副題が「経済学批判」となっているのがカントの「純粋理性批判」の「批判」を踏んでおり、だからカントの方法による経済学と哲学の批判なのだと断じておられるが、それで済まされてしまう限りではやや表層的な理解ではないか。もう少し資本論のテクストに内在して読者に噛んで含ませるように説かれれば格段に説得的になるように思えてならない。ここは内田氏の対称性を軸にした解釈全体にも言えることで、是非今後の課題として受け止めていただきたいものである。そのような試みが仮になされたとすれば、おそらくは冒頭商品から交換過程論までをいったんくくった形での論考として収まるのではないかと推察する。一つのまとまった著作としての体裁を整える上で、資本論第1巻全体を射程に入れざるを得なかった事情も思わないではないが、やや性急に過ぎるようになったのは惜しまれるところである。
これを別の言い方をすれば、冒頭商品の歴史性、原基形態としての商品の弁証法的規定、価値実体の論証、価値形態論と交換過程論、物神性論などなどこれまでに幾多の論考と論争が重ねられてきたのであって、そこを切開する上でマルクス―カント連関や対称性の構造的方法なりがどのように具体的に威力を発揮するのか、それがもう少し論争史に沿って明らかにされてよいのではないかということなのである。
こうした試みは、例えば中野正の主著である『価値形態論』の冒頭から使用価値の捨象にからめて問題として提起され、後段で特に節を設けて論評されているのを見ることが出来る。そこでは件の資本論第3巻補遺でのエンゲルスによるゾンバルト・シュミットらの「価値=科学的仮説」説への批判から始められて、M.アドラーKant als Denker*やK.Vorlaender、Kant und Marxから彼らの見解も引用されて、私が冒頭で指摘したような資本論におけるカント的「残滓」を指摘している。その上で中野は仮説‐検証に基づくカント的な方法は自然科学には妥当するが、検証の効かない経済学にまで拡張すると物自体を認める形而上学に退落するとしてそれを退け、周知のように端緒商品の使用価値と価値の対立矛盾から弁証法的に一貫して説くべきであるという主張に至るのだが、そのような考究がとうの昔にされていることにも目配りされてもよいのではないか。
*中野によれば、M.アドラ-は『資本論』=「経済学批判」にいわゆる批判はカントの批判的方法としての『批判』であり、「マルクスの思惟活動の一般的な方法論的性格は、認識批判的思惟の立場と方法にいちじるしく接近しているのであるが、この傾向はさらに彼の研究の特殊なる問題、・・・・・商品の分析にも明瞭に現れている。すなわちマルクスの商品の魔術性(ママ-引用者)に関する社会批判的分析とカントの実体的の自我表象に関する先験的批判的分析との間には注目すべき類似が看守されるのであり、・・・・・自我意識を負う意識一般に関するカントの難解な理論は、まさにカール・マルクスの思惟方法をまって理解されうるものとなる」(「思想家としてのマルクス」からの引用。中野同書328頁)とまで言っているそうで、新カント派からのマルクス受容について論ずることは避けて通れないのではないか。またここに廣松渉の哲学的インスピレーションの源泉を見出すことも出来るかもしれない。
ところで私の見るところ、資本論はマルクス自身の言明と大筋としての論理展開を見ればやはりヘーゲル弁証法のマルクスなりの摂取から成り立っていると見ることが出来るのではないかと考えるが、それはそう簡単ではない。なかなか弁証法的な論理で一貫出来ずにいて、だからその難関をカント的方法で補完しようとして、むしろ怪しげな辻褄合わせがそこここに介在しているというのが実態ではないだろうか。
資本論初版序文では商品形態についてブルジョア社会の「経済的細胞形態」とし、それの分析の困難さを指摘したうえで、化学試薬や顕微解剖に替って「抽象力」のみが役に立つだけであると説いている。この抽象力とはむろん本論に入っての商品相互の異質性を論理的に捨象した残余である抽象的人間労働を価値実体として取り出す論理操作を指しているわけだが、単なる頭の中での論理操作を客観的な顕微解剖などの生物学上の観察-検証手段に無媒介に同一視しようとする強い傾向をそこに見ることが出来る。頭の中の見かけ上の論理的な整合性だけを頼りにして自然科学的な妥当性に至ることが出来ると言明しているのではないか。さらにこれに続けて名高い物理学の対象設定と法則定立性を近代社会の経済的運動法則の解明という資本論の究極課題に重ね合わせているのだから、いってみれば自己の経済学体系を時の自然科学取り分けて物理学に投影することでその客観的妥当性を担保しようとしていたのである。
かくして自然科学的客観性を備えた著作として万全の自信をもって資本論初版を世に問うたのだが、それに対する世間の反応は全く逆で、一言でいえば「ドイツ観念論」の所産とでも言わんばかりの厳しいものであったから、再版後書でそれに対する反駁を表明することでそうした世評をなんとしてでも押し返そうとしたのだった。
ロシアでのある批評を引いて、それが「不幸にしてヘーゲル弁証法的ではあるが」マルクスの目指した経済体制の必然的な転変を解き明かすことについては全く実在論的であるという評価を提示していて、それこそが自身の弁証法の神髄であるとマルクスは肯定的にそれを受け入れている。マルクスはそれに続けてヘーゲル弁証法と自分のそれの違いは、ヘーゲルは理念を歴史の主体にしているが、自分は物質的なものを主体に捉えてそれを頭の中で再生産しているだけであるという、いわゆるヘーゲル弁証法の唯物論的転倒を強調していた。ここでも物理学に代表される自然科学へのすり寄りを見せていて、「観念論的」という世評に対して出来るだけ毅然とした対抗姿勢を表明しているのである。もちろん資本論の本体でこのような単純な理念に対する物質そのものの弁証法が直截に語られているのではなく、人間労働の社会的性格の商品形態による媒介過程を追跡しているのだが、いずれにしてもここではヘーゲル弁証法は頭で立って神秘化されているが、それの合理的核心を取り出すにはそれをひっくり返して足で立たせなければならない、と批判的受容を表明しているのは確かだろう。
とはいえいかにマルクスをもってしても、そう簡単にヘーゲル弁証法をひっくり返して足で立たせることは適わなかったし、そもそも純粋に弁証法的論理構成で一貫できると確信を持っていたのでもないようだ。冒頭商品章の商品の二要因の提示から使用価値を捨象して、価値を取り出しそれを人間労働に根拠付ける一連の論理操作は、商品自身の概念規定の自己展開というよりは初版序文で言及されたようなマルクス自身の「抽象力」による分析的な方法に依拠しているので、ここにまずはカント的な方法の残響を聴きとることも出来るだろう。この次元で一旦は商品相互の関係は使用価値を捨象した人間労働の質量に実体を持つ価値関係に同質化されてしまっているから、そこから新たな形態規定を内的な対立規定を引き出して展開するのは極めて困難になってしまっている。いわば人間労働に実体づけられた価値という同質性に浸透された静謐にして平面的な世界が描かれているのであって、価値実体はそこで安らいでしまっている。だから続けて価値形態論に移行するのにあたって、「価値対象性が人間労働の社会的等一性の表現であり、純粋に社会的なもの云々」となんとか社会的規定性を言葉の上で纏わせて、それが商品と商品の社会的関係に現象するのは明らかであると言い繕うのだが、使用価値を捨象した程度で得られる人間労働の希薄な抽象的均質性に新たな形態展開を必然にするような潜勢力を認めることが果たして可能かつ妥当なことなのか、これは深刻な再考察が要請されているのではないか。
同様な事態が貨幣の資本への転化でも現出してくるのが避けられなくなる。冒頭で先に見たような等価交換と一体となった価値実体規定が置かれてしまう限り、単純流通界に価値増殖する流通形態G-W-G’は存立しえないのに、W-G-W’という第一の流通範式に対してG-W-G実際にはG-W-G’という第二の流通範式があると、無媒介に資本の一般的定式を持ちだしてそこに矛盾を見出そうというまったく外面的で形式的な論理を押し通すことになってしまっている。だからG-W-G’を資本の一般的定式としながらその存立を否定して産業資本形式の表層的現れとし、先行する世界貨幣とも貨幣の資本への転化論冒頭の世界市場との関係もまったく分断された取扱いに終始することとなっている。仮に資本論の貨幣論の成果を活かすならば、単純流通界が貨幣の様々な機能の分化により変動しながら運動するより具体的な流通界へと高次化し、複数の流通界を媒介する世界貨幣の位置において、それらの間の価値関係を比較しうる視界が開ける、そこにこそ資本の最初にして一般的な流通形式であるG-W-G’が生成してくると説くのが内面的な展開というべきではないか。
ここでも、価値実体に浸透された静謐で平面的な世界からそれをより高次に媒介する新たな形態を説こうとする時に、それを内的に押し上げてくる潜勢力を見出すことが出来ず、形式的な「矛盾」を設定するところで終わっているのである。これが果してカント的アンチノミーの超克なのかどうか安易には言いきれぬ論点を残しているように思われるのである。
手短に冒頭商品章から貨幣の資本への転化までを概観しても、カント的方法の介入は検証手段なき「抽象力」の行使であり、ヘーゲルからその合理的核心を引き継いだと言明されていた弁証法はそのことによって著しく退嬰的な姿でしか活かされていなかったのではないか。資本論の方法論的・哲学的バックグラウンドをどこに求めるのかという学説史的な考究をもちろん否定するわけではないが、その究明が直ちに資本論のこれまで概観してきたような問題点を解決することとは直接つながらないだろう。資本論自体には何も理論的な問題はなく、ただどれだけ隠された真理の理解に近づくか、それだけが問われているとする時にのみこうした接近法は威力を発揮するのかもしれない。
学説史的論脈から離れてでは資本論の理論的問題をいかに整除し、解決するのかという課題については、別稿で改めて考究したいがごく簡明に言えば哲学的思考と実体論的偏向から断絶せよというところにつきるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study664:151018〕
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