花崎皋平さん、スラップ訴訟と戦い続けている澤藤統一郎先生のお知恵をお借りできたならとしたためます。 友愛党構想《その命(心)を全力で救いたい》 アベノミクス新三本の矢(的)その一角、介護離職ゼロ切り崩しについて
- 2016年 1月 18日
- 交流の広場
- 武田明
一人の命と心は一致したものと考え、それを全力で救う介護と医療社会の連帯とは。
花崎皋平さんには、既に、「ちきゅう座」を見て下さいとお伝えもしているのですが、本当に見て下さっているのか今だ定かではないものの澤藤先生は、毎日ブログも更新されていて、具体的足元の行動は、マクロ経済学的でも政治学的政策論としての上部構造でもなく、法律に訴える場、庶民末端の場であり、具体的足元は、そこにあるだろうからなのです。
また、ちきゅう座有志のみなさんのお知恵も是非。
書き込みの内容に魅力そのものがなければ、無視ていただいて全く、差し支えないのですが、この考察に、面白さが少しでも感じられるものがあったとしたなら心に留めて頂けたなら幸いでもあります。
(それ以前に、まず掲載される事、刻印される事をいつも目標ともしているのですが‥)
数人ではありますが新たな読者の掘り起こしもしてまいります。
お聞きしたいのは、訴えに値するのか?そして、何処に訴えていくべきであるのか?と言う基本的で基礎的な問いです。
区役所であるのか?裁判所かはたまた警察署であるのか?
その有効性とはどのようなものであるのか?
まずは、その思考実験的問いに他なりません。
明日は、いよいよルネサンス研究所の方へ出向くつもりであるので、飲みの席にて時間があるようであったなら松田健二さんにも意見を聴いてみたいと思ってもいる点です。
http://chikyuza.net/archives/59269
花崎皋平氏の言うように、「個人的なものが政治的でもある」
アベノミクスの一角をこれで完全に、切り崩して行けるのではないかと思われる要素へつながるか否かの見定 でもあろうと感じています。
ルポ老人地獄や下流老人などなど介護貧困が、格差の中で広がっている実態に対してどのように対抗する場が出来ているのか?
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610563
http://dot.asahi.com/wa/2015062400089.html
その問いの根底としての「介護離職ゼロ」とは何が本来、問題であるのかを具体的に仕上げて行く必要性を感じている。
実は、労働奴隷である若者にとっては、貧困は、まだ美徳的要素もあり、真地獄とは言えない節がない事はない。
ブッラクバイトであったり、非正規であったりてんてこ舞いしていてもその蓄積されたる結果行き着くところとしての「介護貧困」でもあり、現在である事を広く知らしめなくてはならない。
何故、若者のお金が老人に使われねばならないのか?
若者は、老人を憎んだりさせられるようになる。
差別は、何故か裕福な老人へは向けられず、貧困や孤立する弱者の方に向けられ、弱い者が弱い者を叩く社会を生み出している根底を知らしめそれぞれの弱者性の中で、連帯して力とする社会的逆転は、いかにして可能であるのか?
それを常に問題としているのだ。
アベノミクスとの戦い、アメリカ資本主義との戦いとはそれであり続けてきたのであるが、ウォール街を包囲せよとピケティ問題については、既に、述べられても来ており、
具体的貧困の実相としての「介護貧困」の根底と連帯訴訟の可能性をその側面から問う必要性、弱者の知恵の連帯としての論理をまず、開陳しながらどぶ板選挙=真プロレタリアについて明らかにしなくてはならない。
「介護離職ゼロ」が、本当の意味での問題であるのだろうか?
これは、働ける若い労働力を奴隷として、働けなくなった親世代をかえりみる事が出来ない社会の貧困の問題である事を明確にしていかねばならないだろう。
介護難民時代の日本の問題点をあぶり出していないどころか、隠蔽しつつ、労働奴隷たらしめようとするのが「介護離職ゼロ」ではないだろうか?
問題は、健康を維持できない貧困としての場、無知の蔓延としての国策政策のなさであり、医療を独占させない「政府広報」としての認知症社会の回避がまず大前提となっている事へ戻らねばならない。
労働奴隷である若者も実は、貧困と無知にさらされているのであり、その結果として「介護難民家族」問題があるのだ。
在宅介護と特別老人ホーム、老人保険施設について。
介護離職の次に、問題とされているのは、この方面の労働不足であり、低賃金問題の連鎖がすぐに、頭をよぎるのであるが、まずは、貧困、無知からの介護老人を生み出さない手立てである事は、既に指摘している。
健康こそが、重要であり、そのニュートラルを保持する事はいかにして可能であるのか?
それを、突き詰めていく事を第一としながらも、もはや、格差と貧困は、平成の病理として歯止めがきかない中でどうするのかの問題に他ならない。
それを、具体的に仕上げて行きたい。
出来るだけ多くの人の人生が、有意義であり、後悔のないものとしていきたい。
絶望や貧困、格差の中で、その総合的結末部である介護、本人と家族の問題についての打開策と連帯を模索する。
全力で一つの命と心を救いたい
具体的な一つとしてその一つづつの命、それに根ざす心の安らぎを問う。
以前、病院で出会った老婆の「夢も希望もない」の言葉。
若い頃は、貧困であり、労働奴隷であったとしても夢や希望はある様に思えていても、到達されない大部分の敗残者と一部の勝者が、新自由主義であり、資本主義原理であるのだろうか?
いずれにしても絶望的数の介護難民家族を生み出し、共倒れの連鎖を作っているのである。
その中の命と心の救済、連帯をまず主題としているわけである。
安倍晋三氏は、非正規労働者でも雇用が増えた、倒産件数が減った、自殺者が減ったと繰り返し喧伝するが、それは、介護難民家族の貧困に本当に、比類していると言えるのだろうか?この問いである。
貧富格差の中での表層的数字マジックであり、自殺せず生きて何をするのかの具体的問題として本来あるはずである。
格差には言及せず、軽減税率やバラマキ三万円の参議院選挙対策を公然とメディア癒着の中行っている。
では、「介護難民家族」と「施設」の問題へと移ろう。
これが、今ある具体的問題であり全力で一人の命と心を救いたい、本題であり、訴訟に値するのか?である。
介護革命二日間の攻防
これは、実際、見たもの聞いたものであるのだが、今の段階では、具体的に特定する必要もない事であろうから、少し、脚色して今は、お伝えする事にしよう。
ルポ老人地獄で語られている様に、団塊の世代が、認知症と言う貧困へと落ち込む時代が、すぐそこまで来ているのだろうか?
または、親の世代を見ている介護難民家族の老々介護としてあるのか?
友愛党は、二人以上で可能になる。
まだ仮称であるが、鳩山元首相と植草一秀氏の友情を模倣して展開する。
その一つの因子をモナド的に広め、連帯訴訟的に展開しなければならない。
暇だった僕は、時々、クラス会へと赴き、旧友と意見を交換したり、介護地獄が、至る所にあった事を感じていた。
では、具体的にどうすれば良いのだろうか?
寡黙な友人であるが、かつてから知っている地域的縮図の中から、回顧を呼び起こす郷愁を求めて、その友人の母親の介護施設への見舞いに付き合う事とした。
最初は、その人は、かなり弱ってきていて、鼻水を垂れ流したまま、うつむいていた。
寒いのではないかと友人は、抗議をして、オーバーを着させた。
クーラーの設定温度は、25度であると半袖であるそこの責任担当者は、言い張る。
しかし、寒いものは、寒い。
また、動く力のないその老人にとってはなおさらだろう。
少し、老人の相手をし、機嫌をとる友人を見守りながら、周囲の様子を見渡していた。
こんなにここには、苦しんでいる人々がいる。
一度、友人と外へ、喫茶へと入り、時間を置いて、再び、老人施設へと戻ってみると今度は、首が、横に曲がり、また、うつむいている。
そして、先ほど羽織ったオーバーが、脱がされていて、また、鼻水を垂れ流したまま放置されていたので、いよいよ怒りが頂点に達していたその寡黙である友人の怒りを目撃する事となったのだ。
「幾度も言っているが、寒いのだから着させてくれと」
しかし、再び、責任担当者は、25度で設定してあると言い折れる事はない。
老人の夕食の介護をし、ゆっくり食べている。
1時間を過ぎ、30分更に、経過した様だが、早く、食器をかたずけたいとする女性が、ゼリーと取り替えようとしているようだが、友人は、それを拒み、まだ、食べる意思がある事を告げていた。
在宅から仕事の事情で施設へと移動して間もない様であり、たった数日で、この様に変わり果てていた事への正式な抗議をする事とした様だ。
これでは、安心して出張する事ができないと考えていた様だ。
友人の話に立ち会う事になった。
友人の論理は、以下の様である。
「椅子が悪いからお尻に擦り傷ができている。
食事が終わったなら硬い椅子からゆったりした頭の垂れない椅子へ座り直させてくれ。今となっては、自分で刺激が作り出せない。辛うじて、外からの刺激については受け取る事ができている。テレビやリクリエーションは、今や命をつないでいる段階だから放っておいても良いが見せてやって欲しい。
首の横曲がりも家ではなかったものであり、急に、数日で変わってしまったのは、座りっぱなし、寝かせっぱなし、運動不足にある」
「医学的に、認知症に最も悪い状況に置いていると思いませんか、
脳の病気であるのだ、普通の人でも、気がおかしくなるだろう」
それらについての改善要求は、具体的で履行可能な範囲であったので約束を取り付けて収まった様にその時は思っていたのだ。
しかし、そして、次の日、
歩いて近い近隣であった為その日も友愛党行動を共にする事としたのだが、
今度は、唐突に点滴が施されていたので、昨日あれほど言った事を理解していないと友人は、また、怒り出した。
怒りは、当然なので、見守っている。
介護士が、言い訳を始める。
昼食を食べないで寝ていたから点滴にしたと。
それは、いじめの様なものだ。
土曜日であったが、責任担当者を呼び出させた。
飲んでいた風邪薬が、睡眠効果がある水分補給が必要だから点滴にしたと。
間違っていないと言い張る。
根本的には、熱がないにも関わらず風邪薬(漢方薬らしいが)飲ませる事か寝かせきり、座らせっぱなしの放置による運動不足があり、時間で区切り食事をカットする在り方が解せなく感じられた。
そして、花崎皋平氏のかつての介護日記にも書かれていた様に、ヘルパーが、仕事を楽にしてサボるための言い訳である事を、友人は、その老人へ、持ってきた牛乳を自らコップを使って飲んでいる事で示して見せた。
ようやく、男性と女性のその場の責任担当者は、非を認めて、点滴を即座に外した。
友人の論理は、
「食べる事、ヨチヨチ歩きでも歩く事は、最後の命をつないでいるものだ。食べること、飲み込むことを何故、簡単に放棄出来るのか」
「点滴は、最後の手段であるし、食べる速度が遅くなったと言って、食べているものを取り上げるのは、虐待的である」
「1時間半かかろうとも食べさせ続ける事が、施設の仕事であるのではないか」
「水分が取れないと言うのは、施設の労働放棄であり、ただ当たり前の事を当たり前にやってくれ」
風邪問題、薬の睡眠効果、認知症治療に最も悪い寝かせっぱなし座らせっぱなしいよいよ衰退してきているのを感じていた様だ。
11時30分から12時までの集合的リクリエーションがあると述べていたが、それは、形ばかりである効果がない事を告げていた。
介護職員の不足の問題がある。
しかし、不足しているのは、医学的な認知症への理解であるのだ。
医師不足であっても、個別のカルテに沿ってそれぞれを見るだろう。
介護施設も医療の端くれなら集団のリクリエーション効果などとは言えないはずだ。
責任担当者は、カルテはあると言うが、それが大まかなものでしかなく医学的なものでない事は明らかである。
論戦の核としては、医学的な無知から施設は、どこも運営されている密室であると言うことである。
必ず、廃人とされるのだ。
特別老人施設への根本批判へと続いていくのだ。
そこには、無数の老人たちが、自ら異議も申し立てられず佇んでいる。
その命と心を全力で救いたい。
有意義な人生であったと最後の最後で思わせてあげたいと思っている家族がいるはずである。
この全体を、一億総労働奴隷化、「介護離職ゼロ」への根底的切り崩しとして、
ヤングブラックジャック、キューバ医療革命的共同体への布石へと変えて行く。
連帯訴訟的異議申し立て側面について、次回、更に、付け加えて行く。
全力を尽くしてこその医学であり、それ以外は、商売であり、医療ではない。
何故なら命がかかっている命そのものであるからだ。
付録:ちきゅう座的部落問題とカムイ伝サブカルチャー展開について
http://revolutio.exblog.jp/22787094/
続く
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