憲法と医学の論理解放としての日本的一国社会主義の具体的道筋、真ゲバラ主義体系について ちきゅう座経済学【2】介護離職ゼロ切り崩しの論理【2】
- 2016年 2月 5日
- 交流の広場
- 武田明
❶現代自殺論
短期的には、金融緩和によって自殺者が減少した。
交通事故死者、戦死者、それに対して、自殺者の悲劇の度合いとは何であるのか?
『自殺論』によると貧困者は自殺をしない、自殺するのは、中流者である。
倒産件数や株による損失による件数と自殺は、連動し、直結しているとするとぬか喜びは、その範囲に止まるかも知れない。
岩田先生以外は、この論点にあまり着目していない様に思われるのは何故であろうか?
元々、日本の自殺者数、3万人超えが高すぎたから、そして、金融緩和、金融操作だけの小手先は、まさに、「短期的」なものであり、長続きしない目くらましであり、実体経済をないがしろにしている「応急処置的延命策」でしかなく、本丸は、戦争法の後押し、夏の参議院選挙、3分の2であり、憲法条項の付け足しにあると見抜かれているちきゅう座の視点があるからだ。
しかし、ちきゅう座から外への広報としては、以前、「巨大メディア」に阻まれていて、「論点の正当性」そのものが、「消去」(日曜討論から干されている生活の党的在り方、朝まで生テレビにてリベラルと括られている在り方に代表される)現代的情報統制性、赤狩り的教育的無知化支配の中にあるからでもあろう。
憲法と言う牙城を破壊せしめるかつての戦死者数の悲劇に対して、比較にならない危機として、「詭弁家安倍晋三政治を許さない」その論点を忘れてはならないのが、現時点の問題構制となっているのではないだろうか?
❷とある友愛党論議と世間の問題意識のズレについて
⒈
コマーシャルや広告料に支配されている巨大メディア、新聞に対して、
「最近は、テレビを見る人が少なくインターネットを見ている人が多い」
「故に、情報の統制は、できないはずだ」
これは、正しい考えであるだろうか?
視聴者にとってテレビは、商品ではない。それは、スポンサーにとっての商品であり、購入主は、スポンサーであると共に、1%の視聴率は、100万人と換算されている。
日曜日の報道ステーションにて、検索キーワードランキングがあるものの、その多様性は、芸能からアニメまで、様々であり、政治的社会的深化としてのちきゅう座に到達する熟成からはもちろん、遠のいてもいる問題点がある。
阿修羅掲示板にて取り上げられている今年になってからの「ゲスの極み乙女」不倫、SMAPの解散騒動から清原の逮捕まで、芸能ニュースにかき消された政治問題の地味さの位置とは?
トランプ騒動、オバマケア問題として堤未果氏の指摘、民主主義そのものの限界、アメリカ選挙から日本、夏の参議院選挙へ。
人文学推移結集することと、大衆広報性、更に、読者参加型の間口の広さを同居させる事は如何にして可能であるのか?
⒉
世間的に聴くとまだ、自衛隊そのものが違憲であるのだから安保法制あって良いの論理がまかり通っている様だ。
自衛隊と軍隊の違いは何か?
個別的自衛権と集団的自衛権の相違とは?
そこまで政治的に考察することなく流され、芸能スポーツの話題に席巻されてしまう国民性としての限界がどうしょうもなくある様だ。
⒊
甘利大臣が辞任して支持率があがった。
更に、巨大メディアの情報操作があるなら、甘利大臣の収賄罪そのものが発覚する事もないのではないか?
しかし、それさえ発覚しない段階では全体主義支配が完成されてしまっていると言えるのではないだろうか?
古賀茂明氏、古館氏、更に、クローズアップ現代について邪魔者は消せの不安。
小沢一郎氏然り、痴漢冤罪の植草一秀氏、天皇手紙バッシング山本太郎氏などなど。
甘利大臣の辞任も言うことのない逆転効果であり、全体主義的自民党を覆せない野党の非力、共和制にも民主制にもなり得ない選択肢のない似非民主主義をどの様に、暴き、そして、真の共和制=民主制とするのかの問題がある。
市民連合から野党共闘へと言う広報は、成功するのか?
短期的には、夏の参議院選挙まで。
長期的なるちきゅう座経済学、歴史学の現在の論点が以下の様にあると言うことに他ならない。
❸
ちきゅう座経済学、歴史学の現在の論点と乗り越えについて【2】
「介護離職ゼロ」切り崩しから医学解放革命の具体的道筋【2】
⒈
なんとか夏の参議院選挙、一強多弱、自民党勢力の3分の2を食い止めたいとする短期決戦の論理を幅広くわかりやすくとは何かが問われている。
二つの集会の刷新性に期待。
ピケティ論争を超え、何を展望するか
http://chikyuza.net/archives/60023
参加を予定しています。さらなる言葉の切れ味、ちきゅう座経済学前衛、シンポジウム、税制改革の具体的道筋を期待しています。
季刊『フラタニティ』創刊記念シンポジウム
http://chikyuza.net/archives/60035
残念、友愛党地方巡業と重なってしまい。参加出来ません。この様な形で、何とか「ちきゅう座読本」もお願いしたいところです。
⒉
岩田昌征さんのコメントに応えて
http://chikyuza.net/archives/60067
を読む。
1)日本的経営・生産システム(会社主義)評価について
修正資本主義のイデオロギー
2)日本会社主義と社会主義的変革との関連について
「市場経済を全面的に計画経済に置き換えることだと理解することは、遠い将来はともかく、現実には不可能と言ってよいでしょう。」
「労働力の商品化」の止揚に焦点を置くしかない。
①賃金の自己決定
②生存の保障
③主体的労働
日本では、労働を「生きがい」とする「会社人間」が生まれていることを見出したのです。
そして、私は、私的所有を社会的所有に置き換えることで直ちに好ましい社会主義になるとは考えておらず、社会を担う主体としての人間倫理の確立や民主主義的政治制度の徹底を欠いたまま所有を社会化すれば、旧ソ連のような国権的社会主義や、極端な場合にはポルポト支配下のカンボジアのようなグロテスクな「社会主義」にもなりかねません。
⒊
真ゲバラ主義、貧困を克服する医学解放としての社会主義、具体的実践努力方向について
短期的、長期的社会主義理論として何をすべきかから考察するなら。
まず、政治形態とは、上部構造の問題であり、実は、池上彰氏の述べるピラミッド、王制であっても、貴族政治であっても、よく政治に長けた者が、指導する統制経済=計画経済である方が、人類史古代史中世史にも、中東王制であっても成立していると言う事であり、ここではただただいびつなる人為的計画経済としてのソ連、ポルポトのあり方が、問われている様に思います。
人為的であるのだから自然でも唯物論的でもない。
会社的にもワンマン社長が創造的であり、成功する時期があるのと同じ理屈です。
下部構造(土台)としての市場経済とは本質的に、何であるのか?
その問いが残されているのですが、理念的に示されている「会社人間」としての労働とは、もちろん、チャップリンのモダンタイムス、歯車として翻弄される労働者のイメージではないでしょう。
貧困の根絶としての一国社会主義&世界革命としての基礎理論とは何となるのかの具体性が必要となるはずであり、それを、僕としては、真ゲバラ主義としての医学解放革命としての共同体思想の優位として、導入部分を考察してきたわけです。
現在ある貧困とは、子供の貧困率と「下流老人」、「介護離職ゼロ」問題として、具体的に現れています。
母子家庭の貧困と、母親の孤独を克服する共同体、「公園デビュー」的連帯は、前回リンクを貼ったNHKスペシャルの中でも、語られていたものであるが、まだまだ完全ではないでしょう。
資本主義的核家族化の問題は、子育てさえ商品的切り売りにさらされている断片性と物神性として現れている問題点であり、ミルク、ベビー服、更に、保育園、小学校から大学まで商品的切り売りの中、ランク付けとして現れる市場価値を如何に、「共同体価値」としての総合へと改められるのかの問題である様に感じる。
それは、「介護離職ゼロ」としての貧困と労働の兼ね合いとしても同じ位相を持っている事を前回導入的に述べているのであり、具体的貧困改善としての方法論としての社会主義=共同体の復活であるのだから、
内科医の範囲ではなく、認知症としての人間総合医学としての知識の解放としての具体的展開を必要としているわけであるのだ。
その知識は、どこで誰が、手に入れるのか?
教育の場によってであるのだが、それは、根底的知として、商品物神性以前のものとしても、ちきゅう座書き込みからも受け取れるものであり、共同体解放としての0円革命の第一歩ともなる「やりがい」「命に関わる真飛躍」であり、
《全力で命(心)を救いたい》
医学憲法解放革命=真ゲバラ主義の展開となるわけである。
貧困の救済は、商品経済(市場経済)以前の人間的関わりであり、共同体思想としてまずは、考察されうる。
学校に行けない貧困率の子供達、更に、老人たちへ「ちきゅう座」学校を開校するという手があります。
労働力がつき、購買力がついたところで、更に、心を豊かする文芸商品を買って貰う基礎を築く事、介護士になりたい、保母さんなりたい、世の中や社会の役に立ちたいと言う自立こそが、目的であり、その基礎根底としての「医学憲法革命」に他ならない。
医学は、難しく独占されたものと言う物神性、商品階級性の打破、
それこそが、「労働力(人間)(命)(心)商品化」の止揚であり、これこそが、「いきがい」としての貧困の根絶としての共同体経済としての下部構造(土台)そのものとしての了解内容とされるべきものではないでしょうか?
簡単です。内科医的医学の商品化施設に対して、人間学としての認知症、総合医学としてのメスを、フーコーの「狂気の歴史」「監獄の誕生」の様に、具体的メスを入れて行く、真唯物論的場として展開をしていく事です。
ただ、《全力でその命(心)を救いたい》
パート的労働ではなく、目的としての命、心、医学(唯物論共同体)、憲法(反戦争法)、一国社会主義革命の基礎として連携していく事です。
難しい事は、ありません。
敵は、貧困であり、医学憲法社会主義としての展開である故に、ソビエトにもポルポト、カンボジアにもならない基調を明確にする0円革命だからです。
付録;
大アジア史〈中国・朝鮮・日本〉と「存在と時間」
東京を変える、人を変える、「ちきゅう座」を変えよう。
養老孟司氏の言葉を踏まえながら、死は、無意味であるなら、生も「壮大なる無意味」でしかない。
死後の名声も一人称の死にとって無関係なものと言えるだろう。
むしろ遺産を残すな、それこそが、精一杯生きられなかった故であるだろう。
名声という遺産もその中に属するのかも知れない。
では、その無意味の中で、何があるのか?
刹那と命(心)があり、その連続性のみが、問われていると言う事であるのだ。
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