現代史研究会での古賀暹報告に寄せて-北一輝論への感想(疑問と意見)-その1
- 2016年 5月 11日
- 評論・紹介・意見
- 合澤清
4月23日に専修大学で元雑誌「情況」編集長の古賀暹さんの北一輝に関する報告研究会(現代史研究会、演題は『北一輝と二つの竜巻―中国革命と2.26事件』)があった。参加者の中には、コメンテーターの丸川哲史さん(明治大学教授で専門は中国)をはじめ、大学関係者も多く、また昭和史の研究者も来ていた。古賀さんは、独自の視点から既に『北一輝論』という大著を物して御茶の水書房から出版しているが、今回はそれをベースに、さらに資料の渉猟を重ねた研究成果の発表になった。古賀さんの詳しいレジュメはちきゅう座で自由に閲覧できるので、ここでは、直接「北一輝」の思想や生き様などに関する私の感想(疑問や意見)を述べたい。その際、あえて古賀さん自身の著書からではなく、松本清張が書いた『北一輝論』(ちくま文庫版2010、以下引用は文庫と略し、ページ数はおおむねこの文庫からのもの)を参照しながら、古賀さんの報告や見解などと突き合わせて考えてみることにする。
さて、このちくま文庫の最後で筒井清忠教授が「北一輝と2.26事件をめぐる想像力と真実」という題で小論を書いているのだが、これが最新の資料や研究に基づいて書かれていて、非常に興味深い中味になっていた。そこから、古賀さんの今回の報告にはなかった興味深い話を2~3拾って紹介したい。
皆さん方の中には、かつてNHKテレビで「2.26事件と北一輝」を扱った「報道特集」(?)があったことを記憶されている人もいるかと思う。その番組の中で、北一輝が電話で安藤輝三大尉と交信しながら、「マル(=お金)は大丈夫か?」といったような会話をする録音が放送されていた。驚くことに、実はこの放送は全くの捏造であったようだ(文庫p.409)。
まず、北一輝に良く接触し、その声を知っている中谷武世が放送後の早い時期に「北一輝と安藤輝三大尉との電話録音は偽作である」(昭和動乱期の回想 下 中谷武世回顧録 泰流社1989)との疑念を述べていた、そして決定的なのは、この会話録音時(2月29日)には、北は既に逮捕されていたため、こんなことはあり得ないということ、である。結局、放送番組制作者自体がこの事実を認めて「打ち切り」にしたそうだが、NHKはいまだに反省の弁をもっていないという。最近の様々な出来事と照らして、当時からのNHKの杜撰な無責任体質を痛感するとともに、厳しく糾弾したい。
また、「宮城占拠問題」(青年将校が宮城の完全占拠を企てたといわれたもの)という伝説に対する事実の指摘がある。この件に関してはこの文庫本(pp.386-7)の松本説も間違っているようだ。松本清張によれば、「中橋基明中尉が警視庁の野中四郎大尉の部隊に連絡を取って引き入れようとしたが阻止され、宮城占拠は挫折した」という。しかし、これにははっきりした根拠がないことと、首謀者の村中孝次の証言によれば、宮城占拠を戒めたのは北自身だったという。クーデター計画上、天皇拘束は支持者を減らすことになるという当時の社会、政治情勢を考慮する必要があったからだ。
また、古賀さんも報告の中で指摘していたが、処刑直前に西田税が「われわれも天皇陛下万歳を唱えましょうか」と聞いたのに北が、「いや、それは止めましょう」と答えたという伝説。これも事実は不明であるという。
前置きはこれくらいにして、私の感想(意見や疑問)を述べてみたいと思う。
北一輝が書いたものはなかなか複雑(難解)である。これにはいろんな理由が考えられる。まず、当時の物騒な政治・社会情勢がある(「国体論及び純正社会主義」を書いたのち、北は幸徳らの「大逆事件」に巻き込まれる恐れを感じて、中国に脱出したといわれる)。さらに彼はこれらを歴史書としてではなく、政論として書いていること、このことの意味は大きい。しかしとりわけ大きいのは、彼が上野図書館に通って、当時の最先端の理論書を読破し、これを独自の発想のもとに吸収、構想し、それを当時の一流の学者を批判する武器に用い、かつ実践方針化しようとしていることにある。
以下、出来るだけ簡略にいくつかの問題を剔抉してみたいと思う。
(1)「乱臣賊子」論について。
北の主唱したものに「乱臣賊子」という議論がある(「国体論及び純正社会主義」)。これは、「万世一系の天皇」の系譜は、実際には「乱臣賊子」の歴史にすぎないという極めて興味深い史観である。それによれば、蘇我馬子も、平清盛も、足利尊氏も、皆、天皇家と同等の権利をもつ支配者であったということになる。それなのに天皇家だけが唯一絶対的な(「万世一系」の)支配者であると唱えるのは「土人部落の滑稽劇」にすぎないと揶揄する。「革命とは政府と輿論とが統治権を交迭することだ」というわけである。ここから演繹すれば、当然ながら「天皇家」の否定、北のいう「同等な国民」という観点にならざるを得ない。しかし当時にあって、これは極めて危険な結論である。それ故か、北は「大化の改新」の天智天皇と「明治維新」の明治天皇を別格扱いし、いわば、「フランス革命」時の英雄(彼はナポレオンをイメージしている)、オゴタイ・カン(=元の太宗)やケマル・パシャ(=トルコ共和国初代大統領)さらに後には、「ロシア革命」のときのレーニンにすら見立てることで、天皇を「特権ある一国民」とする。しかし、両天皇の歴史的実像評価はともかくも、これでは、「天皇家一般」と二人の天皇(天智と明治)の区別、また「国民」としての天皇と庶民の関係が論じきれていないのではないか。このことが、2.26事件後の北の「公判」での法務官(陸軍法務官・伊藤章信)とのやり取りで露呈されたように思う。すなわち、明治天皇が欽定した憲法の一時停止(北は憲法を3年間停止して改革を断行すべしと唱えた)は、明治天皇を否認し、現天皇を否認することになり、「不敬罪」にあたるとの反撃にあうことになった。北一輝はこれに反論できない。
また、北は「国体論及び純正社会主義」の後半で、「乱臣賊子」論を放棄している。なぜか?
北は途中でこの「乱臣賊子」論を捨て、「天皇一般」を「特権国民」とみなすことによって、「天皇制」を肯定し、いわば「日和って」しまったのだろうか?・・・必ずしもそうは言えないようだ。
北は23歳で書いた処女作「国体論及び純正社会主義」に後で手を入れ、盟友の満川亀太郎(大川周明らとともに、超国家主義団体「猶存社」の結成にあたった)に「門外不出にしてくれ」と言って預けた、という。書入れをしたのは、「日本改造法案大綱」(1919、39歳)を書いた後であり、その本は1975年当時、久野収が保持していたという(pp.325-6)。
まず、久野の意見を聞いてみたい。(以下、ゴチックは評者=合澤)
久野:…初めのものと比較してみますと、まず書物の表題そのものを「民主社会主義原論」と変えています。それから第四編の「所謂国体論の復古的革命主義」を「現代国体論の解説」と変え、「復古的革命主義」をすべて「国体破壊主義」に、「偏局的個人主義」は「民主主義」にそれぞれ変え、そのほか、文中の小見出しをすべて削り、文章もかなり訂正して、アップトゥデートにしている。また「純正社会主義」を全部「民主社会主義」にかえています。しかし、ぼくの一読したかぎりでは、むしろ前の説をラジカル化しているくらいです。さすが、「門外不出だ」といって預けただけあって、北自身は転向していないようです。ですから、彼のいう民主社会主義とは何かという問題を追究するに当たって、この手直しはたいへん重要な資料になってくると思っています。(pp.326-7)
それでは北はどのような点でこの「乱臣賊子」論を生かそうとしたのか?
北によれば、天皇と議会(国民の代表機関)の二つが平等に国家権力の代表だという。つまり、両者を統合する最高の存在を国家におき、天皇も議会も国家の機関であると考える(「天皇機関説」をとっている)。この点について久野は次のように証言している。
久野:…直接の自分の君主に対する忠誠と天皇への乱臣賊子とを、明治憲法以後において国家への忠誠に置き換えようと北はする。天皇も国民も国家への忠誠を尽くさなきゃいかん、国家こそが永遠なのであって、天皇はその単なる機関にすぎないという、だから忠君はあくまで愛国の一部でなければならない。そこが北の国家社会主義たる特色…乱臣賊子も忠君もすべて愛国に結集する。そうすれば天皇に対する乱臣賊子も、逆にいえば愛国になる場合もあるかもわからない…。(pp.358-9)
…北があの時点で考えたことは、今までの封建藩主への忠誠が明治維新で天皇への忠誠になったのを、もう一度国家への忠誠にどのように変えるか。…だから彼は「皇民国家」という言葉を自筆訂正本では全部「国民国家」にかえています。(p.360)
…私が北に同情的なのは「皇民国家」を(自家訂正本ではすべて)「国民国家」と変えているところを見ても「国体論及び純正社会主義」を書いた時点では、何とかして「国民国家」という方向へ行きたいと考えていたと思うからなんです。(p.361)
要約すれば、「革命とは政府と輿論とが統治権を交迭すること」にすぎないのに、「万世一系の天皇」を支配者とすることはおかしいし、歴史的にも実際にはあり得なかったはずだ。北の考えでは、国家は天皇と国民(議会)とを統治の両機関として成立する。それでは、両者が対立した場合にはどちらを優先させるべきであろうか?これは大問題である。彼はこの難問をいかに解決しようとしたのだろうか。
この辺が北の解読の大変興味深い個所のように思う。北はあくまで国家を軸にした「政論」を書いている。彼の考えからすれば、君民共治(皇民国家)は共和民主(国民国家)への過渡期(中間過程)でなければならない。かといって、一気にそれを実現することは困難である。そこでこう発想を転換する。国家を軸に据えれば、天皇への忠誠は必ずしも国家への忠誠とはいえないし、逆に、天皇への反逆も国家への忠誠になることもありうるのではないか、と。ここで、北が「天皇信仰から大元帥信仰」へ移行したことと、法華経の行者になろうとしたこととがパラレルに考察されなければならない。
多少強引な言い回しをすれば、「神道天皇制」を超えた位置、法華経の行者になって、自ら「大元帥」として日本国を変革しなければならないという考え方に至ったのではなかろうか。その際彼は、「統帥権干犯」(北の造語とも言われている)を逆手にとり、天皇側近の腐敗分子(重臣達)を軍事的な行政機関(在郷軍人団会議)を作って排除することで、実質的に「天皇制」を空語にしてしまう(天皇制廃止)革命を考えていたのではないだろうか。自らナポレオンになる(あるいは軍人であり僧侶であったクロムウェルになる)つもりだったとも考えられる。その結果が、御存知の2.26事件の結末に結びついてきたように思えるのである。以下、文庫本からの引用。
松本:北が言うような軍事的な行政機関を作れば彼は自らその最高顧問になります。「日本改造法案大綱」通りの国家になれば、北の「院政」です。つまり北のいう通りに操縦されることになる。…もう一つは、“改造法案”に従うと、それまでの重臣層は全部排除される。天皇から重臣層を排除したならば、天皇制の崩壊ですよ。天皇を核として二重にも三重にもそういう機構が取り巻いているから、天皇制が存続するわけでしょう。…自然に天皇制廃止につながる。(pp.375-6)
久野:だからこそ天皇が2.26事件にものすごく怒って、軍部が北と青年将校の一味を誅伐しなければ、自分が近衛師団を率いてでも出動するといったわけです。…北の行こうとするボナパルティズム、クロムウェル主義の持っている怖さを、天皇およびその周囲にいる元老、重臣、軍閥たちはかなりよく知っていた。だから2.26事件を未熟のうちに絞め殺したんだと思います。北自身もそのことは自覚していたと思うんですよ。
松本:それが一番重要な点です。反乱軍が重臣を殺すのは、朕の首を真綿で締めるようなものだ、と天皇は言った。そして反乱軍に同情的な第一師団が出動しなければ近衛師団を朕自ら率いて討伐に向かう、とまで言う。(pp.375-6)
このような議論の結果、北一輝を「右翼・超国家主義者」と決めつけていた松本清張も、以下のように思わず真逆の評価を与えることになる。
久野:…統帥権の干犯や天皇大権の干犯・・・で天皇と軍閥の統帥権を擁護することになれば、北の「国体論及び純正社会主義」でいった、国家が主権の持ち主でその統治権を天皇と国会が共同代行している、という考え方からはものすごく距離が隔たることになりますね。
松本:統帥権ということが彼の頭の中に大きく出てきて、それが、“改造法案”の、軍事顧問団で天皇親政を、ということになるのだと思うんです。ただそれを突き詰めていくと、それまでの天皇という核を包んだ外皮が崩壊する、そうすると天皇制の崩壊につながるというふうに、自然になっていきますね。そこまで北が鋭く読み取って「日本改造法案大綱」を書いたとすれば、北は根っからの社会主義者だということになる。彼の国家主義的なものは見せかけであって、真に日本の天皇制の崩壊を考えていたのかと、…。(pp.384-5)
以下続く
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〔opinion6083:160511〕
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