東アジア平和共同体をどのように創るか 尖閣諸島をめぐる紛争の経験から
- 2011年 2月 15日
- 評論・紹介・意見
- 伊藤成彦尖閣諸島
1.尖閣諸島紛争の発端
*「2010年 9月 7日午前10時15分頃 尖閣諸島久場島付近で海上保安庁の巡視船『よなくに』(1349トン) に中国のトロール船 (166トン) が接触、その漁船は40分後に巡視船『みずき』(197トン) とも接触、双方の船体がへこんだ。
第11管区海上保安本部 (那覇市) は、同日午後日本の排他的経済水域 (EEZ)内で漁船を停船させて立ち入り検査を開始、同日夜、『みずき』に対する公務執行妨害の疑いで船長を逮捕する方針を固めた。漁船の乗組員は15人で全て中国人。『よなくに』が久場島の北北西12km付近で操業していた漁船に領海からの退去を求めると、動きだした漁船の左舷側の船首が止まっていた『よなくに』の左舷側の船尾にぶつかり、そのまま逃走。その後、同島の北西約15kmで、別の巡視船とともに漁船を停船させようとした『みずき』(197トン) の右舷に漁船の左舷が接触。漁船はさらに逃走を続けたが、午後 1時前に同島の北西約27kmの日本のEEZ 内で停船命令に応じた。
外務省北野審議官が 7日、在日中国大使館の公使参事官を外務省に呼んで、漁船が不法操業をした上、巡視船の船体を破損させたことに抗議し、再発防止を求める。
仙谷官房長官が 7日夜に海上保安庁幹部と協議、「政府高官」が「最寄りの検察のあるところに連れてきて、日本の手続きでやる」と述べ、日本の司法手続きで漁船の船長を逮捕する考えを示した」 (朝日新聞、 9月 8日、朝) 。
*「沖縄・尖閣諸島近海の日本領海で海上保安庁の巡視船に体当たりしたとして、中国の漁船の船長 (42歳) が逮捕された。日本側は違法行為への厳正な措置であることを強調、中国側は同諸島の領有権を主張して強硬に反発」 (朝日新聞、 9月 8日、朝)
*「中国、ガス田交渉延期/船長拘置に『厳重抗議』(東京新聞、 9月11日、朝)
*「中国漁船員14人帰国へ/捜査終了、漁船も返還」(朝日新聞、 9月13日、朝)
*「中国強硬 異例の抗議」(朝日新聞、 9月14日、朝)
*「強まる反日感情」(毎日新聞、 9月16日、朝)
*「中国・閣僚級交流停止/船長拘置延長で」(毎日新聞、9月20日、朝)
1972年9月の日中国交正常化以来初めての「日中領土紛争」はこうして起こり、日中関係は急速に険悪化した。9月20日には中国の河北省石家荘市内に入って旧日本軍が遺棄した化学兵器処理工事の現地調査をしていたゼネコン「フジタ」の日本人社員4人が、知らずに軍事管理区域に入ったとして軍事施設保護法違反容疑で逮捕された。中国政府は、尖閣諸島での船長の逮捕と石家荘での日本人社員の逮捕は関連しないと説明したが、時期が重なったために日中間の緊張はいっそう激化した。
こうした日中国交正常化以来かつてなかった極度の緊張の中で、日本政府は拘束していた中国漁船の船長を9月24日に釈放して帰国させ、一方中国は9月30日に石家荘で拘束・留置していた日本人社員3人を釈放、それ以後、日中政府は水面下で緊張緩和のために首脳会談の機会を窺い、10月5日午後、アジア欧州会議(ASEM)が行われていたブリュッセルで温家宝首相と菅首相が25分間懇談して、双方の尖閣諸島領有の主張とともに、日中間の「戦略的互恵関係の推進」、「交流事業の再開を含む、ハイレベルの交流の再開」で一致して、9月7日の尖閣諸島紛争以後の緊張は緩和した。
しかし、こうして異例の緊張は一応緩和したが、問題が解決した訳ではない。
2.国家主義の噴出と破綻
この紛争を通して、私が極めて異常だと感じたのは、政界と大マスコミが「国家主義」一色に塗りつぶされたことだった。民主党政府は紛争が起きた9月7日の夜に、仙谷官房長官、海上保安庁幹部が首相官邸で協議し、「政府高官」が「最寄りの検察のあるところに連れてきて、日本の手続きでやる」と述べて、日本の司法手続きで漁船の船長を逮捕する考えを示した。この時、首相官邸に集まったこれらの人たちが、「日本固有の領土」「国益」「国家の威信」といった国家意識に拘束されて興奮し、思考の自由を失っていたことは、短い新聞記事を通しても窺うことができる。そして、その意識が集団化して「国家主義」として噴出する。そういう流れを作ったのが、前原誠司外相、岡田克也幹事長といった民主党の中枢議員で、彼らは、“日本は3権分立の民主主義国家だから、政治は一切介入せず、法に従って粛々と手続きを進める”と表向きは言いながら、前原氏は朝日新聞記者に、「中国漁船の船長を逮捕すべきだ」と言ったのは「おれだ」と明かし、仙谷官房長官に、「中国には毅然とした態度を貫いた方がよい」と言ったことを得々と語っている。また、外相だった岡田氏は、「外遊先のドイツで事件発生の連絡をうけ、前原氏が主張した船長逮捕をあわただしく受け入れた」(朝日新聞、9月28日)という。また前原氏は、船長逮捕後にわざわざ石垣島まで出向いて、石垣島の検事を激励したと語っている。これでは「一体何が3権分立か」と疑われてもしかたがない。
しかし、こうした国家主義イデオロギーに囚われていたのは、前原氏だけではない。9 月30日の衆議院予算委員会の議事録を見ると、先ず長島昭久議員(民主)が「中国の理不尽な態度は目に余る」「中国の態度は戦略的互恵関係なのか」と菅首相に質し、菅首相は、「中国の反応はわが国の国内法に基づく粛々たる手続きを認めない姿勢があり、大変問題があった。尖閣諸島が我が国の固有の領土であることを明確に申し上げたい」と答えている。また塩崎恭久議員(自民)の「首相は責任ある姿勢を示してほしい」という質問に対して、菅首相は、「日中間に領土問題は存在しない。領土については一歩も引かないことが私に最大の責任だ」と答えている(毎日新聞、10月1日、朝)。
極めて要約された議事録を見ても、議場の雰囲気が見えるようで、この雰囲気の中では首相にはこのように答える以外の方法がないと一般に思われることかもしれない。しかし、「尖閣諸島は日本固有の領土」という主張を振りかざして、やはり「固有の領土」論に立つ中国と向き合うならば、この先はどうなるかと少しでも冷静に考えれば、それでは済まないことが分かる筈だ。
領土問題の対立は、第2次大戦までは、戦争の原因だった。前原議員や岡田議員の国家主義の立場を貫けば、領土問題の解決は戦争による以外にはなくなる。しかし、それは絶対にできないことなので、日本政府はそれを避けるために、急遽方向転換をして、漁船の船長を釈放してその説明を那覇地検に委ね、那覇地検が、「我が国の国民への影響と今後の日中関係を考慮して」と、本来ならば首相か外相が言うべき釈放理由を検事が読み上げることになったのであろう。これは「窮余の一策」だったが、これは前原議員たちが主導した国家主義路線の破綻を示すものに他ならない。政府与党だけでなく、「尖閣諸島は日本固有の領土で、日中間に領土問題は存在しない」という首相の答弁を聞いて満足した野党も、その思考・思想が現実に破綻したことを肝に銘じておかねばならない。
では、どうすればよいのか?
3.1885年に明治政府は清国との関係に配慮して領有に反対
「尖閣諸島は日本固有の領土」という考え方が、日本国会全体のイデオロギーと化したかのように、多くの問題で独自の立場に立つ日本共産党も、「日本固有の領土」では一致し、国会でも機関紙『しんぶん赤旗』でも、尖閣問題で「日本の領有は歴史的・国際法的に正当」と主張し、それに疑いを差し挟む者は、狂人か「国賊」と見られかねない雰囲気が、政界にもメディアにも満ち満ちている。しかし、それでは何故いま中国政府が、尖閣諸島の領有をこれほど強烈に主張するのか、と考える必要はないのだろうか。少なくともこれまでに私が見た限りでは、そのような疑問や問題を取り上げたメディアはひとつもない。 しかし、先ず尖閣諸島の位置と歴史を確認し、日本政府はどのようにして尖閣諸島を「日本固有の領土」とするに至ったのか、そしてその際に中国との関係はどうであったのか、という問題を日本国家主義を離れて公正な立場から資料に即して調べる必要がある。
先ず、尖閣諸島は、東経123度30分から124度35分、北緯25度44分から25度55分の間に分布し、日本名で呼べば、魚釣島、久場島、大正島、南小島、北小島の五島と飛瀬岩、沖の北岩、沖の南岩の3岩礁から成っていて、総面積は6.キロ平米。沖縄の石垣島と台湾のまでの距離が170Kmで等距離、中国本土までは330Km,沖縄本島までは410Kmで、中国本土に80Km近い。地質的には中国の大陸棚の上にあり、琉球列島にはつながっていない。
尖閣諸島が注目されて以来、インターネット上に歴史資料も数多く紹介されているので、それらを整理して、日本政府が尖閣諸島を日本領とするに至った経過を要約する。
古文書では、1534年の『使琉球録』は、中国の福州から琉球の那覇に航海した明の皇帝の冊封使・陳侃の航海記録で、使節一行の船は1534年5月8日に福州の梅花所から外洋に出て、東南に台湾の基隆を目指し、その沖合で東に向かい、10日に釣魚島を過ぎたと記録されている、という。琉球に冊封使が最初に派遣されたのは1372年で、これが11回目の冊封使だが、第1回から第10回までの記録が残っていないという。しかし、記録がされなかったのか、失われたのかはともかくとして、中国からの冊封使はこのように尖閣諸島を目印として琉球に向かい、逆に琉球から貢ぎ物を積んで福州に向かった琉球船も尖閣諸島を目印として航海したことは「ほぼ間違いない」と記されている。しかも冊封船は1372年から「琉球処分」で琉球王朝が断絶した1879年まで23回 500年に及び、一方琉球船は『使琉球録』が記された1534年までにすでに 281回中国に行っていたというから、相当な交流があったことが分かる。その間に、双方の船が尖閣諸島をただ航海の目印にして通りすぎていたとは考えられない。特に魚釣島は3.6 平方Kmの広さで飲料水があるということなので、双方の船客・船員は避難・休息・探検などのために島に上陸したことであろう。つまり、尖閣諸島はどちらの領土でもなく、いわば双方が昔から「共同利用」していたと考えるべきであろう。
ところが、「琉球処分」直後の1885年9月に、福岡県出身の古賀辰四郎が那覇に移住して沖縄近海の海産物の輸出業を始め、やがて魚釣島に行ってアホウ鳥の羽毛の採取で儲けること思い立って、1885年に那覇県庁に魚釣島の土地貸与を申請した。那覇県庁はこの申請を東京の内務省に送り、内務省は「内々にこの島を調査するように」命じた。那覇県では調査の結果、沖縄県令が次の報告書を内務省に送った。
「抑モ久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付、沖縄県下に属せらるるも、敢て故障これ有る間敷と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違し、中山傳信録に記載せる魚釣台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑いなき能はず。果して同一なるときは、既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならず、それぞれ名称をも付し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり。依って今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕候間、来る十月中旬、両先島(宮古、八重山)へ向け出帆の雇ひ汽船出雲丸の帰便を以て、取り敢へず実地踏査、お届けに及ぶべく候条、国標取建等の儀、なほ御指揮を請けたく、此段兼て申上候也
明治十八年九月二十二日 沖縄県令 西村捨三
内務卿伯爵 山県有朋殿
次いで翌10月に井上薫外務卿が山県内務卿に次の書簡を送った。
「沖縄県と清国福州との間に散在せる無人島、久米赤島他二島、沖縄県に於て実地踏査の上国標建設の儀、本月九日付甲八十三号を以て御協議の趣、熟考致し候処、右島嶼への儀は清国福国境にも接近致候。さきに踏査を遂げ候大東島に比すれば、周囲も小さき趣に相見へ、殊に清国には其島名を附しこれ有り候に就ては、近時、清国新聞紙等にも、我政府に於て台湾近傍清国処置の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し、我国に対してさいぎ抱き、しきりに清政府の注意を促がし候ものこれ有る際に付、此際にわかに公然国標を建設する等の処置これ有り候ては清国の疑惑を招き候間、さしむき実地を踏査せしめ、港湾の形状並びに土地物産開拓見込みの有無を詳細報告せしむるのみに止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候。
且つさきに踏査せし大東島の事並に今回踏査の事とも、官報並に新聞紙に掲載相成らざる方、然るべしと存じ候間、それぞれ御注意相成り置き候様致したく候。右回答かたがた拙官意見申進ぜ候也。
井上薫外務卿からこの書簡を受け取った山県内務卿は、太政大臣三条実美に、「国標建設は見合わせる」との、次の書簡を送った。
「秘題128号の内
無人島へ国標建設の儀に付内申
沖縄県と清国福州との間に散在せる魚釣島他二島、踏査の儀に付、別紙写の道同県令より上申候。処国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付、目下見合せ候。方可然と相考候間、外務卿と協議の上、其旨同県へ致指令候。絛是段及び内申候也。
明治十八年十二月五日
内務卿伯爵 山県有朋
太政大臣公爵 三条実美殿
このように、1885年9月ー12月には、沖縄県も日本政府も、大東島を日本領に組み込んだように尖閣諸島を組み込むことは出来なかった。沖縄県令、井上外務卿の手紙から分かることは、中国が大国だからという力関係よりも、 500年にわたって琉球王国に冊封使を送っていた中国の歴史的な重みや、中国民衆の世論などを考慮して、大東島とは違うことを深く自覚して、「我が国固有の領土」に出来なかったことが分かる。
それでは、その尖閣諸島がわずか10年後にどうして「我が国固有の領土」に変わったのか。それは日清戦争による日本の軍事的勝利の結果だった。
4.日清戦争の勝利で伊藤博文首相が認可
19世紀末の朝鮮・李朝では、幼くして王位を継いだ高宗の実父で摂政の大院君を中心とする保守勢力が権力を握り、一方、高宗の妃・明成皇后を擁する改革派がそれに対立し、大院君派は古くから朝鮮に大きな影響を及ぼしてきた「中国〕(当時は清国)を頼り、改革派は時に日本、時に清国を頼り、李朝内部のこうした権力闘争に連動して、朝鮮半島で覇権を争う清国と新興国日本との対立が、1893(明治26)年12月5日の若き高宗を擁した改革派の王宮クーデターから急速に深まった。この時、若き高宗を擁して李朝の「大政一新」を宣言した金玉均、朴泳孝、徐光範らの改革派が竹添・日本公使に日本兵による王の護衛を依頼し、これに反発した后の実家の閔一族が清国に応援を求め、清国が 1500 人の兵士で王宮を攻撃し、形勢不利と見た国王が王宮を出て清国側に投じたために、日本軍は金玉均、朴泳孝らと共に急遽撤退して仁川まで退くという事態になったからだ。
翌年、1894(明治27)年4月に天津で6日に及ぶ日清交渉が行われ、「(1) 日清両国
のソウルからの撤兵。(2) 両国は今後、韓国軍の顧問を送らない。(3) 将来韓国に重大な変乱が起き、日清もしくはその一国が出兵する時は、互いに連絡し、事が納まればすぐに撤兵する」という3ヵ条の日清天津条約が締結された。その後、1894年4月に「東学」に結集した全羅北道の農民が李朝の根本的改革を求めて武装蜂起し、6月には全州以南が反乱勢力に支配されて、農民軍がソウルに迫る状態となったので、李朝政府は自力での鎮圧は困難と見て清国に救援を求め、清国はそれに応じて6月 1000 人の第1陣救援部隊を送り、同時に日本政府に天津条約に従って、「属邦保護のための出兵」と連絡した。一方、日本政府は、「朝鮮を貴国の属邦と認めず」と抗議し、「居留民保護のために派兵する」と通知し、6月5日に大本営を設置し、16日に派兵した。これが朝鮮半島に対する日本軍の初の戦闘部隊の派兵だった。
日本天皇は、1894(明治27)年8月1日に清国に対する宣戦の詔勅を発したが、この時にはすでに7月25日に日本の連合艦隊の一部は朝鮮半島西の豊島沖で清国の軍艦2隻、汽船1隻と出会って攻撃し、朝鮮政府への応援部隊 1200 人を乗せて牙山に向かっていた汽船「高陛号」を撃沈して兵士を捕虜にし、軍艦1隻を大破させていた。また陸軍は、7月29日にソウル南方の成歓に集結していた清国軍を攻撃した。こうして日本軍は、李朝政府の依頼を受けて援助に到着したばかりの清国軍を、宣戦布告以前に海陸で攻撃して戦端を開いた。
その後日本陸軍は、8月下旬からほぼ1ヵ月間、「平壌作戦」によって清国軍を朝鮮半島から北へ追い出した。また海軍は、9月17日から清国の連合艦隊主力と海戦を行って清国戦艦14隻中5隻を沈没、6隻を破損させ、清国海軍を威海衛に追い込んだ。一方陸軍は、平壌占領後、山県大将指揮下の第1軍は、10月25日から鴨緑江渡河作戦を行い、大山大将指揮下の第2軍は、10月24日に旅順に到着、その第1師団は11月8日に大連を占領して、11月21日未明から全軍で旅順要塞を攻撃、占領し、陸上作戦は事実上終了した。
その後の戦闘は、清国連合艦隊が逃げ込んだ威海衛港で、1895(明治28)年1月20日から水陸両軍の攻撃が集中的に行われて威海衛港は陥落し、清国連合艦隊は壊滅した。
こうして日清戦争が大詰めを迎え、日本軍の勝利がだれの目にも明らかになった1895(明治28)年1月12日に、内務大臣子爵野村靖から内閣総理大臣伯爵伊藤博文に当てて、次の秘密文書が届けられた。
標杭建設に関する件
沖縄県下八重山群の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、近来に至り 該島へ向け漁業等を試むる者有之。之れか取締を要するを以て同県の所轄とし標杭建設 致度旨、同県知事より上申有之。右は同県の所轄と認むるに依り上申の通り標杭を建設せしめんとす。右閣議を請う。
明治二十八年一月十二日 内務大臣子爵 野村靖
その2日後の1月14日に、「標杭建設を閣議決定」として次の通知が内務大臣に出された。
別紙内務大臣請議、沖縄県下八重山群の北西に位する久場島魚釣島と称する無人島へ向 け近来漁業等を試むる者有。之為め取締を要するに付ては同島の議は沖縄県の所轄と認 むるを以て、標杭建設の儀命県知事、上申の通許可すべしとの件は、別に差支無之に付請議の通にて従るべし。
1885年(明治18)年12月5日に、内務卿伯爵山県有朋が、太政大臣公爵三条実美に宛てて「処国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付、目下見合せ候。方可然と相考候間、外務卿と協議の上、其旨同県へ致指令候。絛是段及び内申候也」と書いた同じ案件が、僅か10年後の1895(明治28)年1月14日に、「別に差支無之に付請議の通にて然るべし」と事も無げの回答に変わったのは何故か? いうまでもなく、日清戦争での海陸での勝利だ。
日本国会の審議で、このように尖閣諸島を「日本固有の領土」とするに至った1885年12月から1895年1月14日までの経過とその評価は討議されたのであろうか?
5.解決は東アジア平和共同体の視点から
尖閣諸島問題と日韓間の竹島(独島)問題は近似点と相違点がある。近似点は、竹島(独島)の場合は、日本帝国がロシアと戦争を開始した1904年2月8日直後の1904年2月23日に大韓帝国政府に強制した日韓議定書第4条の次の規定によった。
「第3国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ安全ニ危機アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事
大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ軍略上必要ノ地点ヲ臨機収容スルコトヲ得ル事」
この条項によって竹島(独島)は「軍略上必要ノ地点」として日本に「収容」された。従って、竹島(独島)が韓国領であったことは明瞭だ。それにもかかわらず、これを「日本固有の領土」と称して日本政府が領有を主張し続ける理由は、1910年8月に大韓帝国に強制した「日韓併合条約」で日本政府が植民地とした土地・地域は平和条約第2条に従って韓国政府に返還したが、竹島(独島)はそれ以前に無人島だったことを確認して1905年1月28日に「竹島領有」を正式に閣議で決定し、島根県の所管としたので、「日本固有の領土」だと主張している。
こうして竹島(独島)と尖閣諸島は、ともに日本が戦時下に「固有の領土」とした点で共通しているが、竹島(独島)は歴史的にも地理的にも、明らかに韓国固有の領土だが、尖閣諸島は「中国或いは台湾固有の領土」であったことはない。
しかし、「固有の領土」などの観念がない時代からこの地域の人々が「共同利用」してきたことは明らかで、しかも中国の文書に何度も明確に記録されている島を「無人島だから日本が独占する」という考え方に同調しなかった井上薫外務卿をはじめ、当時の明治政府の4良識を今一度思い起こすべきではないだろうか。
ではどうすればよいのか。端的に言えば、尖閣諸島問題をどう解決するかという問題こそは、東アジア平和共同体をどのように創造するかという問題の1つのテストケースになりうるであろう。例えば、尖閣諸島は少なくとも数百年、或いはそれ以上前から琉球、台湾、福建その他の人々が様々に利用してきた場所なのだから、それを1国が占有するのではなく、国家を越えて共同利用するという考え方に立つことだ。
現に尖閣諸島を含む東太平洋地域では、既に1997年に日中漁業協定が調印され、2000年から機能している。東アジアは海洋地域なので、多くの島があり、その島が国家間の取り合いになるのは、その島の周辺・海底に広がる様々な資源が想定されるからだ。しかし、そうであればこそ、それらの資源の調査・研究・開発が、東アジア共同体の中で、さまざまな人々・地域・民族を組み合わせ、国家を越えて考え、話し合う場をつくる可能性が開けてくれば、現在の尖閣諸島問題のように国家が相互に争う必要はなくなる。
しかも、このような考え方は決して夢物語ではない。現に尖閣諸島問題を契機として、歴史的に尖閣諸島と最も関係の深い沖縄の新聞が、その視点からの寄稿を集めて、新崎盛てるさん(沖縄大学名誉教授)が、「国境越え民衆交流を」と呼びかけて、「わたしたちは、国家の論理にとらわれることなく、国境を越える民衆相互の文化経済的交流と相互理解を深める努力をしていかなければならない」(『琉球新報』10,2.)と言い、やはり沖縄大学の若林千代さんは『沖縄タイムス』のインタビューに答えて、「尖閣諸島および海域は、中国南部沿岸や台湾北部の漁民や住民の生活圏であり、さまざまな民族や文化の交差する多元的な性格と現実がある。個性豊かな場所の利益と安全を確保するには国家主権を超えた視点をどう生かすかが鍵だ」と語っている。どちらも全くその通りだ。
地域共同体の創造の仕方は一様ではない。例えば、ヨーロッパ共同体は第2次大戦後に独仏間の戦争を繰り返さないために、軍需産業最大の資源の鉄鋼と石炭の共同管理が契機となった。しかし、ASEAN(東南アジア諸国連合)は、ベトナム戦争に巻き込まれないために、地域の小国が平和を守るために結束したところから始まった。国連の結成のように、多くの国が集まって先ず「憲章」を起草し、それに従って共同体を立ち上げる場合もあろうが、どの場合でも、国家を超える視点に立つことで国家を超えて人々の暮らしの平和と繁栄を目指すのが目的だから、それは当然「平和共同体」でなければならない。実際、軍隊とは基本的に領土と資源を武力で争奪するために構成された組織なので、領土・資源の争いが国家を超えた話し合いの機構で解決されれば、軍隊は要らなくなる。
その意味で、尖閣諸島問題に戻れば、私は、1971年12月30日付の「中華人民共和国政府外交部声明」を注意深く再読する必要があると思う。この声明については、日本政府が1895年に尖閣諸島の領有宣言をしてから76年後に初めて尖閣諸島の領有を主張したのは、この地域の海底に天然ガス等の海底資源開発の可能性が出てきたからだというような皮肉な見方がもっぱらで、それもあるであろうが、1971年声明の主題は資源ではなく、沖縄の施政権返還にかかわる米軍基地と地域の平和の問題だ。その中心部を引用する。
「米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄『返還』というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は、一貫して沖縄『返還』のペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日本人民の勇敢な闘争を支援するとともに、米日反動派が中国の領土魚釣島などの島嶼を使って取引をし、中日両人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげしく反対してきた。魚釣島などの島嶼は、昔から中国の領土である。以下略」
この声明を読むと、当時中国が沖縄「返還」に関連して尖閣諸島を取り上げた理由が、沖縄の米軍基地と尖閣諸島を中国に対する一連の軍事基地と見たところにあったことが分かる。しかし、政権交代した民主党政権が、依然として日米安保条約を憲法の上に置いて、普天間基地の代わりを辺野古海岸に作る計画に固執し、日米軍事一体化政策を放棄していない点では、中国が1971年声明を発表した時の状況とほとんど変わっていない。しかし、これでは真の日中友好への道は遠く、まして東アジア平和共同体など夢物語で、日中関係は21世紀どころか、19世紀に戻りつつあるのではないか、とさえ思われる。
そして、日本のこのような国家主義の噴出を抑えるどころか煽っているのが大マスコミであることも指摘しておかなければならない。
*初出「マスコミ市民」11月号
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0339:110215〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。