世界中が現場体験したエジプト革命 -革命体験ない日本はアジアでも珍しい-
- 2011年 2月 17日
- 時代をみる
- エジプト革命伊藤力司対米従属日米安保闘争
30年間も独裁権力を握り続けたホスニ・ムバラクを追放したエジプト革命は、世界中の衆人環視の下で繰り広げられた。インターネットと衛星テレビが普及しておかげで、何万キロも離れた日本でタハリール広場に結集したエジプト大衆の抗議行動を目撃し、現場体験できたのである。世界史を振り返ってみるまでもなく、革命は古今東西に数多く起きているが、これほど大規模な劇場体験を伴った革命は初めてだ。
革命が成就した原因のひとつに軍隊が抗議デモ排除に動かなかったことが挙げられるが、エジプト国軍最高司令部にとって、世界中の視線を前に大惨事必定の実力行使を命令することはできなかったのではあるまいか。今から22年前、1989年6月の天安門事件。学生を中心とする民主化要求のデモ隊が北京の天安門広場を連日連夜埋め尽していた。当時の中国最高実力者鄧小平氏による「反革命暴乱」という断罪の下、人民解放軍は学生たちに対して実力行使を行い、民主化運動を踏みつぶした。
しかしこの実力行使はテレビカメラの前では行われなかった。現在に至るまで、この実力行使の映像は一切見受けられない。もし1989年当時、現在のように動画カメラ付き携帯電話器が一般に普及していたとしたら、必ず凄惨な現場映像が残されていたろう。また現在のようにIT技術が発達して中国を含む世界中にウェブサイトが普及していたとしたら、人民解放軍も世界の耳目を無視して実力行使命令に踏み切れていたかどうか。現代史の大きなIf問題である。
「タハリール(解放)広場」という固有名詞も、今や「天安門」同様世界中で通用する言葉になったが、つい3週間前まではカイロに詳しい人でない限り誰も知らなかった。1789年7月14日、暴徒化したパリ市民たちがバスチーユ監獄を襲ったのがフランス革命の口火を切った。以後、バスチーユという固有名詞は世界中で知られるようになった。2011年2月11日とタハリールも、同様に世界語になるかも知れない。
革命と言えば、現代エジプトでは今度が2度目の革命である。1952年、ガマル・アブデル・ナセル中佐を指導者とする「自由将校団」が決起して、時のファルーク国王を追放して共和国を宣言したのが、最初の革命である。1956年のナセル大統領によるスエズ運河国有化は、第2次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の脱植民地化を告げる狼煙であり、「ナセリズム」と言われたアラブ式社会主義の流れは当時のアラブ世界に風靡した。エジプト国軍が市民大衆に親近感を持たれていることはタハリール広場での映像でも垣間見られたが、王制を倒した自由将校団以来のエジプト国軍の歴史的文脈を見れば理解されるだろう。
革命とは、被支配階級が支配階級を倒して国家権力を奪い取り、政治・経済などの社会構造を根本的に変革すること(明鏡国語辞典)であるという。ムバラク政権に代表される支配階級をエジプト市民が倒したのだから、革命の前半部分は成功した。しかし国家権力を市民側が完全に奪い取ったのかどうかは定かでない。今のところ国軍最高評議会が暫定的に全権を掌握し、新しい民主的政権づくりへの移行期をになうという段階である。市民側は国軍最高評議会の移行作業を、厳しく監視している。
革命の定義で言えば、フランス革命とロシア革命が典型的な革命であった。階級間の明白な権力移動があったかどうかは別として、革命という言葉が想起させる大変動はいろいろある。日本に近いところでも、毛沢東の指導した中国の農民革命、ホー・チ・ミンの指導したベトナム独立革命、ガンジーの指導したインド独立革命、マルコス独裁政権を倒したフィリピンのピープル・パワー革命などが挙げられる。いずれも革命という用語に違和感はない。革命という言葉は定着していないが、1980年代韓国の学生を中心にした反軍事政権闘争もその後の韓国民主化を実現したという意味で、革命的であった。
辞書の革命の定義には特に記載されていないが、被支配階級の人民ないし市民の多数が支配階級を倒すために闘ったという要素がないと革命とは言えないようだ。今回のエジプト革命にしても、上記アジア諸国の革命も、多数の人民あるいは市民が革命闘争に参加してこそ成就したものだ。翻って考えるに、そういう意味の革命はこれまで日本には起きていない。これは不思議なことだ。
政治・経済の大変動という意味で言えば、日本も1868年の明治維新と1945年の日本帝国の敗戦という革命的事態を体験している。250年の徳川幕藩体制を倒した明治維新は、薩長土肥を中心にした反徳川諸藩の奪権闘争であった。奪権に成功した反徳川諸藩は天皇親政による近代国づくりを進めたのだから、一般に明治維新を英語ではMeiji Restoration(王政復古)と呼ぶのもむべなるかな。
明治維新の志士たちには薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本竜馬、武市半平太など郷士(身分の低い武士と農民の中間的存在)出身者が多かったが、彼らは基本的には武士階級の末端にいる存在で、革命を闘った人民大衆とは言えない。長州には高杉晋作の興した奇兵隊という武士以外の庶民も参加できる部隊が存在した。
また明治維新前夜には「ええじゃないか」という不思議な運動が各地で起こり、庶民多数が伊勢神宮の御札をかざして「ええじゃないか、ええじゃないか」と叫びながら町々村々を踊り狂ったという。だから明治維新に庶民あるいは人民が全く無関係だったわけではないが、明治維新が闘う人民大衆の革命でなかったことは明白だ。明治維新は別の言葉で言えばクーデターだったのだ。
1945年の敗戦は結果として、それまで日本を支配していた軍国主義から日本人を解放してくれた。解放したのは、皮肉なことにマッカーサーが率いた占領軍だった。マッカーサーは天皇に代わって日本の支配者になった。日本国民は天皇に仕えるようにマッカーサーに仕え、占領軍の支配に従順に従った。広島、長崎の原子爆弾だけでなく、日本の都市を焼き尽くした非人道的爆撃を行った米軍に服したのだった。その占領軍が導入した民主主義が新しい日本の国是になった。日本の民主主義は人民あるいは市民が闘い取ったものではなく、占領軍から与えられたものだった。
従順な日本人が、革命的な闘いに立ちあがったのは1960年の安保闘争だった。1952年のサンフランシスコ講和会議で日本の占領は終わり、日本は独立を回復した。しかしそれは日米安保条約の下で米軍の日本駐留を許し、沖縄統治を米軍に任すという条件付きの独立であった。岸内閣は1960年、あまりにも片務的な日米安保条約の改定に取り組み、米国に日本防衛を義務づけた新条約を批准しようとした。これに対して日本人民・市民・国民はノーを突きつけた。国会を連日十重二十重に取り囲んで「安保反対」を叫んだデモ隊は、日本が体験した最も革命的な状況だった。
安保闘争は確かに日本人民の最も革命的な闘いだった。この闘いで岸内閣は退陣したが、安保条約は残った。つまり革命は成就しなかったのである。以来半世紀、歴代の自民党政府はアメリカに従属し続けたばかりでなく、従属の度合いを強めてきた。2009年の政権交代で成立した鳩山連立内閣は対米従属を断ち切れないまでも、日米対等な関係を目指すかと期待されたが、普天間基地問題で日米フィクサーに押し潰された。後継の菅内閣は、自民党以上に対米従属路線を深めつつある。革命を体験しない日本人は、本当の意味で国の主人公になっていないという以外にない。嗚呼。
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