解説:【極秘】野坂参三の「戦後日本革命の綱領討議資料」の公開にあたって
- 2011年 2月 24日
- スタディルーム
- 未公開資料渡部富哉野坂参三
解説:
【極秘】野坂参三の「戦後日本革命の綱領討議資料」の公開にあたって
➀【「野坂参三、同志を売った密告の手紙」の衝撃】
いま手元にある資料によると、1991年11月7日付の週刊新潮はロシア革命記念日に皮肉をこめて、「スパイ『野坂参三』で4人処刑された『ソ連資料』」として、アメリカから1938年ころにソ連に亡命した日系共産主義者たちの関係資料を追って、そこに野坂参三がどのように関係していたのかを告発した記事を掲載している。
記事の冒頭は「いまモスクワは情報の宝庫である。現代史の謎を解きおこす資料に溢れていると言っていい。ソ連邦のゆるやかな「解体」に従って、かって全世界に諜報の網を張りめぐらせたKGBの機密資料が烈しい勢いで漏れだしているのだ。
そんな中でこのほど明かにされた1938年前後に銃殺された日本人たちの供述調書は歴史の謎に1つの光をあてるものだった。かねて日本共産党名誉議長の野坂参三氏(99歳)に突きつけられていた、いわゆる“スパイ疑惑”を裏付ける内容だったのである。“アメ亡組”の17名についての最初の追跡調査だった」と記されている。
翌、92年8月12日、日本経済新聞が寺島儀蔵の生存を5回にわたって報道(『長い旅の記録』日本経済新聞社)、日本に招待された寺島は故郷の北海道に墓参のため帰郷し、東京で自分の体験を語る機会を得た。
その直後、1992年9月3日号の週刊文春に掲載された小林俊一・加藤昭共著の「野坂参三、同志を売った密告の手紙」は、「この3月、日本共産党の野坂参三名誉議長は満百歳を迎えた」で、書き始まる大スクープ記事の第1弾が掲載された。「同志を売った」とは野坂参三と同時期にモスクワに亡命した山本懸蔵のことである。
次いで第2弾は、「幽閉50年目の真実 野坂参三に見捨てられた粛清の生き証人」として、山本懸蔵の妻、関マツを採り上げた。「山本懸蔵の妻、関マツは夫のスパイ容疑をきっぱりと否定した。するとディミトロフないしはピークのいずれかが野坂に向かって、山本の政治的立場を述べるように要請した。野坂はただ一言でこう言い捨てたのである。「左派だ!」
当時の状況では、この言葉だけで十分だった。きわめてタイムリーな告発なのである。というのは折しも、“左派”(トロッキスト)、“右派”(ブハーリン主義者)、“外国のスパイ”などという無実の罪により、何十万、何百万という人びとが“人民の敵”として粛清されつつあった真っ最中だったからだ。
「密告の手紙」は野坂が山本夫妻を密告したことを明かにした。しかも、野坂がまぎれもない告発者として登場した。
「野坂のこの発言のあと、委員会参加者たちはこの件は全てわかったとし、私への質問は打ち切られてしまいました。野坂のこの発言が、私の夫の悲劇的な運命の原因のひとつであると私は思っています」(関マツへの面談記録)
10回にわたるスクープの6~7回は山本の夫人関マツについて、野坂は単に密告者としてではなく、告発者、訊問者とし登場した。「野坂参三夫人だけがなぜ釈放されたのか」、「新資料が語る野坂参三密告隠蔽工作」、「野坂参三はKGBのエージェントだった」などと以下、10回連載され、日本中に異常な興奮を巻き起こした。
このスクープ記事はいまでも当時を思い出すと興奮するほどすさまじい衝撃だったが、10回にわたったスクープはこれで終わらなかった。
続いてスクープ第2弾として「幽閉50年目の真実」「野坂参三に見捨てられた粛清の生き証人」として永井二一が報道され、日本とは関係がなかったように思われてきたスターリン粛清は、実はその後、加藤哲郎一橋大学教授の調査などで100名をこえることなどがわかってきた。その契機となったのがこの週刊文春のスクープだったのである。
筆者には特別な思いがあった。1980年9月に野坂参三によって日本共産党からスパイとして除名され、北京の監獄に27年間も幽閉された伊藤律(政治局員)が奇跡の生還を果たした。そのニュースは日本中を沸かせた。伊藤律の目は失明状態で、重度の腎臓病を患い、一人で立居振る舞いができない状態だったにもかかわらず、筆者たちが編集した『徳田球一全集』(全6巻、五月書房)に協力し、国鉄労組の解体攻撃に反対する陣形つくりに協力しながら、1989年に死去した。
筆者は伊藤律の除名は冤罪によるものであると確信し、93年に『偽りの烙印』(五月書房)を出版した。野坂参三に対する調査はそのとき以来の課題になったからである。
➁【赤旗特派員は緊急指令により調査を開始し野坂は除名された】
そのスクープ「密告の手紙」が戦前、戦後を通じて日本共産党を代表する顔として存在し続けた野坂参三の実態を暴き、日本共産党内部に衝撃を与えたことはいうまでもない。共産党は緊急にモスクワの赤旗特派員に調査の指令を出し、早くも92年9月2日にはモスクワの文書保管所に共産党の調査団が現れている。
この一連のスクープは『闇の男 野坂参三』(文芸春秋)として93年に刊行され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するという経過を辿った。
連載の4回目が出た92年9月17日に、野坂の日本共産党名誉中央委員会議長解任を中央委員会が決定。20日に記者会見が行われ、21日に新聞発表となり、次いで12月27日、第8回中央委員会総会で除名され、翌93年11月14日、101歳で死去した。当時、1日に2時間程度しか意識がはっきりしなかったという健康状態にあった野坂に、果たして共産党がとったこの事態を正確に判断することができただろうか。
日本共産党委員長不破哲三著『干渉と内通の記録』(上下巻)が新日本出版社から刊行されたのは93年9月15日のことで、私が所有している本の奥付では、早くも2週間後の9月30日には第4刷が出版されている。巻末には(「赤旗」1993年1月10日~6月16日)とあるから、「赤旗」に連載の後、単行本にまとめたのだろう。 如何に共産党が『闇の男』に周章狼狽していたかがわかるだろう。
本資料の野坂参三の「戦後日本革命の綱領討議資料」は不破哲三著『干渉と内通の記録』(下巻)の第10部「干渉主義の戦後の起点」でも引用している。モスクワに派遣された日本共産党の赤旗特派員らによる調査隊が、その折りに収集した資料であろう。
野坂参三を内通者(スパイ)として抱え込みながら、ソ連共産党がいかに日本共産党に干渉してきたか、という実証のために用いている資料である。
この資料は和田春樹東大教授が『歴史としての野坂参三』(初出は雑誌「思想」94年3回)の著作の中でも引用し、不破哲三の論点とも異なる論理展開をしているから、今回公開した資料が本邦初とは言えないが、双方ともに資料の全部を紹介しているわけではない。自分の論理に都合のいいところだけをつないで実証に役立てているから、反論や批判をしようにも資料の全文は公開されていないから、手の出しようがなかった。日本共産党の資料室に入った資料は一般には非公開のものだから、不破哲三見解だけが罷り通り、版を重ねた。
今回、筆者がこの資料の公開を思い立ったのは、2011年1月、かって延安で野坂参三の指導の下で日本人民解放連盟の初期の活動家として、日本の中国侵略戦争に反対して闘ってきた前田光繁(当年95歳)さんの講演会を企画するに当たって、関連する資料としてこの際に公開しなければその機会は永遠に失われるかもしれないと思ったからだ。
➂【「戦後日本革命の綱領討議資料」をどうして入手できたか】
この資料がなぜ筆者の手元にあったのか。不破哲三著によると、「その資料を文芸春秋がどうして手に入れたのかの秘密も日本共産党の調査団の努力によってわかった。日本共産党の陰謀的な干渉工作の当事者・コワレンコ(元、ソ連共産党国際部副部長)を雇い入れました。文芸春秋は多額な礼金を払って、この資料をコワレンコから買い取ったものである」「ところがこの反共グループはジャーナリズムの道義の根本にかかわるこの問題について、いまだに何の弁明もできないでいる。」と書いている。
では日本共産党は多額な礼金も払わずに、日本共産党は関係資料の収集ができたのか。当時、日本共産党とソ連共産党との関係を考えればそんなことはあり得ない。「目くそ鼻くそを笑う」類ではないのか。
何よりも9月20日付の日本共産党佐々木陸海書記局次長の記者会見の発表によると、「週刊文春の第一弾が出たのはかなり前のことだ。その時点で何故(査問を)やらなかったのか」の問いに対して、「(資料収集の)努力はしている。しかし、(モスクワの資料は)厖大なものでコピーをとるのも変動相場制のようになっている。現在入手に努力している」と、資料の入手は変動相場制のような状態にあることを告白している。
これは筆者らがモスクワで実感したことだった。どの資料室を訪れても資料の値段は高騰し、純粋な研究者が手の届く状態にはなかった。「変動相場制」は文芸春秋と日本共産党とさらには米国のコミンテルン研究機関たちが札びらの威力を存分に発揮して収集した結果だったのだ。日本共産党は一人蚊帳の外にいたわけではないことを自ら告白しているではないか。それは筆者たちのモスクワでの体験がまざまざと思いしらされた実体験だったのである。
筆者がこの資料を入手した経緯から説明しよう。1996年、筆者は朝日新聞モスクワ支局長だった白井久也氏の取材にお伴して、2人でモスクワを訪問した。私の目的は野坂参三資料やゾルゲ関係資料の収集や研究者と討議をするためだった。
諸大命のアンレー・フェシューン氏(現、駐日ロシア大使館1等書記官)とゾルゲのさまざまな問題点について討論を交わしたり、資料の交換などをしたりした。後に、白井久也編著『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』(社会評論社)に収めた「【資料編】フェシュン、A・G編著『秘録 ゾルゲ事件─発掘された未公開文書』」は、このときの話し合いによって公刊にこぎつけたものだ。その後もゾルゲ研究でお世話になっている。
彼は筆者が野坂参三の資料を求めてモスクワにやってきたのだと知ると、翌日、ホテルまで一抱えというと大袈裟かもしれないが、A4版で150枚の資料を持ってきてくれた。その前半30枚はゾルゲ資料だった。
当時、筆者は高校の警備員となり、調査費を稼いでいたときだったから、謝礼などは払える立場にはなかった。
すぐに翻訳にかかるべきだが、何しろ資金がなかった。藤井一行教授(富山大学)のお世話で大学院生にアルバイトで翻訳してもらった。社会科学にどれだけの知識があったかは分からなかったが、おおよそのことさえつかめればいいと考えてお願いした。今回、この翻訳を読み直してみると随分苦労しただろうということがわかる。
藤井教授によると、この資料の出所や資料番号や署名、年月日などの記載が不明なものがあるから非常に扱いにくい、という。今日でもその状況に変わりはないが、いくつかの文書にはソ連共産党中央委員会の保管資料であることを示す印が残っている。
96年のモスクワ訪問でコミンテルン関係の資料が大量に入手できるルートと手づるをつかんで、帰国後、その受け入れ対策の討議が石堂清倫氏をふくめて始まった。それが今日の日露歴史研究センターの創立につながったのだ。
和田春樹氏にも声をかけた。すると和田氏は東京大学を定年退職したあと、モスクワで収集したコミンテルン関係資料を岩波書店から出版する計画だという。勿論、『歴史としての野坂参三』に使われた資料もそれに含まれるに相違ない。そうであれば、その作業に協力しようということになって、野坂参三の「戦後日本革命の綱領討議資料」の公表は見送ることにした。間もなくソ連共産党の崩壊など20世紀は劇的な展開をみせた。和田氏たちの復刻の作業がどこまで進んだのかは知らないが、すでに20年を経過している。筆者が所持する野坂資料は翻訳まで終わっていながら、公開の機会が失われ、陽の目を見ることなく書庫に眠ったままになっていたのである。
④【ソ連共産党と野坂の「戦後日本革命綱領討議」の経過】
本資料についての「解説」に入る前に野坂参三(岡野)の「戦後日本革命の綱領討議」の経過から説明しよう。
以下、本文中、不破哲三著新日本出版社(下巻、第10部)からの引用は(不破本)と記し、和田春樹著『歴史としての野坂参三』からの引用は(和田本)と略称し、ページを付した。
ここに登場するディミトロフはコミンテルン(国際共産党)の書記長であり、1943年、コミンテルンが解散したあと、44年7月、ソ連共産党中央委員会国際情報部が新設され、部長に就任した。次長にはマルクス・エンゲルス・レーニン研究所の副所長をつとめたポノマリヨフが就任し、のちにロシア共産党国際部長となった。(不破269P)、(和田124P)。
対日戦争がはじまった翌日、1945年8月10日、ディミトロフとポノマリヨフはスターリン、モロトフ、マレンコフに宛てて岡野(野坂参三)グループの利用に関する意見書を提出(不破本及び和田本124P)この手紙が45年10月に秘密裏に行われた野坂参三のモスクワ訪問の出発点になったという。意見書の結びの言葉は「日本の戦後の新体制の樹立に利用できる」(和田125P)とある。ここから舞台は戦後に移る。
1945年8月15日、日本敗戦の直後、野坂は直ちに行動した。8月22日、毛沢東と周恩来は蒋介石と話し合うため重慶に赴くことになった。それに先立って毛沢東は延安を去る野坂のために歓送の宴をひらいた。周恩来は日本労農学校を訪れて挨拶した。(和田本には28日とある。)
野坂は敗戦日本への帰国を急いだが、これまで野坂の自伝『風雪のあゆみ』にも、またいかなる著作にもふれたことがなかったが、野坂はモスクワへ急行し、ソビエト共産党の対日政策の最高責任者らと戦後日本の革命綱領の討議を重ねた。この事実は当時の日本共産党の最高指導者徳田球一や志賀義雄らや、米国の占領軍情報部らにも、厳密な訊問にもかかわらず知られることはなかった。
その極秘の隠密活動の一部始終が文書になって、ここに初めて明かにされたのである。その記録は野坂が延安を出発して1カ月後の10月11日に始まっている。
長春で、野坂はマリノフスキー方面軍司令官に会って、モスクワ行きの許可と便宜を申し出た。2週間ほど滞在中に日本人居留民のための活動をしている。
モスクワ着は10月上旬、出発してから1カ月余り経っていた。
10月11日、赤軍諜報総局長クズネツォフ陸軍大将はモロトフの指示で初めて野坂と会った。野坂はモスクワに来た目的を説明した。(以下岡野の名で記録されている)
10月12日、クズネツォフからモロトフに宛てた報告15項目を、モロトフはディミトロフ(延安時代の野坂と連絡を取っていた)に、東京からの徳田報告書(「人民に訴ふ」)を併せて送って検討させた。(和田131P)
10月16日、ディミトロフは野坂の対談報告に対応する方策をモロトフに文書で提案している。月日が記載されている報告書がもう一通ある。
10月16日、ディミトロフは検討の結果をモロトフに送った。(8項目提案)
10月28日、モロトフはポノマリヨフらに野坂と面談を指示した。
10月29日、ポノマリヨフはモロトフに野坂会談の発言内容について上申。
10 月30日、ポノマリヨフらクズネツォフ赤軍諜報総局長の執務室で野坂会談が行われる。
11月 2日、コバリヨフとクライノフは野坂を再訪した。(帰国問題の討議)
野坂執筆の「日本民主化のための提案の一覧」(日本語)を提出。「民主戦線を組織するために共産党が提出すべき共同綱領はつぎのものである」に始まる12項目。
11月3日、クライノフは再び野坂を訪れた。会談記録。
11月4日、野坂はクライノフに文書を送った。「総選挙は延期すべきである」、「憲法改正委員会」の改組など戦後日本の進路について意見表明
11月7日、ボノマリヨフは再び野坂を訪問し、対談した。
11月9日、野坂はクズネツォフに手紙で、2日以内に出発させるように要請。
この手紙はポノマリヨフ、パニシキンからモロトフに文書で報告。
11月10日、クズネツォフが野坂の会見についてモロトフに文書で報告。
11月13日、コバリヨフ、クライノフ、プルイシュフスキーは「日本共産党の政治路線の基本問題について」の意見書をまとめる。徳田・志賀らの見解と野坂の比較して、野坂を支持する意見をまとめている。マレンコフ、ベリアに送付。
11月17日、ポノマリヨフら野坂を2度目の訪問。「岡野の政治路線について」
11月23日、ポノマリヨフ3度目の会見。帰国問題と資金の援助について。
タス通信が伝えた(10月18日付)「日本の共産主義者の政綱」を見せた。(「人民に訴ふ」)はすでにモロトフに渡っているが、このとき野坂に見せた。これに関する野坂の意見。
12月初め 野坂、森健、梅田照文、山田一郎モスクワを発ち奉天へ。以下は巻末の略年表参考のこと。
⑤【戦後日本革命の焦点のひとつは天皇制問題】
討議資料の経過に沿って以下、その問題点を摘出してみよう。
日本帝国主義の敗北を知るや、当時府中刑務所に予防拘禁されていた徳田球一、志賀義雄たち獄中の共産党細胞は、集団討議の上で「人民に訴ふ」を出獄の声明として発表した。そこには結党以来のスローガンであった「天皇制の打倒」が掲げられていた。
いっぽう当時、日本共産党のもう一つの組織が、延安にあった野坂参三が率いる日本人民解放連盟内の共産党組織であった。今回提供する資料の中心的な問題点はこの天皇制をめぐって両者の見解が全く相違していたことである。野坂は延安から日本への帰路、野坂の希望によって極秘にモスクワに立ち寄り、ここに示されるような「戦後日本革命綱領」の討議をしている。
野坂はその帰路、マスコミを通じて天皇制に関する自説を披瀝してきた。国内の共産党の指導部はもとより、占領当局者や国民の間にも、一枚岩であるはずの共産党指導部のこの重大な亀裂は、大きな注目を浴びることは当然のことであった。
徳田はGHQの民間情報教育局のベアストック大尉から野坂の延安の第7回党大会の演説の速記録を提供され、野坂の戦後日本革命の見解を知り、彼の動向に目を離さなかった。天皇制問題について徳田は占領当局者(エマーソン)の訊問に答えており、最大の関心事のひとつであり、それはまさしく野坂と徳田の最大の対立点となっていた。
徳田は出獄直後、ヴォロノフ(日本語のできるソ連将校)と会っている。ヴオロノフは徳田の戦後政治綱領的文書(「人民に訴ふ」)をモスクワに送った。これがモロトフから野坂参三と会談したクズネツオフの報告書につけて、デミトロフに検討させるために送られている。
対日戦争がはじまった翌日、1945年8月10日、ディミトロフとポノマリヨフのスターリン、モロトフ、マレンコフに宛てた野坂参三の利用に関する意見書が、45年10月に秘密裏に行われた野坂参三のモスクワ訪問の出発点となったという。(不破本及び和田本124P)
和田本によると、意見書の存在は認めるが、決定には至らなかったといい、不破本では意見書のとおりにことが運ばれたように書いている。しかし、モロトフ宛ての10月12日付の文書を素直に読むと、「岡野氏とその同志は何の目的でモスクワに来たのか」という質問が第一声であり、マリノフスキー方面司令官にモスクワ行きの許可と便宜を要請していることからすると、野坂のモスクワ訪問の最大の目的は、天皇制に関する野坂の主張が国内指導部の「天皇制の打倒」というスローガンと食い違っていることから、日本に帰国する野坂はソ連共産党指導部のお墨付きを得て、帰国したいという願望から出たものだと思われる。
さらに野坂はコミンテルンの国際連絡部(OMS)の情報員だったから、その指令によって行動することは野坂にとっては何の抵抗感はなかったし、何年も別居のままの妻の竜や岩田義道の娘みさごも養女としてモスクワで生活しているという事情もある。
さらに国内指導部の徳田球一の手ごわさを一番承知しているのは他なら野坂自身だったからだ。そこには戦前に野坂が1928年3・15事件で逮捕されながら、保釈、出獄、亡命の経緯のなかで野坂に深くつきまとった天皇制問題がある。
野坂には戦前の著名な歴史的文書「日本の共産主義者への手紙」(1936年2月、モスクワ、岡野、田中=山本懸蔵の署名)がある。コミンテルンの第7回大会の方針、「反フアシズム統一戦線」の方針に沿った有名な論文だが、ここには主要な敵はフアシスト軍部だと指摘してはいるが、天皇制にはふれていないし、日本共産党の当面する任務について書いているが、その共産党はすでに34年には壊滅しており、如何にして共産党を再建するかについてもない。
『野坂参三選集(戦時編)』日本共産党中央委員会出版部)には、「日本人民解放連盟綱領草案」が掲載されており、その次のページには「日本人民解放連盟綱領草案に関する重慶『大公報』の評論について」という綱領草案に対する重慶側の批判に対する反論が掲載されているが、「大公報」の社評そのものは掲載されていない。
ところが山極晃(横浜市立大学教授)らが編集した『資料・日本占領(1)天皇制』(大月書店)によると、「資料45 重慶『大公報』社評『日本人民解放連盟綱領草案』を論評する」が掲載されており、重慶の新聞が野坂の綱領の発表の翌日、直ちに反論を掲載していることは注目に値する。その反論の中心点のひとつ天皇制について次のように書いている。
「軍部のわが国における勢力を一掃するとあるが、これは何を打倒するのか、という中心課題に答えたものである。どのように軍部を打倒するか」「今日の東條内閣は軍事フアシズムの独裁政権である。しかしわれわれは、戦争を引き起こした『首謀者』がまったく軍閥だけであるというのは、同意できない。『軍閥独裁打倒』は日本の民主主義革命の重要な任務であり、戦時における中心的任務であるといえるが、しかし、断じて唯一の任務ではない」「軍部が新たに立てた錦の御旗は天皇であり、天皇が封建的特質の象徴であり、また大財閥でもあることをぜひとも知っておかなければならない」「軍閥及びその一味は当然打倒すべきだが、天皇及び、財閥はとりわけ徹底的に打ち倒さなければならない。天皇と財閥は軍部の下部に属する支流とはいえず、彼らはともに帝国主義の主人公である。だからわれわれは日本解放の綱領は旗幟を鮮明にし、天皇と財閥をともにともに打倒すべきものの列に加えることを主張する」(『資料・日本占領(1)天皇制』250ページ)
全くおかしなことに、野坂の執筆による「大公報」への反論の署名が森健の名義になっていることだ。森健とは野坂のモスクワ行きに同行した、日本人民解放連盟の3人の幹部の1人ではないか。岡野進の名は毛沢東の勧めに従って公然化したのは43年6月のことだと野坂自身が書いている。それまで彼は林哲を名乗リ、コミンテルンの暗号名は李貴(リ・クイ)であった。なぜ公然化した岡野の名で反論しなかったのであろうか。野坂の動揺がモスクワでの討議につながっていたのではないだろうか。
一連のこの資料をみると、天皇制の打倒に反対する一貫した野坂の姿勢がうきぼりになる。野坂は天皇制について日本共産党が結党以来掲げてきた天皇制打倒のスローガンに反対してきた。それが3・15事件で逮捕されながら保釈され、「亡命16年」に結びついたのだ。
野坂は検事の訊問に答えて、「君主制の撤廃その他(12)の事項を当面のスローガンに掲げることに異論をもっている」と答えている。(『野坂参三・予審訊問調書』井上敏夫著、五月書房74ページ)
さらに重要な「大公報」の指摘は、「植民地の放棄を表明しておらず、台湾の中国への返還と朝鮮の独立を宣言していないことだ」と論評していることも付け加えておく。野坂の大衆意識の重視は農民出身者の捕虜兵士たちへの工作体験にもとづいているが、帝国主義権力の崩壊による大衆の意識の変化や高揚する思想を射程に入れることが出来なかった。その点は徳田球一とは根本的な相違点であろう。
野坂はクズネツォフの執務室での対談のおり、「徳田、志賀を知っているか」との質問に答えて、「徳田も志賀も、よく知っている。彼等は反ファシズムの闘いや民主主義勢力結集の経験を知らず、日本の政治活動の主要な問題を解決することにおいて、旧い左翼的立場をとるかもしれない。またフアシズムの何たるかを知らず、現在の状勢における共産主義者の戦術を理解していない」と答えている。野坂の「左翼的」の言葉に山本懸蔵を指したときと同じ言葉の出現に思わずギョッとした。野坂はどのような意味合いをこめて徳田、志賀を指して「左翼的」と言ったのだろうか。
いま徳田球一が眠っている東京多磨墓地の徳田の墓の同じ敷地内に岡田文吉の墓碑がある。岡田は戦後、延安で野坂から指令され、徳田へのメッセージを託され、苦心惨憺の末、野坂が帰国する1カ月前に日本に無事帰国した。そんな経緯があるから岡田は野坂の信奉者かと思われているが、実は岡田に対して「出獄したら延安の野坂の許で、国際的連絡に当たれ」と指示したのは、網走刑務所在獄中の徳田だったのである。
ところで野坂が岡田に与えたメッセージは何か、これも秘話のひとつだ。岡田は党本部で徳田に会って、野坂のメッセージを伝えた。立ち会ったのは志賀義雄ただ一人だった。野坂は徳田に以下の3つを伝えた。➀急いで共産党を結党するな。➁労農党のような統一戦線党をめざせ。➂天皇制打倒の旗を掲げるな。であった。徳田が激怒したのは当然のことだ。(志賀義雄「言い遺しておくこと」(1984年7月、雑誌「諸君」7回連載)
資料にある「日本人共産主義者の大会」とあるのは明かに間違いで、中国共産党第7回代表大会の野坂の報告「民主的日本の建設」である。
和田著によると徳田は表面的には中央委員会で「ソ連とは何ら関係を持ってはならない。もし提携するとロシアの共産党はあまりにも大きいため、日本共産党はそのアイデンテイティを失うであろう」(133ページ)という立場を取っているが、事実は違うと否定的でり、その1例として「実は徳田球一は獄外にいた椎野悦朗に対して、占領司令部にいるソ連将校と会うように指示していた。椎野がまだ横浜にあった司令部にいたソ連軍将校に接触を試みたが、会話は成立しなかった。このとき日本語ができないふりをしたこの将校が実は日本語がよくできることを椎野はのちに知ったという」(134ページ)
「徳田は出獄直後にヴォロノフというソ連人に会っている。デレビヤンコと一緒にきたソ連軍人の一人であろう。椎野が会った日本語ができるソ連将校とは彼のことかもしれない。徳田はこの人物に出獄声明『人民に訴ふ』を渡し」「ヴォロノフはモスクワに徳田の話を伝え、指示を要請した。この要請がモロトフからディミトロフに渡されたのである」と書いている。
和田は「徳田が椎野に占領司令部にいるソ連将校と会うように指示した」と書いてが事実ではない。正確に記すと椎野は敗戦当時、予防拘禁所から出て鹿児島県鹿屋航空隊にいた。出獄するとき、徳田からの指令は「どんな状勢になるかも知れないが、連絡がとれるようになったら直ちにその任に当たれ」だった。
敗戦の報を聞くや直ちに東京の府中刑務所にとって返した。8月末のことである。広島は原爆のため交通は復旧してなかった。徳田たちは拘禁されたままだった。9月初め、徳田と志賀は相談して政治犯の即時釈放を求める文書を作成し、志賀が英訳した。その文書を志賀は椎野にGHQに届けるように指示した。その表書きはマッカーサー元帥あてになっていた。
ところが椎野は筑豊炭鉱出身の労働者で、東京はまったく馴染みがなく、どこにGHQがあるかも分からず、ましてや英文も解らないし、重要な任務だから誰でも相談に乗るわけにもいかずかなり苦労し、結局、金天海から頼まれた朝鮮の同志と連絡をとり、朴恩哲から横浜にソ連大使館があることを聞いて、連絡をとった。ソ連大使館は志賀のマッカーサー宛の手紙を受け取ったが、宛て名が違うとして椎野に返した。そんな経緯で椎野がエマーソン政治顧問に届けるのはおくれた。
椎野の回想によると、ソ連大使館では随分長く待たされたという。多分、封は切られ中身は写し取られただろうと回想している。(『ドキュメント志賀義雄』の巻末の年表参考)
⑥【野坂参三の経歴の謎の解明】
この綱領討議資料によると、ソ連の対日関係者たちはいわゆる徳田の「解放軍規定」に大きな疑惑をもっていたことがわかる。それが野坂をして「全連邦共産党中央委員会のルートでなく、国家保安人民委員部(のちのKGB)あるいは軍情報局の委任された適切な職員(単数)だけを通じて岡野同志との連絡を保持すること」という提案になっているのだが、不破論文によると、「野坂の扱いは最初から日本に送りこむソ連の内通者として、あるいはソ連側の地下的な工作者としてのそれだったとみてまちがいない」という。
しかしこれは野坂の戦前の活動をみれば的外れな意見だということがわかる。何も野坂の活動は戦後に限って、特殊な活動をしてきたわけではない。「野坂の戦前の三大功績」と言われるものは、【その1】が産業労働調査所の活動であり、【その2】は米西海岸からの日本工作、【その3】は延安での日本軍捕虜たちを組織した反戦同盟の活動が挙げられる。そのすべてはコミンテルンの極秘な情報活動であった。
このソ連共産党が保有する野坂参三の経歴書は随分いい加減なものだが、極めつけの特筆される情報もふくまれる。野坂が東京大学卒業とは単純ミスで、彼は慶応大学の卒業だ。問題はその次の「1922年ソ連邦から日本に派遣される」という項目に不破本は何も注目していない。
野坂はイギリスに留学中に共産党に入党し、1921年、プロフィンテルン(赤色労働組合)のロゾスキー書記長に招待されてモスクワを訪問している。当時、モスクワで極東勤労者大会が開催された。日本から徳田球一ら5名が参加した(アメリカから6名)。これが日本共産党の創立につながったのである。
ところが当時モスクワのルックスホテルに日本代表と同宿していた野坂はこの大会に参加もせずにベルリンに帰ってしまった。その理由は「旅行の目的からいって、おそくとも二人の結婚記念日である1月3日までにはかえれるようにする、と約束した」(『風雪のあゆみ』3巻、266ページ)とある。
これが鈴木茂三郎(日本社会党委員長)自伝その他、田口運蔵らから「野坂参三スパイ説」のレッテルが貼られる最初のものとなった。ところがこの真相は当時は掴めなかった。最近になってようやくこのロゾフスキーの招待はソ連側のエージェント契約だったことが判明した。また、96年に白井久也氏がKGB資料室で発見した資料によると、このときの勤労者大会の通訳だった大庭柯公(その直後に日本のスパイとされて粛清される)に宛てた野坂参三の手紙がファイルされている。【その1】の産業労働調査所は野坂の隠れ蓑だったのである。
それがこの「1922年ソ連邦から日本に派遣される」の真意なのである。
【その2】については、今日では加藤哲郎教授によって米西海岸の対日工作はジョー・コイデの主導によるものと判明している。野坂の活動はコミンテルンOMSの情報活動だったことは34年6月27日付のピァトニツキー宛ての暗号電報によって今日では明かにされている。
この経歴書で極めて興味があるのは、野坂の米国の活動は第1回が1934年3月1日から35年6月末まで、第2回目が1936年5月9日から38年春までとなっているが、この経歴書では第1回目の記載はなく、単に「1936年~1938年までコミンテルン関係でアメリカ合衆国に出張」とだけ記載されていることだ。
「1923年綱領起草委員となる」、「1928年、懲役2年を宣告された」とあるのも事実ではない。本年は日本共産党の創立90周年にあたり党史の再検討もされよう。このあたりの疑惑にも明確に不破資料によって明かにしてもらいたいものだ。
【その3】についても、当時から野坂はディミトロフと連絡をとりあって活動していたのであり、その極秘の電報も今日では発掘されている。
野坂は延安を離れて帰国の途につくとき、彼は延安では日陰の存在になっていた王明に缶詰を贈って別れの挨拶をした。王明はこれに感激して七言絶句の漢詩を野坂に贈った。当時の延安に於ける王明と毛沢東の関係を考えれば、何事にも慎重な野坂の行動の裏に何があったのか、王明も野坂もコミンテルンの幹部会委員であったという歴史的な関係を越えた、野坂のかくされた任務があったといえそうだ。
⑦【野坂参三のモスクワ行きのもう一つの秘話】
和田春樹著によると、「野坂らを乗せた米軍機はその日のうちに霊邱に到着し、一行はそこから徒歩、騎馬、トラック記者に乗って、約1週間かかって、司令部のある張家口に向かった、そこで日本人居留民の工作をしながら、1週間滞在したあと、ソ連機で奉天に飛んだ。野坂はそのとき奉天の飛行場にザバイカル方面軍政治部長ブリトゥーラ少将が出迎えてくれたと書いている。これは事前に連絡をしてあったためだろう。その翌日、野坂はソ連軍司令部が置かれた長春に飛んでだ。ようやくここでソ連軍司令部に出頭して、マリノフスキー方面軍司令官に会い、モスクワ行きの許可と便宜を願ったのである。長春ではソ連グループ将校の軍服を与えられ、2週間ほど滞在する間、日本人居留民のための活動を行っている。野坂参三は長春に1カ月滞在したと書いているが間違いである。長春から奉天にもどったと書いているがこれも嘘である。ソ連に行ったのである」(128ページ)とある。
ここからモスクワまで軍用機で運ばれるという足どりになるのだが、以下はこれも秘話のひとつだが、戦後、民社党の代議士になった和田耕作(東京杉並4区選出)が筆者のインタビユーに次のような重要な証言をした。
和田耕作はゾルゲ事件の直前に起こった企画院事件で検挙された。この事件はゾルゲ事件の摘発のために検察当局が尾崎秀実の交友関係者を狙って検挙し、確証を得たいためにでっちあげた事件ではないか、というのが筆者の仮説であり、その真実を和田氏から直接聴こうと計画したものだった。
話は野坂参三に及んだとき、彼は次のように語った。
「私は長春で戦後、野坂参三と会っている。戦後の混乱は凄まじく、ロシア兵士の暴行に抗議して日本人は自治会を作って活動していた。そんなときだ私はロシアの軍司令部に連れて行かれたとき、そこに1人のロシア軍の将校の服を着た明かに日本人と思われる人物に会った。なにをそのときに話したかは忘れたが、治安の回復を要求したと思っている。軍司令部から帰ってくると、心配していた淡徳三郎(戦後、『レジスタンス・抵抗』などを出版した)が心配そうに待っていて、一部始終を聞いた。
すると淡徳三郎は「君はその人物が誰だか分かるか、それは間違いなく野坂参三だ」と言った。淡徳三郎は3・15事件のあとの裁判闘争のとき「モベヒ会議」というのがあった。“モ”とはモップル(救援会)を意味し、“ベ”とは弁護士、“ヒ”は被告を意味した。
淡は救援会を組織して、法廷における共産党の代表供述を筆記した人物として知られているから、野坂参三を知っていたのであろう。
和田によると、「そのためかどうかは知らないが、私はその後抑留されてしまった。軍人でもない、民間人がだ。それが不思議で仕方がなかった。戦後、国会で何回も野坂とは会う機会があったが、彼は一度も私に挨拶もしたことはなかったから確認がとれなかった」という。この和田の体験した回想は彼の自伝に掲載してあるという。
この資料でみると、野坂の帰国ルートやモスクワでの討議は最高レベルの極秘であった。
長春で野坂の帰路、和田にあったことなどが知られては困るのであろう。
終わりに
この資料について解説すべきことはあまりにも多い。とても限られた紙数では書き切れない。また疑問とする箇所も多くあるだろう。それは和田春樹著『歴史としての野坂参三』(平凡社)、不破哲三著『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(下巻、第10部)以下を併読の上理解されたい。日本共産党は今年、創立90周年を迎える。野坂参三に関する党独自の研究成果の発表を期待したいところである。
【用語の解説】
「日本人民反戦同盟」「日本人民解放連盟」─昭和13年末、華北前線で日本人捕虜10名によって八路軍の援助の下に「覚醒連盟」が作られた。それが華北における最初の反戦団体であった。その後、同様の組織が、華北の各地で組織された。これらの団体が昭和17年に統一されて「日本人民反戦同盟」になった。その目的は戦争反対、軍閥打倒、民主的にほんの建設の3つである。さらに19年に同盟は改組されて広い政治的綱領をもつ「日本人民解放連盟」となった。
「日本労農学校」(日本工農学校)─昭和15年末日本人反戦同盟の指導のもとに、八路軍によって延安に作られた日本人捕虜教育の学校。終戦時には、学生250名。山東及び新四軍方面に分校があった。
「普西北」─山西省の西北部地方。
「普東南」─山西省の東南部地方。
「普察翼」─山西省察哈爾省、河北省、3省の接触地方。
「翼魯豫」─河北省、山東省、河南省、三省の接触地方。
(以上野坂参三「平和のたたかい─反戦同盟実戦記」による。
参考資料
野坂参三の「戦後日本革命の綱領討議」の関係略年表(渡部富哉作成)
1944年
44, 1, ジョン・エマーソン、ニューデリー経由で重慶のデービスらに参加。
中国特別区で約300 人の日本人捕虜を「日本人民解放連盟」に組織される。
44, 1, 3 蒋介石宛て野坂参三の手紙
44, 2,26 蒋介石から返信(郭仲容名義)
44. 3.23 重慶「大公報」社評「日本人民解放連盟綱領草案」を論評する。
天皇制打倒と財閥打倒が含まれていないことを批判した。『資料・天皇制』
4, 5 在延安の野坂より重慶の鹿地亘に書簡を送る。 (渡部資料にあり)
44, 4, 現在の日本人反戦同盟の華北連合会の各支部ごとの同盟員数が香川孝志・前田光繁共著『八路軍の日本兵たち』に掲載されている。それによると223名とある。詳細は別掲。
4,28 日本人民解放連名綱領草案に関する重慶「大公報」の評論について。
『解放日報』森健名儀(W注 吉積清のペンネームでもある)(野坂参三)
5. ガンサー・シュタイン、ハリソン・フォーマンら新聞記者、延安で野坂と会う。6.22 延安にデービッド・パーレット大佐第一次先遣隊長、コージ有吉、ディクシ
ーミッション一行訪れる。16名から30名にふくれ上がる。ショー野村は1944.8月に延安に来る。重慶から4名と共に野村が延安を去るのは終戦後の9月1日。 大森実著『祖国革命工作』(以下、祖と略記)
6. 毛沢東工作のためディクシーミッションの一員、ジョン・サービスが延安に来る。岡野とサービスが会った(9月8日)あとで、サービスは日本専門家を延安に送れ、と連絡。 祖
7. ソ連共産党中央委員会、国際情報部が設置された。ディミトロフが部長、次長にポノマリヨフが就任。のちポノマリヨフはソ連共産党国際部長に就任。
7. エマーソン、重慶で鹿地亘と会い、延安の野坂と会うよう勧められ、野坂、鹿地、大山の反戦組織結成の提案をうける。(エマーソンは野坂のことは否定している。エマーソンに延安に行くようにすすめたのはジョン・デービスである。)
7.22 連合軍在華司令官スティルウェルの派遣する米軍事視察団が延安を訪問。
8,22 付 コリング、ステル両大尉が上官のロバート・ホールOSS大佐に送った極秘報告によると、「日本共産党の最高幹部岡野はわれわれのために工作員を満州、朝鮮、日本に派遣する意思がある。われわれはこれをアップルというコードネームで呼ぶ。その他資金の提供。と無線通信機のことに関して─
米国議会図書館の資料添付 99,3,23 「世界日報」
9. 米軍事視察団の延安訪問をうけて野坂と会ったのが戦時情報局の在中国責任者であったM・フィッシャーと知日派外交官で、元駐日公使のジョン・K・エマーソンおよびOWI(戦時情報局)コージ・有吉。野坂との接触は数ヶ月に及び、45.1.31 付で「日本の共産組織」と題する長文の報告書を本国に送っている。 嶺健二(W=このエマーソンの報告は極めて重要。)
44. 秋 ディクシーミッション(バレット大佐を長とするジョン・サービスら)が延安を訪れた直後、ジョン・エマーソンは鹿地を重慶に訪れる。重慶のOSSは3部に分かれていた。
① 後方攪乱-- 破壊部隊。
② 地下スパイを主とする情報担当。
③ 戦略的な公然宣伝活動─ 鹿地に目をつける。 祖(W=エマーソンの延安滞在は44.10 ~12の2ケ月半位。 「赤旗とGHQ」エマーソンとジョージ・有吉10月下旬延安に入る。エマーソン12月中旬延安を去る。45.1.5付で「日本共産党」報告を国務長官に送る。
延安リポートより
44, 9 , 2 第9号 日本共産党ノート(署名なし)
第12号 「プロパガンダの作られ方」
第14号 「八路軍のプロパガンダの内容」
44,11, 7 第17号 岡野によるアメリカ作成のビラへの批判
第22号 日本軍捕虜の意見調査 ジョン・K・エマーソン
44,11,29 第23号 アメリカ軍の残虐行為を日本人に煽る軍国主義者の欺瞞的プロパガンダ コージ・有吉
44,11,21 第26号 日本軍捕虜の心理 ジョン・エマーソン
第35号 (日本への軍上陸に関する捕虜の意見の分析
44,12, 7 エマーソン・リポート「日本工作プロジエクトの提案」
以上 「インテリジェンス」第2号
1945年
45. 4,15 広東省に於ける中共の影響下にある日本人反戦団体の状況。「在華南日本兵士及び在留邦人へ!」のビラ。本文は在延安日人解放同盟、岡野進の南支方面に於ける影響の表現として注目を要す。 (大東亞省大竹事務官報告)
5. 中国共産党代七回全国代表大会で野坂は「民主的日本の建設」と題する演説を行なう。
日本人解放連盟翼晋支部は津田委員長以下八名の日本人宣伝体を編成し、五月上旬より1カ月間翼晋各地域に、警備力の少なき日本軍望楼、駅付近に於いて在留邦人に対して機関紙「人民の友」を散布せり、「北支日本人民解放同盟・朝鮮義勇軍の宣伝活動の状況」 大竹報告№6865
5,28 毛沢東から野坂参三宛ての手紙(「民主的日本の建設」についての意見)
7,18 ソ連-重慶関係情報・「相互援助条約締結に関する件」 大竹報告
8 幸地新政(石垣綾子と「労働者文化」を共同編集した)、藤井周而( 藤井は野坂のロス潜入時「同胞」の主宰者、このときの経理担当がジエームス・小田、神川悟、保忠蔵、貴多愛作ら五名の日系人昆明到着、鹿地と会う。コージ有吉中尉は日系左翼社会の中でリーダー格だった。 祖
8,22 毛沢東と周恩来は蒋介石と話し合うため重慶に赴く。それに先立って毛沢東は延安を去る野坂のために歓送の宴をひらいた。周恩来は日本労農学校を訪れて挨拶した。(和田本には28日とある) 祖8.30 延安労農学校の学生の壮行会が八路軍講堂で行なわれる。
「八路軍の日本兵たち」
葉剣英が「民主主義的な日本と民主的な中国が団結してこそ、はじめて平和で民族的なアジアをつくりだすことが出来る。」と挨拶した。アメリカ人も挨拶した。 和田論文(W=和田論文はソ共が野坂をモスクワに呼びよせる決定をした、というのは誤りとし、野坂の決意で行なった、としている。)
出発に当たり、野坂は王明に別れの手紙を出し、王明は五言絶句を送る。これは慎重な野坂にしては実に意味深長である。 和田論文
9, 5 抗日戦争勝利慶祝延安大集会開かれる。 和田
9.初 アメリカ軍の輸送機が延安に飛来し、華北方面に向かうというので、われわれはそれに便乗して河北省の張家口まで行くことになった。(9/10)(和田論文では9/9 延安発)八路軍の聶栄臻将軍の一行20人ほどもこれに便乗することになった。張家口で米軍機を降り、ソ連軍機にのりかえて瀋陽(奉天)を経て長春(新京)に着き、かなりの期間滞在した。ソ連軍の将校の軍装に着がえ野坂は中佐、われわれは少佐になった。(「和田耕作回想録」・渡部聞き書参考)
長春からまっすぐ日本に帰国したのではない。ソ連機で長春を発ち、途中シベリア鉄道にのりかえてモスクワ行ったのである。
モスクワに一週間ほど滞在した。宿舎には市内の 5階建のホテルらしい建物の広い部屋をあてがわれた。野坂は毎日外出したが誰と会ってどんな話をしたのか、われわれには話さなかった。 「八路軍の日本兵たち」(W=「八路軍の日本兵たち」の香川の著作は最初の内部告発で、これが正しいことは和田春樹、和田耕作証言で明らかとなる。ただし1週間ではなく2カ月近くだった。野坂は竜とも面会は許されなかった。 和田論文)
長春からソ連側の招きで1ヶ月ほどモスクワに行った。スターリンに会う機会はなかった。対日関係者と戦後の日本問題で話し合った。 横堀洋一(W=横堀共同通信記者は片山やすさんに会ったとき、戦後すぐのとき、野坂と会ったか、の問いに「ルックスホテルで会った」と答えた。野坂95歳の誕生日のインタビューでも野坂はこれを肯定している。 共同通信長春における野坂の活動については和田耕作証言を入れておくこと。野坂参三の延安からの帰路、モスクワに立ち寄ったことは米軍諜報部にも知られなかった。(ジョン・サービス証言)これを隠密にするために和田耕作をソ連に抑留したという疑いがつよい。 和田耕作証言
9,初 米国機が重慶から延安にきて、延安から張家口の南方 160キロのところにある霊邱へ米兵を迎えに行く、と聞き便乗をたのむ。 野坂
9, 9 普察翼解放区へ向かう聶栄臻らとともに野坂ら四名は延安を発つ。その日のうちに霊邱に着く。 和田一週間かかって司令部のある張家口に着く。
9,10 野坂は吉積、佐藤、梅田の 3人を連れて延安を出発、空路霊邱へ。一週間ほど滞在。祖(W=座談会「風雪の五十年」では梅田の名を伏せて「もう一人」という言い方をしている。梅田を伏せたのは彼がモスクワ経由日本帰国を書き野坂参三に批判的な記述だったことによる)
9,17 霊邱から歩いたり、車、汽車に乗り、張家口に着く。
延安を出発して1週間近くかかった(9.17ころ)
霊邱を出発。歩いたり馬にのったりトラック、汽車、一週間かかる。 座談会9.18 莱源着。張家口にソ連機が不時着した。
張家口からソ連機で空路奉天(瀋陽)~長春。マリノフスキー総司令官のもとで約1ヶ月滞在し、再び瀋陽に戻る。
瀋陽から平壌へ。 「風雪五十年」による帰国コースと日程。(W=「マリノフスキーのもとで1カ月滞在」は野坂がモスクワ行きを隠すための意図的な虚構。和田はモスクワ資料によりその事実関係を明らかにした)
張家口で日本人居留民の工作をしながら1週間滞在した。
張家口でのことについて和田耕作は渡部富哉のインタビューに応じた。和田は回想録にも書いている。
9.24 頃、(張家口について1週間目から逆算)ソ連機が張家口に着陸。行方不明になったソ連機を捜索するために北京から張家口に来て長春に帰ることになっている。
八路軍の幹部が交渉して野坂ら4人と彼らを遼寧まで運ぶことを承諾させた。ソ連機で奉天に飛ぶ。その翌日ソ連軍司令部のおかれた長春に飛んだ。マリノフスキーに会い、モスクワ行きの許可と便宜を要請する。
長春ではソ軍の軍服を与えられ2週間ほど滞在する間日本人居留民のための活動を行っている。
(W=「野坂参三議長に聞く・延安から東京まで」71,9,3によれば、長春に1カ月滞在した、とするがこれは虚構。野坂は「長春からまた奉天に戻った」と書いて、モスクワ行きを隠蔽した。)
前田光繁は延安の解放連盟員および労農学校生徒2百数十名を日本に送り返す任務に就いたが、自らは帰国せず、中国に残留した。それは、中国共産党東北局民族部長になっていた李初梨の要請によるものだった。前田は帰国を伸ばし1958年まで中国留まり、残留日本人居留民の世話をした。
10,上 モスクワに到着。11,23 日まで断続的にソ連共産党指導者と会談。 和田10.10 満州にいたときラジオや電報で徳田たちが出獄したことを知る。
(W=これは野坂が満州に10,10 にいたとする虚構。満州にはいなかった)
和田春樹は45,11 から12までの1カ月間野坂参三はモスクワに滞在した。と書いているから文章を確認すること。
10.11 野坂~クズネツォフ会談の内容はきわめて重要な内容。 和田論文(中)
10,16 デミトロフが野坂に対応する方策について文書でモロトフに提案。 和田10.28 モロトフはポノマリヨフに野坂と面会を指示。
10,29 ポノマリヨフ、バラノフ、コワリヨフが野坂との会談にのぞむ方針をモロトフに提案。
10,30 クズネツォフ、ポノマリヨフ、バラノフ、コワリヨフが野坂と会談。会談の内容はパニュシキンとポノマリヨフが、翌31日にモロトフに文書で報告。
11.2 コヴァリョフ、クライノフが野坂と会談、野坂は「日本共産党への資金援助として1万ドルをいただければありがたい」と資金を要請した。
11, 3 クライノフが野坂と会談。
11, 9 野坂が日本への帰国を急ぐ問題で、クズネツォフに手紙を出す。この手紙についてパニュシキン、ポノマリヨフが、11日モロトフに文書で報告。
11,17 野坂はクズネツォフに対して
①5万ドルの資金援助。②50~60人分の民間服。③モスクワとの通信網の確立。④妻の合法的帰国。などを要請した。5万ドルの資金援助は八路軍が延安で野坂の主宰する日本反戦同盟を支援したことに対する謝礼として与えたという名目にしたいとして、宝石、貴金属による提供を求めた。
11,23 クズネツォフはこの日の会談で野坂の見解を総合的に論評し、「天皇制や民主戦線構築に関する立場は正しい」と述べる一方で、「土地改革問題は農業の現状を深く研究したうえで、詳細な構想を練るべきだ。独占資本の解体も同様だ」とアドバイスをしている。クズネツオフはまた「ルーマニアやポーランド、ハンガリーの経験を機械的に日本に適用すべきではない。日本は資源の限られた島国であり、特殊性を綱領すべきだ」と指摘した。
(W=この一カ月以上に及ぶモスクワ滞在中の会談の内容は和田文書に詳述)
12.初 野坂モスクワを離れる。 和田モスクワからシベリア鉄道で瀋陽にもどり、そこでソ連軍将校の軍服を脱いで紺の背広に着がえ、朝鮮を経由して釜山から引揚船にのって博多港に上陸した。12,12 か18日に京城に姿を現した野坂が大晦日の夜、38度線を越えて米軍占領地区に入り、そこで歩哨の検問を受けることはあり得ない。 佐藤正論文 なぜあり得ないのか説明がない。
12,14 付、読売報知-エドガー・スノーが漢口で野坂参三に会った記事がある
12,13 (野坂のホッジあての手紙で)自分たちはピヨヤンに到着したが、日本への帰途南朝鮮を通過することを希望していると書いている。
12.中 野坂ら奉天から平壌へ赴く。
12,19 野坂はソウルの米軍司令官ホッジに平壌から英文で手紙を出して帰国の援助を求めた。その手紙で野坂は延安でエマーソンらと知っていると書いた。
佐藤正はホッジ宛ての書簡は偽装だと書いているが説明は不明。
ホッジあての手紙については「野坂参三 米軍諜報機関の尋問」山本武利(早稲田大学教授)文藝春秋 02,9に詳しい。 渡部ファイル朴憲永によって無事に届けられた。
12.20 金日成と会う。まだ30歳台だった。 風雪平壌から車で国境まで行き、無人地帯を 3k近く歩き、川を渡り橋もあった(板門店)。12.3平壌発。日時確認のこと 風雪金日成が38度線まで送ってくれた。 座談会「風雪の五十年」
12,27 付 東京のアメリカ陸軍G2参謀次長宛ての剤朝鮮アメリカ陸軍G2ニスト大佐からの文春と同日付の電文から確認出来る。 山本武利
12,30 野坂の手紙は東京のCICに電送され、エマーソン、ジョン・サービスのところにCICのセルゼニック軍曹が野坂情報の収集に赴いた。上官宛てコメント
12,31「日本共産主義者の延安グループ」なるリポートをまとめて提出。
45,12,31 朝日新聞、華北から帰国した記者の談話として、野坂は「天皇制打倒を叫ぶのは戦術的にも客観情勢を無視するもの」と語ったと朝日新聞北京総局の取材した野坂談話を掲載
46. 1. 1 朝、板門店の境界を突破、アメリカ駐屯軍がいた。そこで1晩調べられる。トラックで京城に運ばれる。10日近く勾留される。吉積、佐藤、梅田。
1, 3 極秘文書 第24軍第 224CIC支隊 野坂参三別名岡野進年齢53歳住所 華北峡西省延安 身元証明活動歴 なと詳細(注W=参三名は帰国してから改名したもの、参弐がわからなかったと思われる)
ガイスマー少佐が尋問。厳しい尋問にもかかわらずモスクワ訪問の事実や米国西海岸の工作などは秘匿することができた。
セルゼニック軍曹のメモによると、OSSにラジオ局設立、工作員の日本本土への潜入などの協力要請をもちかけたことが明らかになった。コードネームは「アップル」
1.10 京城から列車で釜山に着く。(1.9 の晩突然帰れ、と言われる)
京城のMPの宿舎で捕まりエドガー・スノーと会う(W=野坂との対談を記事にしている)。30分ほど雑談した。天皇制擁護の電報アメリカへ。日本の新聞にも掲載される。朴憲永がスノーを野坂に合わせた。袴田の手記にある、朝鮮からの米諜報機関の飛行機説も誤り。鉄路で南下して釜山に着き、引揚船で福岡に着いた。東京帰還後GHQに表敬訪問してきたので延安時代旧知であった私とサービスが会った。その後2 ~ 3回野坂と会ったが、これは私がワシントンに書き送っていた日本の政党報告をつくるための面接だった。私が知る限り野坂がスパイだった、という記録はない。疑いをもったこともない。
週刊現代S53. 2.16エマーソン証言
ジェームス・小田によると、コー・渋谷とトム・カーター大尉の2人は京城で野坂を数週間(4カ月間?)にわたって尋問した。コー・渋谷は南カリフォルニア米軍情報学校の同窓会を作って、その会長を2期務めた人物だという。
カーターの本名はマイケル・ブラウンで、フォータム大学、ローレンス大学、ニューヨーク大学、コロンビア大学を卒業した戦前からの弁護士で、戦時中、軍属となったのち、52年東京で弁護士事務所を経営。92年に他界した。
2人は野坂を京城で尋問した後、飛行機で東京に連行し、さらに京城に連れ戻し、朝鮮(釜山)から日本に帰国したという筋書きを作ったと『スパイ追跡』に書いている。
小田は友人のコー・渋谷から聞いたとしているが、小田が直接ブラウンにインタビユーしたときには、ブラウンは否定したにもかかわらず、小田はこれを無視して独断でこれを書いた。東京でウイロビーの尋問を受け、米軍に協力を約束して韓国に送り返されたという推論も成り立たないのは以上の和田、その他の証言で明かであろう。
46.1.12 博多港に到着。
椎野悦朗が徳田の命によって出迎える。船中にいた野坂を発見したのは星野力西日本新聞記者。(のち日共中央委員)
1.26 日比谷公園広場で野坂参三帰国歓迎国民大会開かれる。5万人参集。
大会の模様はマーク・ゲインの『ニッポン日記』に詳しい
46. 2.10 演説の全文「日本週報」に発表
1.31 総司令部が野坂参三を訊問。
(在日本政治顧問団マックス・W・ビショップより-国務長官宛46.2.9東京発
*「野坂参三の戦後日本革命の綱領討議資料」は一部1200円で販売しています。連絡は以下までお願いします。
渡部富哉(社会運動資料センター)
メールアドレス:watabe38@parkcity.ne.jp
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study386:110224〕
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