■津田・国民思想論・3 『古事記』は読み継がれ、語り継がれているか
- 2016年 12月 19日
- スタディルーム
- 子安宣邦
1 「古事記ー一三〇〇年目の真実」
雑誌『現代思想』2011年5月の臨時増刊号に「古事記ー一三〇〇年目の真実」というタイトルをもった特集号がある。欧米発の「現代思想」を先駆的に紹介することを任としてきたこの雑誌は、思い出したようにネイティヴな問題を特集号に組んでみたりする。『古事記』とはこの雑誌で何年置きかに繰り返し特集されるテーマである。その時々の思想モードにしたがって『古事記』は再発見されるものであるかのように。この特集号の「編集後記」で編集者はこう語っている。
「途方もないと思う。いまから一三〇〇年前に語られ、紡がれ、書きとめられた物語が、こうして読まれ続けているということを、いったいどのように考えたらいいのだろう。当たり前のことだけれど、この物語を語り継いだ人たちは、ものを作り、火を囲み、歌をうたい、生活をしていただろう。そして、自分たちの親の、その親の、そのまた親の果てしないほどにずっと昔の人たちから語り継がれてきた物語を、ここにいる自分たち自身と森や海や空といった自分たちを取り巻く世界をさまざまに想いながら、さらに語り継いだのかもしれない。」[1]
私は「古事記ー一三〇〇年目の真実」と題されたこの特集号の編集意図を知ろうとして「後記」を読もうとしたのである。だがいきなり「途方もない」語りに接して驚いた。「いまから一三〇〇年前に語られ、紡がれ、書きとめられた物語が、こうして読まれ続けているということを、いったいどのように考えたらいいのだろうか」とこの編集者は書き始めている。これはウソをホントとする確信者のいう言葉だろうか。それともこれはウソをウソとも気づかないウカツ者のいう言葉だろうか。『古事記』は18世紀の本居宣長によって再発見され、彼の注釈によってはじめて人びとの読むことのできるテキストになったのである。その神話物語が国民のものになったのは、明治に始まる国民教育によってである。『古事記』神話の国民化とは近代日本の、いやむしろ昭和日本の全体主義的教育の産物である。小学生の頃から『古事記』の神話や『万葉集』の歌に親しんだのは昭和一桁生まれの私たちである。だから私は『古事記』の神話や説話類が一三〇〇年前から人びとに語り継がれてきたといったことを全くのウソだというのである。
ではこの特集号の編集者はこれをウソだと知っていたのか、知らなかったのか。それとも彼は『古事記』説話をもう一度日本人の生活の中に埋め直していく再解釈的言説の中にいて物をいっているのだろうか。好意的に見れば恐らくそうだろう。まさしくこの特集号はそうした再解釈的言説とあのウソをホントとする神道主義的確信者の言説から構成されているのである。
『現代思想』のこの特集号は『古事記』の物語論的再構成者である三浦佑之を軸にして構成されている。その三浦と上野千鶴子とでこの特集の主導的な討議がなされている[2]。その討議のテーマは「古事記はなぜ読まれ続けるのかー古事記という物語(ナラティヴ)」である。これもまた「あなたたち以外のだれが古事記を読み続けているのか」と直ちに反論したくなるような欺瞞的テーマである。ところでこの討議で上野は『古事記』の新たな語り出し手三浦を理論的にサポートするかのようにして語っている。
「天皇制による権威化というラベルを剥奪した後に史書以前のナラティヴの集積として古事記を読みなおそうという読み方がデフォルトになれば、そこから新しい読み方が次々に誕生すると想います。三浦さんがおやりになったのはそういうことだったと想うし、古事記はまた別の相貌を持って魅力的なテキストとして甦るのではないでしょうか。」
そして討議の最後に上野は三浦の『口語訳 古事記』を評価しながらこういっている。
「繰り返し語り直されることによってナラティヴははじめて甦ります。こういうふうに記紀のワンセットを分離することで明治以来一〇〇年のマインドコントロールを解いてくださったのが三浦さんの読みですが、三浦さん以後、こうやって天皇制から切り離されたテクストはどうやって生き延びるでしょうか?」
三浦は上野の問いに答えていっている。
「神話にしろ、天皇の世のできごとにしろ、お話の面白さは共有されている。それから物語の構造というのは今も昔も変わらないんだなと、同じ構造を繰り返しているんだな、というのが古事記を読むとよくわかる。」
ここに見るのは三浦による『古事記』の物語的語り直しについての上野による過剰で虚偽に満ちた言説的劇場化である。『古事記』は三浦によってはじめてえ「天皇制から切り離されたテクスト」になったわけでは全くない。三浦が『古事記』の口語訳的語り直しをしたこの世紀の変わり目には、『古事記』はもうとっくに新たな読み手を待つ非政治的なテキストであったのである。「記紀」としてセットになった皇国の聖典『古事記』の脱聖典化の戦いなど三浦はしているわけではない。18世紀の宣長がした『古事記』の『日本書紀』からの異質化(純日本化)を三浦は21世紀日本で民俗学的にやり直しただけだ。
2 非政治的テキストとしての『古事記』
60年とはたしかに戦後日本の転換点である。政治的にも、思想的にも、学問的にも。宣長もまた60年代に再評価されていった。小林秀雄や吉川幸次郎によって宣長の『古事記伝』の注釈学的作業が高く評価されていったのもこの時期である。「古言」とは「古事」であり、「古意」は「古言」によってのみ明らかにされるという宣長の注釈学が、〈わが古〉の再発見の道を彼らに提示したのである。小林秀雄にとって『古事記』は宣長による古言の注釈作業とともに追体験すべき古え人の事と心の世界となった。西郷信綱が宣長の注釈学に「古の事と物に至る道」を見ながら、彼自身による『古事記』注釈作業を始めたのもこの時期であった。西郷は若い山口昌男らと学的交友をもちながら『古事記』テキストから古代国家における祭祀体系の言説化的構成を読み解こうとしていた。小林の遺書ともいうべき大著『本居宣長』が出たのは昭和52年(1977)であった。西郷の『古事記注釈』の第1巻が刊行されたのが昭和50年(1975)であり、最終の第4巻の刊行をもってその作業が完結したのは昭和の最後の年、すなわち64年(1989)である。ちなみに私が最初の著作『宣長と篤胤の世界』[3]を書いたのもこの時期であり、それが刊行されたのも小林の大著と同じ昭和52年である。私もまた宣長の思想世界を「注釈学的思想の世界」ととらえていた。
戦後60年代に始まる宣長の学問的評価の転換、すなわち「注釈学的思想世界」としての宣長思想世界の再構成は、宣長の『古事記伝』からそのイデオロギー的序文『直毘霊』をはずしてしまうことである。かくて〈わが古言〉の注釈学はイデオロギー性をもたない認識方法となる。それとともに『古事記』もまた〈わが古言〉からなる非政治的な言語的テキストとなるのである。私は三浦が世紀の変わり目に『口語訳 古事記』を語り出そうとするとき、非政治的テキストとしての『古事記』はすでにあったというのは、そういう意味である。彼の『口語訳 古事記』の語り出しは、上野が劇場化して語るような『記紀』的聖典観との思想的抗争をともなうものではまったくない。もしそこに思想的抗争があったとすれば、津田的『記紀』観との抗争であろう。それこそ私があらためて後にのべなければならない本稿の主題である。
3 何を読み出すのか
ところで宣長と注釈学という認識方法を共有しながら、非政治的テキスト『古事記』から何を読み出すのか。〈わが古の言〉によって〈わが古の神の道〉を読むというのが『直毘霊』をもった『古事記伝』の答えである。『直毘霊』をはずした『古事記伝』の注釈学の共有者は〈わが古の言〉によって〈わが古の事と心〉を読み出すと答えるだろう。小林秀雄は古人の発する「カミ」という言葉にはその語を発する古人における神の体験が結晶しているという。われわれが古言を読むとは、そこに結晶している古人の信仰を含む生活体験を追体験することである。これは宣長古学の追体験者小林にして始めていいうることであるだろう。わが古えの祭祀的共同世界の言語的、言説的表象体系として『古事記』の神代テキストを見る西郷は、このテキストの古言によって古の人びとの祭りという事の世界とその意味とを読み解いていくだろう。このように見てきたとき、〈わが古の言〉によって〈わが古の事と心〉とを明かすという『古事記』注釈学は、はたして非政治的なテキストの非政治的な認識作業だといいうるのかという疑いが生じてくる。〈わが古え〉を読み解くというこの認識作業は〈もう一つの日本〉を読み出す作業ではないのか。私が『直毘霊』を切り離しえない序文としてもった『古事記伝』を読み直し、問い直すことを始めたのは80年代にいたってである。私のこの問い直しの最初の成果が『本居宣長』(岩波新書、1992)である。
宣長は『古事記伝』によって日本の神々とその世の伝承を記す漢字テキストを読むことのできるテキストへと解読し、いやむしろ読み直していった。考えて見れば、三浦がやった『古事記』の口語訳という読み直しの最初の試みは『古事記伝』だということができるだろう。ただし宣長の試みは『古事記伝』という著作が質量ともに示しているような詳密にして厖大な注釈学的作業をともなうものであった。だが私がここでいいたいことは宣長による漢字テキストとしての『古事記』の読み直しは、このテキストの底層に話し言葉(やまと言葉)からなる伝承世界を見ることの上になされたことだということである。宣長は話し言葉としての〈日本語(やまとことば)〉を共有する〈日本人〉がもともとこの列島上にいたのだと最初にいいだしたのである。だから『古事記』という漢字テキストを〈日本語(やまとことば)〉をもって読み直すということは、最初の〈漢語〉と〈漢意〉に対する民族主義(ナショナリズム)的思想闘争ともいいうる事件であったのである。『古事記伝』は『直毘霊』という思想闘争書をその序文にもたざるをえないし、この思想闘争をふまえて始めて成立する注釈学的世界であるのだ[4]。
宣長の『古事記伝』は話し言葉としての〈日本語(やまとことば)〉を共有する〈日本人〉とその〈日本〉とを読み出し、いや創り出していくのである。だから宣長の現代的再生としての三浦の『口語訳 古事記』もまた日本という言語・文化世界の底層(古層)に古代説話を語り継ぐ日本人を読み出し、いや創り出しているではないか。あの三浦と上野との「討議」には「古事記はなぜ読まれ続けるのか」というテーマが付されている。だが一三〇〇年にわたって日本人に読まれ続けた『古事記』などは、彼らの言説以外のどこにあるのか。
三浦と上野との『古事記』をめぐる「討議」から語り始めた私の講義は、一三〇〇年にわたる日本人の伝承世界の虚構の創出をいうことで終わってもよいわけだが、それでは津田論という本講座の主題に背くことになる。それだけではない、一三〇〇年にわたってその説話を語り継ぐ日本人といった虚構の伝承世界は、どのように『古事記』を読むことから創り出されるのか、という肝心な問題に私はまだ十分に答えていない。津田の『記紀』観はこの問題に本質的にかかわる形であるはずである。
4 『古事記』はいかに異質化されるか
『日本書紀』とともに『記紀』というセットにされた『古事記』を、どのようにしてこのセットから切り離し、『書紀』とは異なる『古事記』の特質をどのようにいっていくのか。『書紀』からの『古事記』の異質化は、すでに一度、宣長による『古事記』の再発見としてなされたことである。だが平成という時代になされようとする『古事記』の異質化はどのように、どのような性格をもってなされるものなのか。
三浦佑之は『古事記講義』[5]で『古事記』の異質化、あるいは特質化を〈英雄伝承〉の記述をめぐって、あるいは出雲神話の有無をめぐってしている。いま〈英雄伝承〉をめぐる三浦による『書紀』からの『古事記』の異質化を見てみよう。彼は「音声をともなって語り伝えられていた原ヤマトタケル伝承は、語りのつねの様態としてさまざまなヴァリエーションをもって多様に存在していたはずですから、ゆいいつの固定伝承を想定することなど不可能なことです」といっている。三浦はここから「原ヤマトタケル伝承」の決定的な二つの方向への記述の分岐を想定する。いまこの分岐を見る前に、この分岐の想定の前提をなす「原ヤマトタケル伝承」について注意しておきたい。彼は『記紀』に文字化されて定着する「ヤマトタケル」の源流的伝承としての「原ヤマトタケル伝承」という語りを見ていることである。〈原初的ナラティヴ〉あるいは〈究極的口語り〉を三浦は想定しているのである。だが津田は「神代史」批判でいっている。どこまで溯っていっても「旧辞」の断片、「文字で書かれた」断片を見出すだけだと。これは三浦などによる『古事記』の特質化・異質化についての本質的批判である。
宣長は『古事記』の漢字テキストの背後に〈やまと言葉〉を見ることによって、『書紀』から『古事記』を異質化し、『古事記』に〈日本(やまと)〉の古記録としての優越性、いや正統性を見出していった。三浦はいま『古事記』の漢字テキストの底部に〈語り〉という話し言葉の説話的伝承を見ることによって、〈書く〉ことからなる漢字漢文テキストそのものというべき『書紀』から異質化するのである。宣長による『古事記』異質化・特質化作業のポスト近代的再現というべき三浦の『古事記』異質化の言説をここで見ておこう。まず『日本書紀』について彼はこう特質化する。
「日本書紀の場合は、すべての記事が国家の歴史を指向しており、日本武尊説話もまた天皇の威厳をと権力とを鑽仰する方向へと収斂されているという意味で、統制された歴史観の上に立っているということです。まちがいなく、日本書紀の叙述は〈書く〉という営みのなかで獲得された構成力とともに、漢文による描写を基盤にもつことで成立したものだと言えるでしょう。」
天皇的国家へと収斂する統制された歴史観に立つ『書紀』における国家的な遠征将軍日本武尊の形象は、〈書く〉という営みがもつ構成力からなると三浦はいうのである。この『書紀』の〈書く〉ことからなる日本武尊像に、三浦は〈語り〉からなる『古事記』のヤマトタケル像を対置するのである。
「古事記のヤマトタケル伝承は、主人公ヤマトタケルの、知恵を逸脱した暴力性や排除された者の苦悩を表現の内部に呼びこんでしまったのです。それは、さまざまな伝承群を取捨選択しながら己れの内部に繰りこんでゆこうとする「語り」が必然的にもたらしたものでした。もちろん、古事記の場合も文字化にともなう「書記」文体の構成力や描写力といった要素を否定し去ることはできませんが、古事記が基調としているのは、音声によって伝えられる伝承がつねにもつ累積性でした。・・・古事記にもさまざまなかたちで文字の論理が関与しているのは当然です。そうでありながら、文字の論理が個々の伝承の細部に影響力を及ぼすほどには、文字は語りの方法を突き崩すことができなかった。それが古事記にみられるヤマトタケルの物語だといえるのではないでしょうか。」
「知恵を逸脱した暴力性や排除された者の苦悩」をもった『古事記』の魅力ある英雄たちは〈語り〉によってのみもたらされるというのである。〈書く〉ことからなる『書紀』に実現されるのが〈歴史〉であるといえば、〈語り〉が表現していくものは〈文学〉である。三浦による『古事記』の『書紀』からの異質化とは、〈書かれた歴史〉からの〈語られた文学〉の異質化である。『古事記』は〈文学〉として、説話的文学集として特質化されるのである。
「ヤマトタケル」という英雄像をめぐる『古事記』の〈文学〉としての異質化は、戦後50年代に石母田正によって最初に試みられた[6]。戦後日本のマルクス主義歴史学を代表する石母田のヘーゲル美学による『古事記』の文学的〈英雄像〉読み出しの試みは試論のままに挫折した。この石母田の試みとその挫折の意味は追求されることもなく、マルクス主義史学の退潮とともに忘れられた。半世紀後にこれを想起し、『古事記』の文学的異質化を新たな方法をもって遂行したのが三浦の『口語訳 古事記』である。その方法とは柳田民俗学であり、構造主義的文化人類学である。『古事記』の文学的異質化が見出していくのは「原ヤマトタケル伝承」というような原初的ナラティヴである。だがこの原初的ナラティヴは有史以前のどこかにあるわけではない。ただこれを設定することによって、時代時代の人びとの語りはこれを古層とし底層として〈繰り返され、語り継がれる〉語りとなるのである。
私はやっと最初の疑いへの答えを見出したようだ。なぜ2011年5月の『現代思想』の「古事記」特集号は「一三〇〇年目の真実」という副題をもつのか、そしてこの特集の巻頭をなす三浦佑之と上野千鶴子との討議がなぜ「古事記はなぜ読まれ続けるのかー古事記という物語(ナラティヴ)」というタイトルをもつのか。「古事記が読まれ続け、その説話が語り続けられている」というのは「一三〇〇年目の真実」ではまったくない。それはウソだ。「古事記が読まれ、語り続けられている日本」があるとすれば、それは彼らの『古事記』の文学的異質化という柳田民俗学的な、構造主義的文化人類学的作業の中にであるだろう。
だがそう答えることによって三浦らの試みを無視してよいというわけにはいかない。「古事記が読まれ続ける日本」というのはウソでも、彼らの試みが「古事記が読み続けられる日本」をいま創り出しているのは事実だからである。〈もう一つの日本〉が彼らによって創り出されているのである。今求められているのはこれに向けての批判であるだろう。ここで顧みられねばならないのは津田の『記紀』観である。それは『古事記』の文学的異質化・特質化への根底的な批判としてある。
私はここで本来の課題にやっとたどり着いた。だがいま大慌てでこの課題に答えるよりは、むしろ今日のこの論を問題提起的序論として津田の『記紀』あるいは『古事記』観をあらためて考え直してみたい。ただここには厳然たる津田の「神代史」観だけを引いておきたい。
「神代史は官府もしくは宮廷の製作物であって国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであって伝誦したものでは無い。従ってまた知識の産物であって、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有って作られたものであって、自然に成り立った国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。これは其の作者が官府で、其の目的が皇室の由来を説くためであったからである。」(『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「第二章 文学の萌芽」)
[1] 『現代思想』臨時増刊「総特集・古事記ー一三〇〇年目の真実」編集後記、青土社、2011年4月。
[2] 討議・三浦佑之/上野千鶴子「古事記はなぜ読まれ続けるのかー古事記という物語(ナラティヴ)」。
[3] 子安『宣長と篤胤の世界』中央公論社、1977。なおこの書は『平田篤胤の世界』(ぺろかん社、2001)に再録されている。
[4] 子安『「宣長問題」とは何か』青土社、1995。
[5] 三浦佑之『古事記講義』文春文庫、2007。
[6] 石母田による『古事記』の文学的異質化をめぐる思想作業は『神話と文学』(岩波現代文庫)にまとめられている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.12.18より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/68073133.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study803:161219〕
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