「天命」を知ることー論語・季氏第八章「畏天命」について
- 2016年 12月 25日
- スタディルーム
- 子安宣邦
君子は「天命を畏れる」といい、また君子とは「命を知る」ものだという孔子の言葉は、『論語』が私たちに伝えるもっとも大事な思想的メッセージである。孔子が究極的な超越者「天」をもっていることを私たちは『論語』のいくつもの場面で見てきた。孔子はもっとも大事な弟子顔回の死に直面して、「噫(ああ)、天予(わ)れを喪(ほろぼ)せり」(顔淵見(憲問三七)といい、またある時には「罪を天に獲(う)れば、祷るところ無し」(八佾一三)ともいった。これらの言葉は孔子が「天」という超越者をもつ思想家であることを教えている。孔子は人がこの超越的な「天」をもつことの厳粛さの自覚を「天命を畏る」といったのである。
では「天命」とは何か。朱子はこの「命」を「天の命令」と解した。「命令」とは朱子において、天の人に道徳的本性を賦与することの必然性が意味された。天の発する命令のごとく人には仁義礼智が必ず与えられるということである。
伊藤仁斎において「天命」とは天が絶対的な道徳命法を人に与えることである。彼は「天命」が問われる際に必ず「天に必然の理あり、人に自取の道あり」という言葉をもって答えている。天には必然の道理がある。仁斎はこの道理を「善を作(な)せば、(天は)これに百祥を降し、不善を作せば、これに百殃を降す」ことの必然性をもっていう。たしかにこれは『易』「文言」の「積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり」の言い換えにすぎない。だがこの『易』の言葉は、「天」という超越者をもつ孔子思想の古義学的解読を通じて「天の必然の理」すなわち天の絶対的な道徳命法として読み直されるのである。
「善を作(な)せば、(天は)これに百祥を降し、不善を作せば、これに百殃を降す」ことの必然性とは、地上の実践者に天より与えられる絶対的命法である。この天の命法は地上の行為者にその道徳的実践を天命に適う行為として必然化する理念としての意味をもつものである。それを仁斎は「天に必然の理あり、人に自取の道あり」というのである。これは「人事を尽くして、天命を待つ」という人生態度をいうことでもある。
「天命を知る」とは私たち地上的存在の存立する意味をその存立の根源的な賦与者である「天」と向き合うことにおいて知ることである。この「天」に向き合うことでなされる自覚を君子たるべき最重要な要件として説いたのが孔子である。「天命を知る」という根底的な自覚をどのようにもつかは『論語』を読むものそれぞれが答えていかなければならない大事な課題である。
[2016年12月24日・論語塾講義より]
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.12.25より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study805:161225〕
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