冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(7) 那覇を離れる半日の過ごし方
- 2017年 2月 27日
- カルチャー
- 内野光子
いよいよ那覇を離れる。この日の予定は組んでいなかった。あまり慌てることなく、市内を回ることにした。ゆいレールの駅から少し離れているということで、まず、ホテルから直接「識名園」にむかった。琉球王朝の別邸であったという。もちろん、1944年10月10日の空襲で壊滅的な破壊を受けたが、1975年から復元整備が始まり、回遊式庭園で随所に中国風な要素を取り入れているが、池の周囲は、琉球石灰岩で積みまわしている。中心的な「御殿(ウドゥン)」と呼ばれる建物は赤瓦の木造であった。屋内を一回りして縁側で休んでいると、園内の清掃の人の何やら鋭い目つきが気になったので、「こんにちは」と声をかけると、ほっとしたように「中国の人は、平気で土足であがるんですよ」とグループで回っている人たちの足元に目をやった。その庭先には、桜が一本咲きだしていたので、ほかの外国の一団も代わる代わる写真を撮ったり、自撮りをしたりしている人たちがいた。私たちも、近くで一団が去るのを待っていると、先の清掃の人が、二人のところ撮りましょうかと声をかけてくれたのだ。その近くには「育徳泉」という池の水源にもなっている井戸があって、ここでも琉球石灰岩の「相方積み」という石組みが独特の曲線を描いていた。
池は湧き水で、舟遊びの船着き場
識名園から首里まで車で移動、県庁前から歩いて「福州園」へ向かった。手前の松山公園には、「白梅の乙女たち」像が、その近くの「大典寺」に、沖縄戦で犠牲になった「積徳高女」の生徒らの慰霊碑があると聞いていたので、ぜひ、訪ねたかった。立派な碑は、大典寺に入って、すぐ右手にあった。
積徳高等女学校は、1918年浄土真宗の大典寺が設立した家政実科女学校としてスタートし、美栄橋に校舎を新築、後、積徳高等女学校と改名、沖縄戦では、学徒看護隊として動員された。なお、この大典寺には、渡嘉敷島のアリラン慰霊のモニュメント建設のきっかけになった、那覇市で孤独死していたぺ・ポンギさんの遺骨が納めらえていたのである、その後、ようやく遺族に返すことができたという
1944年10月10日の空襲で全焼した松山公園内の県立第二高等女学校、1984年、その跡地に白梅同窓会によってたてられた「白梅の乙女たち」。また、学徒看護隊「白梅隊」、教職員、同窓生の戦没者の慰霊碑「白梅之塔」には、149人が祀られている(1947年に糸満市国吉(山部隊第一野戦病院跡)
並びには、県立那覇商業高校があって、甲子園出場で名をはせた記憶はあるが、スポーツの強豪校らしい。賑やかなことであった
松山公園の向かいの「福州園」、夫は一度ならずこの前を通っているのだが、入るのは初めて。ここは、また別世界の趣がある中国風の庭園であった。1991年、那覇市70周年、福州市との姉妹都市提携10周年を記念して作られた。やはり中国からの観光客が多い。滝の前では、中国からの家族に写真撮影を頼まれ、私たちも撮ってもらった。庭園の草木には、丁寧な説明が付されていて、植物園の感もある。この日のランチも少々遅くなったが、福州園の隣のレストランで一息ついた。いよいよ、沖縄の旅も最終盤である。
福州園前の松山通りの並木は、「鳳凰樹(ホウオウボク)」とのこと、福州園の受付の人に教えていただいた。昨年6月に来たときは、たしか黄色い花をつけていたように思うのだが。
この落葉を拾ったのが、識名園だったのか、福州園だったのか定かでないし、何の木の葉だったのだろう
今回の沖縄旅行の二つの目的の一つは、戦跡を少しでも訪ねることであった。もう一つは、2月5日に那覇市内で開かれた「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」という集会に参加することだった。そちらの報告は次の記事に譲りたい。
初出:「内野光子のブログ」2017.02.25より許可を得て転載
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〔culture0419:170227〕
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