小説「すみれの暴力」について
- 2017年 3月 22日
- カルチャー
- 「すみれの暴力」書評稲浜 昇
作品は作者が何らかの意図を持って生み出したものではありますが、作品として発表された瞬間から作者から独立した存在として読者に差し出されるものです。そして読者の読みによって作品は(作者の意図からは離れて)新しいものとなっていきます。
私は「すみれの暴力」を次のように読みました。
一言で言えば面白かった。一気に読みました。読み終わって何が面白かったのかを考えてみると、次のように言えそうです。
新聞やテレビで報道された出来事を見ると、我々はしばしば「なんでこの人はこんなことをやめられなかったのだろう」「ちょっと他の人に相談したり、助けを求めたりすれば、なんとかなっただろうに、なぜそんな簡単なことができなかったんだろう」「そんなことをすればこんなことになるくらいのことが分からなかったのだろうか」などと疑問に思います。
そうした疑問に対して、心理学者や教育学者や社会学者や評論家などがいろいろな解説をしてくれます。しかし、そうした解説はどれもいわば「外」からの解説です。そんなことをした当人の「内」側からのものではありません。当人の「内」側からのそうした行為の理由に対する説明が聞きたい。しかし、それは多くの場合(いや、ほとんどの場合)不可能です。「自分のことは自分が一番よく知っている」と思いがちですが、実際には人間は自分自身をほとんど、あるいは全く、分かっていないのです。また、複雑な自分の気持ちを言語で表現することも多くの人にとっては非常に困難なことです。ここにこそ小説の出番があります。
しかし、どのようにすれば小説において、ある意識的・無意識的な行為に対する、当人にさえもはっきり言語化できない複雑な理由を、読者が「あぁ、そうだったんだ」と十分納得できるほど、場合によっては共感できるほど、伝えることができるでしょうか。①どんな内容を、②どのような形式で、作品とするかが重要となります。
「すみれの暴力」には、作品世界の中で主人公を取り巻く環境や人間関係の中で、その環境や周りの人間たちから働きかけを受けつつ、いろいろなことを感じ、様々に考え・行動している主人公が生き生きと描かれています。作品の中で生きて、考えて、感じて、行動している人物の、先ほどの我々の「なぜ」にたいしての、内側からの回答です。まさにこれぞ文学の真骨頂と言えるでしょう。それこそがこの作品のテーマであると、私は読みました。
形式の面ではどうでしょうか。上記のような内容をどのような形式で作品化されているのだろうか。それを見てみます。
●ストーリーとプロット
「ストーリー」と「プロット」は同じ意味に使われていることがしばしばありますが、ここでは「ストーリー」は「小説世界の中での出来事の流れ」という意味で、「プロット」は「その出来事の流れを作家がどのような順序で誰の視点から述べるのか」という意味で用いることにします。
ストーリーは、1985年中学二年生の一木決は同級生の花谷から徹底的ないじめを受け続けたが、周りの人(母親、担任、同級生たち)に相談したり、助けを求めたりすることは自分のプライドが許さないと考え、あたかも自発的に花谷(やその取り巻き)とじゃれ合っているかのようなふりをし続ける。花谷のいじめはますますエスカレートし、中学生にとっては大金と言える金を持ってくるように強要され、せっぱつまった決は花谷をバールで殴り殺し、触法少年として教護院に一年十一か月余り収容され、保護観察五年の後に東京に出て、定職には就かず(就けず)、現在40歳になり、夜警のアルバイトで生活している。
プロットは、40歳の現在の決が新聞のニュースや投書欄を読み、いろいろなことを考える部分と、二十七年前、決の中学二年でのクラス替えで花谷と同じクラスとなり、いじめを受け始めてから花谷を殺すまでの部分が交互になっている。
しかし、前者の40歳の決の部分と中学二年生の決の部分とはどのように有機的に関連しているのだろうか。なぜ中二の部分だけではいけなかったのだろうか。40歳の決の部分が必要な理由は何だろう。額縁小説にするためではないようだ。もう一つ考えられるのは、40歳になった決は14歳の決よりもはるかに年上で、それだけ人生経験を積んでおり、14歳の決をその目で客観視することが期待できるからだろうか。このことを考える前に、それぞれの部分が誰の視点で語られているのかを検討してみよう。
●視点
どちらの部分も決の視点から書かれているが、微妙に違いがみられる。中学二年の時の部分ではすべての出来事が決の目から見て書かれている。そのため、たとえば、「なんで一言相談してくれへんかった?」という母親の(仮想の)疑問(これは母親だけでなく、この報道に接した誰もが持つ共通の疑問です)に対して、主人公は「プライドが許さない」からだと言うのだが、その心理(あるいは論理)が十分に読者にも理解できるほどの説得力を持つほど濃密に事態の推移が描写されています。「プライドが許さないからどんなことしてでも花村からのいじめをやめさせる手段を講じる」ではなく、「プライドが許さないからいじめられていることを他の人に悟られないようにする」という主人公の心理が説得力を持ち、読む者に「自分でもそんな立場に置かれたらひょっとするとそうするかもしれない」と感じさせる。花谷を殺そうとし、実際殺してしまう場面も同様です。つまり、ニュースを見るもののほとんどが持つ「ちょっと他の人に相談したり、助けを求めたりすれば、なんとかなっただろうに、なぜそんな簡単なことができなかったんだろう」とか「そんなことをすればこんなことになるくらいのことが分からなかったのだろうか」とかいう疑問に、作品世界の中でもがきながら考え、感じ、行動する主人公の内側から答えることに成功している。
それに対して、二十数年後の部分では、いっけん決の視点から書かれている点では同じに見えるが、実際にはそうではない。この部分の大半は、瀬島という一緒にいじめられていたクラスメートの意見や新聞の投書欄の載ったある女性の意見などが非常に大きな部分を占め、それらに対する決の反応がほとんど生(なま)の形で出てくる。この「生(なま)の形で出てくる」という点が40歳決の部分の14歳決の部分との最大の違いである。決の意見は、物語世界での彼の生活の中で40歳の彼があの事件にもがき苦しみながら行動し、悩み、考えることを通して考えたこととして読者が感じ取れる形で提出されているのではなく、まるで新聞の投書欄やオピニオン欄への投稿のように、あるいは演説のように提出されている。
40歳決は主張する。別に誰とでも仲良くする必要などない。世の中には生まれつき卑劣な人間がいる。そんな人間に気を遣うことなどない。ましてやいじめられて自殺するなど問題外だ。
(私は作者が小説世界に直接顔を出して、自分の意見を演説しているのかと思ってしまった。つまり、もう一つ別の視点、この小説の作者笠井一成の視点、あるいは個人としての笠井一成の視点の部分があるのではないかと感じた。特に、人間は生まれつき性格が決まっていて、花谷のような誰かをいじめて快感を得る奴は生まれついてそうした人間であり、そうでない人間は生まれつきそうでないタイプの人間だ、花谷のようなタイプの人間は抹殺されて当然だ、と決が考える部分でとりわけ作者の生の演説を聞いたように感じた。)
小説としての問題は次のことだ。40歳の決の意見が、小説世界でのあの事件以降決が置かれた状況、彼が取った行動、彼がした経験の中から浮かび上がってくる形ではなく、生の演説として提出されている。40歳の決の部分が、中学二年の決の部分と、なんの自省も、考えの発展も、変化もなく、スーとつながっているだけのように思える。
せっかく中二の決の部分と40歳決の部分が交互に出てくるというプロットで構成されているにもかかわらず、この二つの部分が対話も討論もしていない。40歳決は中二の決を対象化し、客観視することがない。
40歳の決に一番検討してもらいたかったことは、中二の決の「プライド」の中身だ。彼が花谷の言いなりになっていたのは、「プライド」のためだけなのか。私は自分がそうしたタイプの人間の要素を持っているので思うのだが、彼は自分の立場をよくするために、その場の一番力のありそうな人間(肉体的力だけではない)にすり寄って行ったのではないか。一度自分からちょっとすり寄ると二人の力関係がちょっと変化し、もっとすり寄ることを要求される(明示的にであれ、そのように感じてしまうのであれ)。あるタイプの人間の場合、もっとすり寄らないといけないと感じてしまうことによって、力のある側が自覚している以上の要求を感じ取ってしまう。そうするとまた二人の力関係は少し変化する。これが繰り返されると、少しずつではあれ、しばらくたつと、もはや元には戻らないほどの権力関係が形成されてしまう。発端の最初の2~3ステップくらいまでは元に戻すことが可能であったかもしれないが、それを過ぎると構造化されたそうした関係は後戻りないしは清算は不可能になってしまう。こうした人間関係の構造は、既存の構造に入るしかなかった場合(例えば旧陸軍の内務班のように絶対的権力を持つ上官がいて、新兵たちはどのような命令にも従わざるを得ない)もあるが、既存の人間関係の構造はほとんどなく、新たに構造を作り上げていく部分の方が多い場合(新しいクラスが編成されたときのように)もある。花谷の餌食になった瀬島や決と他のクラスメートとの違いは最初の2~3ステップでどのような態度をとるかによって、ほぼ決定され、そこから先は一種のいたちごっこが始まり、行きつくところまで行きついてしまったのではないか。先ほども書いたが、私自身がそうしたタイプ(組織やグループ内の何らかの意味で力のある人物にこびへつらうまで行かなくとも、迎合したり、機嫌を取ったりすることによって自分の立場を少しでも良くしようとする)の人間ではないかと自分自身を疑っているので、40歳の決にもぜひ、中二の決や瀬島が花谷に接し始めた最初の段階でそうした要素がなかったか、を検討してもらいたかった。つまり、40歳の決の主張「誰とでも仲良くする必要などない。『みんな仲良く』などと言うのはくそくらえだ」というからすると、花谷から一方的に脅されて、逆に言えば瀬島や決は最初から全くの脅しの被害者として行動したということになるが、本当にそれだけなのか、花谷殺しに至る悲劇を避けることはできなかったのか、この点こそ検討してもらいたかった。これは一例にすぎないが、このように中二の決を40歳の決が対象化し、客観視するところを見たかった。
冒頭で、この小説の肝は「なんでこの人はこんなことをやめられなかったのだろう」「ちょっと他の人に相談したり、助けを求めたりすれば、なんとかなっただろうに、なぜそんな簡単なことができなかったんだろう」「そんなことをすればこんなことになるくらいのことが分からなかったのだろうか」という誰しも抱く疑問に、内側から答えようとしたことだ、と述べた。しかし、ここまで考察してみると、ひょっとすると私の読みはそうであっても、作者の意図は、私が「40歳決の生(なま)の意見表明」と評した部分であったのかもしれない。しかし、そうだとすればその意図はこれまで書いてきたように、十分達成できていないように思える。
長々と書きました。でも、ここに書いたことは、「太陽の欠点は煙草に火をつけることができないことだ」という類の議論です。何度も書きましたが、この本を読んでの最も強い感想は「おもしろかった」です。このことを再度強調して、この手紙を終わりたいと思います。
「すみれの暴力」は笠井一成著『不戦死』(風詠社刊)に収録されている作品。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0438:170322〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。