どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(1)
- 2017年 6月 5日
- カルチャー
- 内野光子
プラハ、ムハとの出会い
3月から、新国立美術館で開催中のミュシャ展(チェコ語ではムハと呼ぶらしい)では、彼の後半生の大作「スラヴ叙事詩」が一挙公開されているという。私がこのブログを始めたのが2006年だから、その前のもう十数年前のこと、東欧を旅したとき、プラハでのムハとの出会いには忘れがたいものがあった。
通り過ぎてしまいそうな
展示会場入り口 2003年10月
ウィーンでチロリアン航空に乗り換え、プラハに着いたのが夕方、翌日から、精力的に市内めぐりを始めた。といっても、地図が頼りの心もとない街歩きだが、旧市街広場を何度も行き来するという、気ままさもあった。街なかの、ちょっと通り過ぎてしまいそうな入口の、ムハ美術館(1998年開館)ではあったが、会場では、優美な衣装をまとい、華麗な草花に彩られた女性が描かれた絵とポスターに圧倒された。入場者もまばらで、静かなゆったりした時間を過ごした後、出口近くで出会った一枚のポスター、その中の少女のまなざしに、思わず足をとめた。鉛筆を手に、決意を秘めた、鋭い眼差しの少女が立っていた。「鉛筆を持った少女」と題され、それは、日本では「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」(1912年)のポスターと呼ばれているらしい。「挙国一致」というより「連合」とか「連帯」との意味合いなのではないか。当時、モラヴィアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、教育はドイツ語で行われていた。民族語のチェコ語を教えるための資金確保のための宝くじだったわけで、チェコ語を学ぼうとする少女の引き締まった表情には、ムハ自身の意思も込められていたのだろう。この眼差しは、今回の「スラヴ叙事詩」の巨大な作品の各所にくり返し立ち現れているのではないか。「母国語」を奪うということは、日本の植民地政策の柱でもあった。その過酷さを知らなければならないだろう。朝鮮でも台湾でもそして東南アジアにおいての「国語教育」を思い起こさせるのだった。
ポスター上部は「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」の主旨らしい
Lottery Of The Union Of South Western Moravia(1912)との英訳が・・・
ムハ(1860~1939)はモラヴィア出身だが、ウィーン、ミュンヘンを経てパリで絵を学び、女優サラ・ベルナール主演の舞台のポスターを手掛けたことから、独特の華やかな画風で一躍有名となった。1910年、50歳で故国チェコに戻り、チェコ語やスラヴ民族の苦難の歴史にこだわり、ズビロフ城に籠って制作し続けたのが「スラヴ叙事詩」であった。最晩年は、チェコに侵攻したナチスに捕らえられ、収容所生活を余儀なくされた直後に病に倒れた。
チケットもリーフレットもバレエ「ヒヤシンス姫」のポスター(1911年)が用いられていた。左側の「日本語版ガイド」は折りたたみ式で、裏側は、伸ばすと40センチほどの長い絵で、「サラ・ベルナール」の舞台のポスターであった
初出:「内野光子のブログ」2017.06.04より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0489:170605〕
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