執筆10年を振り返る ― 私の関心はどう変化したか ―
- 2017年 9月 26日
- 評論・紹介・意見
- リベラル21半澤健市
《神奈川大学の研究会が発端》
「リベラル21」に書く機会を与えられ、10年が経過した。「十年一昔」という。私的な感想を書くことを許して頂きたい。私にとっては大きな転機であったからである。
きっかけは神奈川大学(神大)大学院である。2006年3月まで田畑光永氏は同大学院教授であり私は院生であった。2007年夏に、学内の研究会で私は「財界人の戦争認識―村田省蔵の大東亜戦争」を発表した。接触がほとんどなかった二人がここで知り合って数日後、田畑さんから「経済・金融」を主にして、同年3月にスタートした「リベラル21」へ書かないかと打診があった。
《銀行員の仕事で書くことは多くない》
半世紀以上前の学部卒業論文で何枚書いたか記憶がない(一枚とは400字詰め原稿用紙一枚のこと)。私は、1958年から40年間、大小二つの証券会社と中堅信託銀行の三つの企業に勤めた。仕事で、原稿用紙10枚以上の文章を書いたことはない。一度『信託』という業界誌に業界語に満ちた50枚書いたのが最高である。
世間では、銀行員は書く仕事が多いと思っているらしいが、普通の銀行員は長い文章を書かない。融資の稟議書、産業・企業調査、プロジェクト企画書、一部の業務日誌、役所への報告など長いものはある。しかし書式は定型化していて、オリジナルな文章が入り込む余地は殆どない。
勿論、金融機関でも業態により異なる。政府系金融機関やかつての興銀・長銀などプロジェクト金融を主とする金融法人では、おそらく「疑似アカデミズム」や「霞ヶ関文学」のような文字が書かれたであろう。私のいた企業では、「戦略」は大蔵省(現財務省)がつくり、「戦術」は戦略を遵守する経営者が示達し、「戦闘」は下っ端の兵士が白兵戦を展開した。
《証券取引では文書は後回し》
証券取引についていうと、私が在籍した時期は証券・信託とも電話の交信によっていた。一回の電話で、数千万円から数十億円の取引が成立した。「そういう商売だと覚悟」すれば、何とかなることを私は学んだ。人間だから間違いもときには起こる。それに対処する生活の知恵も生まれた。今は電子化が進み取引額も大きいだろう。それもで咄嗟の判断で端末キーをクリックするのは電話会話と本質は同じである。もっとも引受業務のような取引、とくに国際間の仕事では文書が命となる。私自身は経験がないが、証券引受契約書は馬に食わせる程の分量がある。「ドキュメンテイション」と呼んでいた。
話が横道に逸れたが、田畑さんからの打診への諾否を私は真剣に考えた。1998年から2004年にかけて当時参院議員だった〝木枯らし紋次郎〟こと中村敦夫氏が発行する月刊新聞に外祇の記事紹介を書いた経験はあった。一回7枚、72回である。2004年から06年までの大学院博士課程で書いた論文の枚数は600枚であった。客観的には私は、すでに「書かない」銀行員ではなかった。しかし不特定多数の読者に書くのは初めてである。不安があった。しかし神大での田畑さんとの縁である。元TBSニュースキャスター、自民党ハト派宇都宮徳馬が発行した『軍縮問題資料』の元編集長からの提案に応じない手はないと結論した。
《「十年一昔」の気持の変化》
この10年に私の気持ちや思考がどう変わったかを述べたい。
「経済・金融」関連記事を最初のころ随分書いた。2007年秋は、「リーマン恐慌」の前兆が出ていた時期である。私は1980年代の日本バブルの狂気と崩壊に立ち会った。専らその経験に基づいて論じた。その中には、私のバブル経験が生かされたものがあったかも知れない。
しかしこのジャンルには、時期はズレるが、早房長治氏、岡田幹治氏という朝日新聞のベテラン経済記者、在ハンガリーの経済学者盛田常夫教授という専門家がいた。
内外の経済を俯瞰したときに行き詰まりは明らかであり、しかも、出口が見えない。これはこの5年ほどを見ての私の強い印象である。世界の誰もが適切な回答をもっていない。世界経済は、新自由主義のあらゆる現場への浸透と失敗が同居している。そして的確な手が打たれないまま宙づりの状態にある。それどころか極端なポピュリズムが世界に蔓延している。
水野和夫氏のいうように市場は商品で埋め尽くされ、金利はマイナスになり、資本主義は死んだのか。あるいはシュンペータリアンのいうように創造的破壊で世界経済は蘇るのか。二者択一とは思わぬが、私のベクトルは前者に親近感をもっている。
世間では、高度成長に生きた高齢者は成功体験を忘れられず、バブル崩壊後にビジネスに入った青年たちは、ゼロ成長の中の格差拡大を自明と考えている。最近、経済に関する私の記事がないのは、私がいろいろ考えても出口なしという結論しか出ないからである。同じことしか書けないからだ。
《経済がダメなら他に何があるのか》
選挙になると安倍政権は、経済第一だという。そしてアベノミクスが道半ばと訴える。しかし国会が始まると、防衛省を発足させ(07年)、東日本大震災(11年)後にも脱原発をうたわず、靖国に参拝し(13年)、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した上、特定秘密保護法を施行し(14年)、集団的自衛権行使を可能にする安保関連法を成立させ(15年)、オバマ米大統領の広島・安倍首相の真珠湾の相互訪問により、米国の謝罪なしで「日米の歴史的和解」(=原爆投下容認)を行った(16年)、四面楚歌のトランプ米大統領に対しては安倍晋三首相のみが揺るぎない対米信頼を強化している(16~17年)。
安倍政権は「右傾化している」という認識は甘すぎる。それは決定的な誤認であ。私は、安倍政権は「ファシズム」政権だと考えるようになった。この見方は、同世代の友人や企業時代の同僚のなかでは、少数意見である。お前もついに気がふれたかという友人もいる。
《安倍政権はファシズム政権である》
世論調査によれば、北朝鮮のミサイル発射に対する安倍政権の圧力強化策は、人々に支持されている。「Jアラート」の発令に関連して、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」(1933年『信濃毎日新聞』)が話題になった。『東京新聞』などは大きく取り上げた。しかし世論は「Jアラート」に戸惑ってはいるが、「嗤って」はいない。桐生の「嗤う」は、信濃毎日の不買運動から彼の退社に帰結したのだった。
「Jアラートを嗤う」言説が「反日・国賊・非国民」だと批判されるのは近い将来だと私は予測している。年内総選挙で安倍はそう売り込むだろう。国が決めたことへの異論申し立てを排除する。資本主義か社会主義かの体制を問わず、これがファシズムの重要な特徴である。
《最初は反語のつもりではなかった》
私の関心は、最近数回の「ファシズムは死語になったのか」に示されている。始めは「ファシズムは死語になってはいない」、という反語のつもりではなかった。どちらともいえないから調べてみようという問題提起のつもりだった。しかし少し書いているうちに反語として書く気になった。「ファシズムは死語ではない。むしろほとんど実態である」という意味である。ファシズムは―いや民主政治も、多くの思想と行動の殆どは―「思想としての」「運動としての」、「制度(法律)としての」、「実態としての」の四段階を経て完成するものだと私は考えている。読者は、2017年の今、わが祖国は上記のどの段階にあると考えるか。それともこういう問いがナンセンスと考えるか。
戦後の、何が、誰が、どんな誤りを犯して、こんな状況を生んだのか。私の暫定的な回答は、こういう問題の立て方自体がこういう事態を生んだのだ、というものである。ファシズムは、我々の外から来るものでもあるが、我々の内部からも生まれるのである。
《安倍政権の崩壊を見るまでは》
大層な話に発展してしまった。次の10年を生きられると思わないが、安倍政権の崩壊を見るまでは書き続けたいと思う。末尾になったが、この10年間、拙く硬い文章を読んでいただいた読者に、感謝申し上げる。「護憲・平和・共生」のために、厳しい批判と暖かい激励を引き続きお願いする。(2017/09/17)
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