青山森人の東チモールだより…二つのTV中継から考える
- 2017年 10月 30日
- 評論・紹介・意見
- 青山森人
青山森人の東チモールだより 第358号(2017年10月29日)
二つのTV中継から考える
8月20日は解放軍の創設記念日
少し、時間を遡ります。8月20日はFALINTIL(ファリンテル、東チモール民族解放軍)の創設記念日です。今年の8月20日も記念式典が行われました。「8月20日」は、独立(回復)記念日である「5月20日」と同様に東チモール人にとって大切な日なのです。
1975年8月11日の『朝日新聞』(夕刊)に次のような記事が載りました。
「ポルトガル領チモールでクーデター 【シドニー十一日=小林特派員】オーストラリア国営放送(ABC)によると、ダーウィンの北方にあるポルトガル領チモールでクーデターが起き、首都ジリ(*1)の空港が閉鎖された(以下、略)」。
この時点では誰が何のために「クーデター」を起こしたのか、記事にはまだ書かれていません。
(*1)もちろん、Dili(ディリ、デリ)のこと。
翌日の同『朝日』にはこうあります。
「漸進独立派が実権? 『クーデター』のチモール 現地放送“即時派”の攻勢に先制」との見出しをつけ、「【シドニー十一日=小林特派員】十一日午前、ポルトガル領チモールで起きたと伝えられるクーデターの真相は、外部との通信線が完全に途絶しているためはっきりしていないが、十一日夜、オーストラリア外務省が得た最新の情報によれば、首都ジリにあるポルトガル国営放送は十一日午後、ジリはポルトガルからの漸進的独立を主張するチモール民主同盟(UDT)の手中にあり、このクーデターは、左派がポルトガル共産主義者の支持で権力を握るのを防ぐために行った、と発表した。(中略)。四百年にわたってポルトガルの植民地だったチモールは、リスボンの革命評議会の脱植民地政策が明確になるにつれ、インドネシアとの併合を目ざすチモール大衆民主協会(APODET*2)、独立後もポルトガルとの連携を望むUDT、即時完全独立を目ざす東チモール独立革命戦線(FRETILIN)の三つの政党が生まれている。最近では、左派の完全独立派が台頭してきて、共産化の浸透を警戒するインドネシアの不安を高めていた(以下、略)」。
(*2)APODETIが正しいが、そのママとした。
このように誰が何のために「クーデター」を起こしたのかが書かれています。「台頭」する「左派」であるFRETILIN(以下、フレテリン)の攻勢にたいしてUDTが「先制」したのがこの「クーデター」の「真相」であると、見出しと文面をみれば解釈できます。ただし、「左派がポルトガル共産主義者の支持で権力を握るのを防ぐために行った」というのは当時のポルトガル本国の混乱ぶり(これも当時の新聞で連日のように大きく報じられている)からすれば大きな疑問符のつく表現です。
UDTによって「先制」されたフレテリンは即刻これに対抗すべく同年8月20日、軍事組織を立ち上げました。それがFALINTIL(東チモール民族解放軍)です。つまり東チモールは内戦に陥ったのでした。一ヵ月後、フレテリンはUDTを制圧したようです。1975年9月13日の『朝日』にはこうあります。
「チモール 革命戦線が記念式典 小銃の祝砲に歓声 アマラル議長(*3)『攻撃には断固戦う』 【ディリ(ポルトガル領チモール)十二日=ロイター】ポルトガル領チモール全土を掌握したチモール独立革命戦線(FRETILIN)は十一日、革命戦線結成一周年記念式典(*4)を行い、この模様は内戦開始後初めてチモール入りした外国人記者団に公開された。(中略)。島民たちの話によると、革命戦線と保守系のチモール民主同盟(UDT)、親インドネシア派のチモール大衆民主協会(APODETI)との間でこの一カ月間激しく行われた戦闘で、約二千人が死亡したという(以下、略)」。
(*3) アマラル議長、つまりフランシスコ=シャビエル=ド=アマラルはフレテリンの初代議長。1977年9月、インドネシアと妥協を図ろうとしたためにフレテリンから議長の任を解かれ拘束され、解放戦線から姿を消した。インドネシア軍撤退後、フレテリンの前身となったASDT(チモール社会民主協会)と同名をつけた政党の党首として政治活動をおこなった。2012年3月、大統領選挙に二度目の出馬をする直前に病死。現在は、フレテリンとの確執が取りざたされることはなく、1975年11月28日に独立宣言をしたフレテリンの議長として、「独立宣言者」という称号で讃えられている。
(*4)フレテリンの前身であるASDTは1974年5月20日に創設され、その年の9月にフレテリンと改称した。この記事の「革命戦線結成一周年記念」とはASDTからフレテリンへと改称してから1年たったことを意味する。なお、現在のフレテリンは独立(回復)記念日でもある「5月20日」をフレテリンの創設記念日として祝っている。
フランシスコ=シャビエル=ド=アマラルの銅像。今年5月20日に除幕式が行われた。
2017年8月2日、首都にて。©Aoyama Morito.
FALINTIL擁するフレテリンはUDTのクーデターを制圧し、フレテリンは祝砲と歓声をあげる一方で、この内戦によって(上記の記事によれば)約2000人の東チモール人が死亡しました。FALINTILによって殺された東チモール人も多数いたに違いありません。それなのにFALINTILの創設日を国家の記念日として祝われて、東チモール人の間でわだかまりはないのは何故でしょうか。それは、政党間の抗争から内戦に陥った1970年代の過ちを教訓にして、1980年代にFALINTILをフレテリンから切り離して全東チモール人のための解放軍として生まれ変わったからです。いわずもがな、この立役者はシャナナ=グズマンです。
内戦で東チモール人同士が殺し合いをしたという負の歴史は、フレテリンと反フレテリンという諸政党間で犯した大失態として今も東チモール人の心理に影を落としています。そしてこのことが、フレテリンが第一党となり他政党と連立を組む・組まないという政局を迎えた現在もなお、少なからず東チモール社会に影響していると考えてよいでしょう。とくに首相でフレテリンの書記長であるマリ=アルカテリとシャナナ=グズマンの表面的な言葉尻ではなかなか捉えにくい両者の微妙な関係が、フレテリンによる不安定な少数連立政権の発足につながっているとわたしには思われます。
インドネシア軍による侵略の扉をノックしたいわれる東チモール人同士の内戦を乗り越えた象徴としてFALINTILは東チモール人の心の支えともいえ、東チモール解放史に燦然と輝く存在なのです。したがって毎年「8月20日」は、特定の政党に属するもの・そうでない者の分け隔てなく、FALINTILの創設記念日として祝われるというわけです。
盛り上がらなかった記念式典
今年の「8月20日」は日曜日でした。朝8時半ごろわたしは滞在先の家のテレビをかけると、防衛省兼国防軍本部前での創設記念式典の中継がすでに始まっていました。わたしはこの中継を終わりまでしっかり見るつもりでテレビの前にどっかと腰をおろしました。
テレビの前に腰をすえるのはこの家ではわたしだけです。ほかの人たちは別のことをやりながら、チラリチラリとテレビに目をやるだけです。わたしにチャンネルをとられた子どもたちは面白くありません。日曜日の朝といえば日本の日曜日の朝のように、インドネシアの衛星放送でアニメや娯楽番組をやっているからです。それを見られない子どもたちからの沈黙の圧力を感じながら、「東チモール人の子ならこれを見ないとダメでしょう」と心で言い訳しながらわたしは式典中継を見ていました。
大人も子どもも解放軍の創設式典の中継にまっすぐ目を向けません。とくにこの家のジョゼ=ベロ君は解放軍とともに生死を賭けた抵抗運動に身を投じた人物です。そのかれがテレビ中継にほとんど目もくれず、たまに向けたと思ったら、「この演説、長いよ」と顔しかめる程度の興味の示し方しかしないのです。解放軍の記念日に東チモール人は興味が薄れてしまったのでしょうか。
そんなことはないとわたしは信じます。このときはフレテリンによる連立新政権が立ち上がる直前であり、第一党に返り咲いたフレテリンは最終的にどの政党と組むか予断を許さない政局だったので、ジョゼ=ベロ君としてはこの件で多忙であったのです。そして第一に、このTV中継がつまらないのです。テレビ局の制作側としての工夫がなく、式典のほぼ垂れ流しの中継を見るのには根気を要しました。制作側の工夫としては、式典の前後に女性アナウンサーが解放軍関係者にインタビューをしていたことぐらいです。式典終了後に、アナウンサーは元戦士としていかにも退役軍人らしい制服に身を包んだ、ソモツォ氏(9月15日に防衛大臣に就任)にインタビューをしていました。おぉ、山で会った忘れられない解放軍の戦士・我が友人(とわたしが勝手に思っているだけかもしれませんが)ソモツォの登場だ、とわたしは喜びました。しかしこの式典を中継しているあいだずっと電波状況が不調でブツブツと画像・音声が乱れ、大統領の演説も元戦士のインタビューも何を言っているのか聞き取れないのです。もうガッカリです。
ちょっとチャンネルを変えてみると、インドネシアからの放送はきれいに映るではありませんか。東チモールの国営放送局・rttl(東チモールテレビ・ラジオ局)は一体何をしているのかと文句をいいながら中継を見なければなりませんでした。ほとんど垂れ流し状態の中継を、余計な音を出さないで式典の神聖さを引き出す演出にする作戦だとしたら、完全に失敗です。実に盛り上がらないTV中継でした。
戦争の記憶を風化させるな
また式典自体も様式化を通り越して形骸化しているきらいがあります。式典は防衛省兼国防軍本部前の、普段は駐車場に使われている敷地内で行われているのですが、敷地の外と内は柵で隔てられており、一般市民はその柵外から見学していて、まるで部外者扱いです。そして式典を見に来る人びとの数もTV中継を見る限りではまばらです。マンネリ化した式典にわざわざ馳せ参じる必要性を一般市民は感じていないのでしょう。一昔前はFALINTILの式典に地方から大勢が押し寄せたものでした。
時間がたつにつれ戦争の記憶が薄れているのでしょうか。戦争が終わった1999年以降生まれの、つまり18歳以下の、いわゆる“戦争を知らない子どもたち”の人口が増え、“戦争を知る大人たち”が人口構成で少数派になろうとするなかで歴史的な式典が様式化を通り越して形骸化しているとしたら、憂慮すべきことです。
盛り上がったサッカーのTV中継
同じ8月20日の午後、もう一つのTV中継があり、それはFALINTIL記念式典とは対照的に大人も子どもも家族をテレビの前に引き寄せました。それはインドネシアのテレビ局が放映するインドネシアと東チモールが対戦するサッカーの試合です。マレーシアで開催された第29回「SEA(東南アジア)ゲーム」からの中継でした。
わたしも後半だけですが、観ました。試合は1対0でインドネシアが勝ちましたが、東チモールもけっして負けておらず、むしろインドネシアを押し気味で同点に迫りそうな雰囲気でした。両チーム選手が小突き合いをするような熱い場面もあり、まわりの人たちと一緒にわたしもかなり興奮しました。「やっちまえ、24年間の軍事占領の恨みだ」などと心の中で叫ぶのは、了見が狭いわたしぐらいでしょう。ともかく、試合終了数分前でも試合の行方がわからない見ごたえある試合で、盛り上がりました。
テレビが与える言語の影響
歴史的な意味深いFALINTIL創設記念式典の中継は人気なし、インドネシアが放映するサッカーの試合は人を惹きつける。前者のTV中継は国営放送によるもので公用語のテトゥン語が使われ、後者はインドネシアの放送局の中継で、当然インドネシア語が使われる。前者は面白くなく人を惹きつけない、後者は見る者を興奮させ惹きつける。なお、国営放送がもう一つの公用語であるポルトガル語を使った番組となれば、“我が家”では一顧だにされません。“我が家”では東チモール国営テレビ放送にかんしては夜と朝のニュース番組しか見ず、大半はインドネシアの娯楽番組が好んで見られています。
その結果、子どもたちはテレビを通してインドネシア語を自然に学びとり、子どもたちのテトゥン語にインドネシア語が混ざる現象が生じています。この子たちの親の世代は、インドネシア軍の全面侵略が開始される前後に生まれた東チモール人で、1990年代、20代の青春をインドネシア軍に対する抵抗運動に身を捧げた世代であり、押しつけられたインドネシア語で教育を受けた世代です。その世代はいまや10代の思春期から20代初めを迎える子どもたちの親となっています。その子どもたちが幼少だった時期は、インドネシアの娯楽番組を見ているときにわたしが「インドネシア語、わかるの?」ときくと、「わからない」と応え番組を面白そうに見ていました。いま同じ質問をすると「わかるよ」と応えるのです。「どうやってインドネシア語を勉強したの」ときくと、「テレビで」というのです。
トランプなどのゲームをしているとき大人たちはインドネシア語の数字を使う傾向にあり、小さい子どもは大人から自然にインドネシア語の数字を学んでいます。子どもたちへのインドネシア語の浸透とはその程度でしたが、インドネシアのテレビ番組を長年見てインドネシア語に自然に慣れ親しむことによって、インドネシア語は子どもたちにかなり浸透してきたようです。強制された言語としてではなく、今度は娯楽番組を楽しむ言語として、です。
テトゥン語の表現にインドネシア語が混ざることは一般的に以前からあったことですが、“戦争を知らない子どもたち”が成長するにつれて、改めてその現象が起こってきているように見えます。「何時?」はテトゥン語で、Tuku hira?(tuku【トゥク】=時を打つ、hira【ヒラ】=どれだけ)といいますが、“我が家”の子どもたちは、Jam hira? を多用し始めました。Jam(ジャム)はインドネシア語で「時」の意です。その他のちょっとしたテトゥン語の日常表現がインドネシア語にとって代わられています。これは少なくとも“我が家”ではいままで見られなかった現象です。子どもが家で使っているということは、たぶん、学校の友だちと会話のなかでも使っていると考えてよいでしょう。
指導者たちは、ポルトガル語は東チモール人のアンデンティティであるし憲法で公用語に定められているのだからポルトガル語を話さなければならないと繰り返し主張しますが、ポルトガル語がなぜ普及しないのかを分析し対策を講じることをしないで、主張をただ繰り返すだけでは普及は望めません。例えば上記のようなテレビの影響を考えれば、テレビ番組制作をとおして公用語の普及を試みるなど、何かしらのメディア戦略にうってでなければ、流れに呑まれてしまいます。もしかしたらポルトガル語が大きく混ざる現在のテトゥン語は近い将来、インドネシア語も大きく混ざるテトゥン語に変容するかもしれません。
~次号へ続く~
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7071:171030〕
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