社会学者の見たマルクス(連載 第7回)
- 2017年 12月 3日
- スタディルーム
- 片桐幸男、ポスト資本主義研究会会員
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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1847年11月29日、マルクスはロンドンに赴き、[民主主義者友愛協会で]挨拶し、そしてポーランド革命の記念日を祝うのを一緒に手伝った。マルクスは記念の会合の演説で、確信に満ちた口調で、こう語った。
古い協会はもう失われた。チャーチストが勝利するだろうという自分の確信もまたそうだ。イギリスではポーランド人も解放されるべきだ。
続いてすぐに共産主義者同盟の第二回大会が始まった。この大会では、新しい規約を承認し、既に草案が提出されていた「宣言」について検討が行われることになっていた。議論は10日間にわたって続けられた。マルクスは公式にはこの大会に参加していなかったが、議論には加わった。エンゲルスはパリからこの大会に参加した。
マルクスとエンゲルスは、[ベルギーの港町]オステンドで待ち合わせて、ロンドンまで一緒に船旅をした。その数日前、エンゲルスはマルクスに手紙を書き、「けど、宣言については少しじっくりと考えて欲しい。教理問答は省略させて、『共産主義者宣言』という題名をつけるのが一番いいと思う」とし、その後、ロンドンの大会に持っていこうとしていた自分の草案について報告している。
マルクスがロンドンにやってきたのは、「民主主義者友愛協会」での挨拶でポーランド問題を話すためであった。「民主主義者友愛協会」は、なお「人間、皆兄弟」という彼らのスローガンに拠って、マルクスに断固として反対した。その後でマルクスは、共産主義者同盟の第2回大会にも出席した。マルクスは党の綱領を提案し、採択するよう主張した、大会は、綱領についてはマルクスとエンゲルスにその草案を最終的に完成させることを委嘱した。二人はすでに著名な指導者となっていた。1847年のクリスマスの頃、主要な輪郭が固まり、『共産党宣言』というタイトルが付けられた。これは1848年1月には、ロンドンで印刷され、「同志」に送付された。
数カ国の首都にある若い職人達のクラブを構成メンバーとしただけで、ドイツからの代表が全くいない国際的な同盟を、ドイツ語を使って「党」と呼ぶのは大胆なことであった。このことの中に、ドイツの党=ドイツ社会民主党が現実に勝ち得た重要性が予感される。同党は一世代あとにおいてもなおこの二人の指導者[マルクスとエンゲルス]の影響下にあった。
さらに重要なのは、「共産主義的」という言葉の意味を明らかにしておくことである。この言葉が、少なくとも[1848年の]3月革命前の青年ドイツ派の「開明的な」グループにおいては、特に「驚くような」響きを持っていたわけではないことを、我々は知っている。ライン川の向こう側、とりわけ騒然とした「セーヌ河畔の国際都市」[パリ]で世間を騒がした様々な学説や著述家にとっては、「共産主義的」というのは半ば「社会主義的」ということと同じような意味で使われていた。この共産主義と社会主義との違いが初めて広く知れ渡ったのは、ローレンツ・シュタインが1842年に書いた本によってである。
だが、青年ヘーゲル派というもっと狭いサークルにあっては、この同じ年に、シュタインとは独立に、そして彼に先立って、モーゼス・ヘスが、啓蒙的な、共産主義を擁護する仕事を行っていた。ヘスは、共同体の秩序という意味からは、共産主義は博愛的かつ倫理的なものであると説いた。
1842年4月、マルクスは自分が編集していた『ライン新聞』にヘスのフランス語の声明文を掲載することになった。ヘスの声明文は、「共産主義宣言」と名付けられていた!
「ここに示されるフランスにおける共産主義の発展を一瞥すれば、共産主義というものが一つの重要な歴史的現象であることをドイツの読者は知るはずである。ライン川の向こう側では、共産主義は既に知識人の間でも大衆の間でも無数の支持者を獲得している。そしてそれ故に、気取った片言隻句の決まり文句でもってこれを精神病院へ追いやるわけにはいかないのであって、むしろ逆に、これを研究し、その内容上の価値に即した評価を行わなければならないのである」(マイヤー『フリードリッヒ・エンゲルス』第1巻、114頁)。
マイヤーの評伝によれば、エンゲルスはこの頃ヘスの影響を受け、その後なお3年間程も続いたこの影響のもとに、共産主義の立場に立つことを最終的に決意したとされる。この評伝者[マイヤー]の判断は間違いなく正しい。
これに対して、マルクスの場合のこうした決意の最初の痕跡は、その2年後に――マルクスとルーゲが作った『(独仏)年報』で――ようやく示される。しかも、エンゲルスにあってはその決意は始めから行動上のものだったのだが、マルクスの決意は当時はまだ行動上のものというよりは、思考方法上のものにとどまっていた。
もちろんエンゲルスもまた、「ドイツ哲学者」たらんとし、またそうありつづけようとした。彼は、その最初のイギリス滞在の際(1843年)にチャーチストの間ではすぐに「ドイツ哲学者」として知られるようになった。エンゲルスはいつも二つの共産主義を分けていた。一つは、「哲学上の」共産主義である。これに関しては、彼にはヘスがドイツにおける先駆者であるように思えた。もう一つは、ドイツ人の職人達の共産主義である。彼らは、ヴァイトリングの主張を強く支持したうえで、すでに内密に連絡を取り合って、ドイツ国外にいるドイツ人遍歴者の組織を作っていた(マイヤー、120頁)。エンゲルスが認めようとしたのは前者であって、後者ではなかった。それにもかかわらず、彼はヴァイトリングをチャーチストに紹介することをなおざりにはしなかったし、ブルンチュリッシュ報告(1843年のチューリッヒ政府への報告)が、ドイツ人職人達の共産主義は大きな影響力を持っているとしたときには、心底喜んだ。
エンゲルスはまもなくイギリスでオーエン主義的な傾向を持った社会主義者達と密接な関係を結ぼうとし、それに成功した。チャーチストは周知の如く、直接、政治上の民主主義を実現することだけを目指していたが、エンゲルスの努力は、チャーチスト達に社会主義の精神を吹き込み、同時にイギリス社会主義にチャーチストの強固な意志を持たせることに向けられた(マイヤー、145頁)。
エンゲルスは、イギリス人にヨーロッパ大陸の社会改良運動の進展を理解させようとした。そのとき彼は次のように考えた。イギリス人は現実の活動によって、フランス人は政治によって、ドイツ人は哲学によって、それぞれ「人類の未来は共産主義にある」という確信を得る、と。
エンゲルスは当時、所有に関するプルードンの著作(1838年刊)を、「共産主義」のために書かれたものであって、フランス語による最も重要で最も優れた著作であると高く評価した。そして、エンゲルスの共産主義は、プルードンのそれと同じように、無政府主義的な色合いを帯びていた(エンゲルスは「国家という全くのがらくたは決して『永遠』に存在するものなどではなく、再び消えていくはずのものだ」と言っている[マイヤー 150-151頁])。
エンゲルスは、ヘスの影響を受けて、共産主義を「ドイツ哲学の正統な相続人」と呼び、ドイツ人は、ドイツの偉大な哲学者達を拒否するか、それとも共産主義を受け入れるかである、とした。エンゲルスもまたヘスと同様に、主に知識人に期待していた。丁度その頃、ヘスは「ドイツ人職人達の共産主義的扇動はドイツのプロレタアートにあっては全く理解されていない」と言っていたが、これは十分に根拠のあることだった(マイヤー、153頁)。もちろん、革命家エンゲルスにとっては、その思考様式からも、その気質からも、こうした状況は満足のいくものでは決してなかった。彼はプロレタリアートを啓蒙し、教化し、自覚させ、そして彼らの生来の本能的な共産主義的心情に拠ろうとした。こうした共産主義的心情が既に広まっているのをエンゲルスは知っていた。『聖家族』に書いた(分量的には短い)論文の一つでは彼は次のように言っている。
平和的民主主義者( Democratie pacifique )が説いているような、希釈されたフーリエ主義は、一部の博愛主義的なブルジョアジー達の社会観以外の何者でもない。民衆は共産主義的であるが、ただ多くの異なった党派に分散している。真の運動とそしてこの様々な社会的傾向の調整は……やっと始まったばかりだ。それは極めて実務的な行動の中で成し遂げられるであろう。/
フランス人とイギリス人の批判は同時にまた実践的なものでもある。彼らのいう共産主義は一種の社会主義であって、そこでは彼らは実践的、具体的な方針を提示する。そして、単に考えるばかりでなく、それ以上に行動する。それは、現存する社会に対する、生き生きとした現実的な批判である。
青年だったエンゲルスがその頃、共産主義の名のもとで何を理解しようとしていたかは、彼自身にもはっきりとはしていなかった。バウアー兄弟の証言に拠れば、ドイツでは、共産主義という言葉は、1843年の初頭には既に広く流布しているスローガンになっていた(マイヤー、155頁)。エンゲルスは、マルクスに宛てた彼の最初の手紙として知られる1844年9月末の手紙の中で、後にエンゲルスの義兄弟になる商人、エミール・ブランクのことを、ロンドンの共産主義者だとし、さらに次のように語っている。
ケルンではすごい宣伝活動が行われている。同じように、エルバーフェルトには多少混乱した(共産主義者の)グループがいる。僕の故郷バルメンでは、警察署長が共産主義者だ。僕のかつての学生仲間で、ギムナジュウムの教師をしているのも、すっかり共産主義にかぶれている。どこに向かおうとしても、どこに向きを変えようとしても、共産主義者に出くわす。共産主義者の居酒屋がある。ベーデッカーは共産主義者の出版業者だ。だから知識人の参加も多い。けど……共産主義が実践上も現実のものとなりうるということについては、ゲルマン人は皆まだ全然分かっていない。この哀れな状況を克服するために、僕は小さなパンフレットで、事態は既に進み出しているということを書こうと思っている。イギリスやアメリカで実際に共産主義が実践されていることについて分かり易く述べるつもりだ。これには、三日かそこいらかかるけど、連中はこれできちんと分かるはずだ。
しかもその上、エンゲルスは直接大衆に働きかけることを熱心に望んだ。
直接扇動活動が出来れば、すぐに我々が頂点に立つはずだ。……しかしそれはほとんど不可能だ。とりわけ、我々のようなもの書きは、逮捕されないようにおとなしくしていなくてはならないからだ。
このことのためにどのくらいの日数を要するかについては、三の三倍以上を必要とすることはまずなかろう、という以外にエンゲルスは、何も言っていない。
1844年11月19日付けの第2信では、エンゲルスは、ケルンとボンでの自分の宣伝活動、さらに、イギリスの労働者階級に関する自分の研究、そしてシュティルナー、フォイエルバッハ、ヘスと取り組んでいること、などを報告しているが、その最後に次のように言っている。
ドイツのあらゆるところで「社会主義」が前進する音が聞こえる。しかし、ベルリンではことりともしない。狡猾なベルリン人は、全ドイツが所有制を廃止したときになって、ハーゼンハイデ公園(ベルリン近郊の大きな公園:訳者)で、やっと『平和的民主主義』を手にするのだろう。──この連中は間違いなく、それ以上のことはしないだろう。
(連載第7回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study915:171203〕
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