社会学者の見たマルクス(連載 第10回)
- 2018年 1月 13日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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1848年の秋、マルクスとエンゲルスは今度はロンドンで一緒になった。マルクスが最初に考えたことは、もう一度自分の新聞を復刊させることだった。彼らはまだプロレタリアートの世界革命の到来を期待していて、それに向けて強固な準備をするためであった。ハンブルグの出版社に委託して、『新ライン新聞――政治経済評論』が出せることになった。ロンドンで執筆される雑誌としては奇妙な題名であった。だがこの雑誌は4号以上は出せなかった。最後の号は1850年4月のものであった。
エンゲルスがこの雑誌に書いた論文は、「ドイツ帝国憲法キャンペーン」についてのものと、唯物史観の観点からのドイツ農民戦争についてのものであった。マルクスにとって最も重要だったのは、フランスの現代史であった。マルクスはその原因と経緯を解明しようとした。そして次のことを確信するに至った。「1847年の世界経済危機が、二月革命と三月革命の本当の生みの親であった。ヨーロッパの反動を、新たに、より力強く復活させた原動力は、1848年の半ばから再び徐々に始まり、1849年と1850年に全盛に達した産業の好況であった」(マルクスの死後、1895年にエンゲルスはそう語っている)。「新たな革命は新たな危機によってのみ可能となる。そして危機と同じように革命もまた確実に起きる」。エンゲルスは友人マルクスと合意の上で、1850年の秋にそう書いた。
マルクスが『新ライン新聞』の掲載した「フランスの内乱」の第1節は1848年8月までのフランスの階級闘争を論じている。ここでマルクスは、革命的前進のための道は、その直接の「悲喜劇的な」諸成果のなかに拓かれるのではなく、逆に、結束した強力な反革命の出現、それと戦うことによって初めて過激派が本当の革命党に成長するような敵の出現、そのなかにこそ拓かれると主張した。このことの根拠となるのは、ルイ・フィリップのもとで支配していたのはフランスのブルジョアジーでなく、そのフラクションの一つである金融貴族だけだとする認識である。金融貴族たちの「高教会」[権威の象徴:訳者]は銀行にあった。
二月革命はブルジョアジーの支配を完成させる必要があったが、これは金融貴族と共に有産階級全体を政治的権力層に入り込ませることによってなされた。「普通選挙権によって、フランス人の圧倒的多数を形成する名目上の所有者、すなわち農民がフランスの運命の審判者に就かされた」のである。これまで、全ての先進国において圧倒的多数派となっているのはプロレタリアートだと、しばしば言われてきたが、フランスではしたがってそうではないということになる。
当然のことではあるが、そして今でもなおそうであるように、プロレタリアートという言葉は、気分次第で、いいように扱われる。ある時は、他の全ての労働者を排除した、工場労働者の階級として捉えられたり、またある時は、小農民、農業労働者、それどころか農民全体をも含んだ階級として捉えられたりする。「そうであったとしても」と、マルクスはさらに続ける。
勿論プロレタリアートの圧力のもとではあったが、唯一の合法的な共和国はブルジョア共和国であると、国民議会によって宣言された。それは「社会的機構」をもった共和国となるはずであった。何故なら、「パリのプロレタリアート」は、――ここではプロレタリアートという概念は状況に即して縮小する――そもそも共和国の任務がどのように問題になるのか、現実にどこでそれが問題になるのか、といったことに関しては、イメージや空想以外には、まだブルジョア共和国を乗り越えられなかったからだ。しかしこの共和国は、二月革命の社会的幻想がすぐに破れるほどのものではなかった。パリのプロレタリアートがブルジョアジーによって強いられた六月蜂起の失敗によって、初めて本当のブルジョア共和国が生まれる場所ができた。また、フランスがヨーロッパ革命のイニシアティブを掴むためのあらゆる条件もそのことによって初めてつくりだされた。
マルクスは「新たなフランス革命は、直ちに国民という基盤を離れ、ヨーロッパという領域を獲得しなければならない。そこでのみ、19世紀の社会革命は完遂しうるのである」という。この19世紀は、20年前もから、今こそ終わるべきものであった。
論文「フランスの内乱」の第2節は、小市民の大量の破産、財政赤字の増大、機動親衛隊の勝利、戒厳令の実施、救貧法のなかの労働法に関係する諸法規の変更、といった敗北の直接の結果を描いている。労働法は確かに単に「惨めで、はかない願望」にすぎないが、「労働法の背後には資本を超える力があり、資本を超える力の背後には、生産手段の占有、団結した労働者階級への資本の屈服、それゆえに、賃労働、資本、そしてその両者の関係の廃絶といったものがある」。マルクスはそう言う。これまでのところ(1920年までのところは)、フランスで労働法が復活したことはまだ一度も無い。1848年12月10日(大統領選挙日)には小市民階級もプロレタリアートも一緒になってナポレオンに投票したにもかかわらず、マルクスは、この日を農民反乱の日として描く。次いで述べられるのは、バロの内閣、塩税の復活、国民議会の解散に関するラトーの提案、同じ内容の請願の嵐、議会自身の決定、クラブの弾圧、共和国の外交政策、「惨めな議会」の舞台からの退場、制憲議会の選挙と、その議会のもとでの1849年5月29日の立憲共和国の登場、などである。これに続いて、社会的条件という歴史的観点から諸党派が性格付けされる。
論文の第3節は、1849年6月13日から1850年3月10日までを扱う。6月13日はパリの民主的小市民の平和的デモが行われ、そして失敗した日である。秩序党の勝利の後、議会は8月に休会となった。10月に再開されたとき、議会の容貌は一変していた。大統領との対決が告げられたのだ。大統領は自分の番頭のような内閣を作り、執行権者を立法権者と対決させた。大統領は金融貴族と盟約を結び、金融貴族はユダヤ人フールドを介して内閣に入り込んだ。ワイン税の復活が農民を動揺させた。
「社会民主党」、すなわち赤色共和国の党が、ブルジョア独裁に反対する連合体として登場した。「プロレタリアートは、革命を起こそうとしていたところであったから、挑発に乗せられて小さな暴動を起こしがちであった」。1850年3月10日の補欠選挙は社会主義者の勝利となった。これは、1848年12月10日や1849年6月13日と同様に、1848年6月のこと〈労働者武装反乱の鎮圧の結果としてのブルジョア共和国の誕生〉を帳消しにすることを意味した。1850年3月10日には「我が亡き後に洪水は来たれ」というスローガンが掲げられていた。
第4節では、いよいよ1850年5月31日の普通選挙権の廃止について語られる。最初に説明されるのは、この反動を引き起こした原因としての全般的好況である。包括的で生き生きとした記述、鋭く辛辣な性格描写、世界史にかかわることになる大衆のそつのない処理、隠された関係の解読、こうしたものを息もつかせぬ論調で浮かび上がらせる、といったマルクスの文筆家としての力量、これが既にこの論文の中で現れている。1852年に出版された『ルイ・ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日』は「フランスの内乱」の風変わりな続編であるが、この中では、マルクスの筆致はさらに強く鋭くなっている。
この続編では、前の『新ライン新聞』に掲載された論文での結論となった予測は勿論退けられなければならなかった。『新ライン新聞』の論文では、産業の危機の勃発とともに、新たなプロレタリア革命が起こることが期待されていた。そして前例の無いほどの好況の後、1851年の秋にはその危機の兆しが現れたように思われた。だがこれは思い違いであることが明らかになった。ルイ・ナポレオンが勝利したのである。今やマルクスはこの勝利を説明しなければならない。
『ブリュメール18日』は、この帝位要求者=ナポレオン・ボナパルトを何よりもパリのルンペンプロレタリアートの頭領として描いている。ルンペンプロレタリアートという人種は階級として認めることはできない。彼らは単に、あらゆる階級の屑、塵、残滓にすぎず、全く漠とした、ばらばらの、あちらこちらに放り出された大衆、であった。フランス人はこの連中のことを「ボヘミアン(放埒者)」と呼んでいた。これは、風変わりな様々な社会的成分から構成されており、いかがわしいやり方で生活の糧を得ている落ちぶれた道楽者から、能なし、お喋り屋、乞食にまで及んでいた。歴史自身がまず、クーデターに先立つ過去の事件を改作して再演する。ワイン税とこれに反対する農民暴動についてはもはや何も語られていない。明らかにマルクスは、農民がプロレタリアートの翼下に入ることを期待していた。
叙述は辛辣さを増している。議会クレチン病が「1848年以来、ヨーロッパ大陸全体に蔓延したあの奇妙な病気」として弾劾される。憲法制定会議の多数派が、大統領府の大臣を攻撃し、議会における勝利もまた勝利であるとみなし、そうすることで大統領に打撃を与えられると信じていたときに、マルクスはこう弾劾したのである。憲法修正問題が大きな問題として表面化し、諸党派を混乱させる。危機と社会的パニックがそれに加わる。「合同、修正、会期の延長、憲法、陰謀、連立、亡命、王位簒奪、議会制共和国の革命。これらの言語に絶する、そして騒々しさに満ちた混乱の中で、ブルジョアジーが、終わり無き恐怖よりは恐怖を伴った終わりのほうがいい、と狂ったようにわめき立てる。それは分からない話ではない」。「ボナパルトはこの叫び声を理解した」。だいぶ前からクーデターの影が落ちていた。マルクスは次のように言う。
「社会主義共和国は二月革命の初頭における常套句、予告として現れた。それは、1848年6月にパリのプロレタリアートの鮮血の中で圧殺されたが、このあとに次ぐドラマの各場面の中で亡霊のようにうろつきまわる。……フランスのブルジョアジーは労働プロレタリアートの支配に抵抗し、ルンペンプロレタリアートに権力を握らせた……」。「ルンペンプロレタリアートの頂点に立ったのは、外国から逃げ帰ってきた投機師であった。彼は酔っぱらった雑兵達の指導者にまつりあげられたのだが、酒とソーセージで雑兵達を買収したのであって、一旦そうした後では、絶えず、新しいソーセージを与えなければならなかった」。
――「だがそうではあっても、国家権力は空中に漂っていたわけではない。ボナパルトは、一つの階級、それもフランス社会で最も人数の多い階級、すなわち分割地農の利益を代表していた。それゆえ、決して単に、ルンペンプロレタリアートという階級ならざる集団だけを代表していただけではない。ボナパルト王朝は、保守的で、非革命的な農民を代表していたのだ」。「資本の展開の中では、分割地所有は必然的に資本に隷属することになるが、そのことでランス国民の多くを洞窟居住者に変えてしまった」。「分割地所有はそれゆえ当然のことながら都市のプロレタリアートを同盟軍、指導者とした。都市のプロレタリアートの任務はブルジョア的秩序の覆滅である」。
論文の最後で展開されるのは、ナポレオンの思想である。これは「未発達の若々しい分割地の思想」ではあるが「古びた分割地にとっては気違いじみた考え」でもある。ナポレオンの矛盾に満ちた任務が矛盾に満ちた体系を生み出し、そして矛盾に満ちた体系が矛盾に満ちた任務を生み出す。ナポレオンは「秩序の名において無秩序そのものを産み出し、その間に、あらゆる国家機関から神聖性を剥ぎ取って、それを世俗化し、同時に不快にして滑稽なものとする」。
マルクスの歴史の描き方や捉え方をどのように評価するにせよ、彼は、『フランスにおける階級闘争』と同様、『ブリュメール18日』においてジャーナリズムの傑作を生みだしたのである。
ゾンバルトは、カール・マルクスの、生涯を通じた才気あふれる雄弁な仕事を、芸術家の仕事であったとする。そしてマルクスの表現方法は不作法にして無遠慮ではあったが、類例を見ないほど力強いものだったとして、次のように言う。
マルクスの語り口のなんと燃え盛っていることか。その語り口は対象に即することをいかに知っていることか。思想がなんという情熱と、なんという先鋭さでもって展開されていることか。文章の最後の行の終わりまでなんという荒々しさでもって突き進むことか。その描写がいかに光彩あふれ、輝いていることか。事件が、汲めども尽きぬ井戸からのように、なんとこんこんと湧き立ち、溢れ出ていることか」。
ゾンバルトが鋭く指摘したこの特徴は、そのすべてを『フランスにおける階級闘争』の中の文章によって容易に確認できるが、『ブリュメール18日』はこの点でその上を行く。『ブリュメール18日』はさらに、「唯物論」の方法の適用可能性と、同時にまたその限界とを、重要な試験材料を用いて実証したという意味において、不朽の重要性を持つ。
エンゲルス自身は、1895年に最初の論文を本にして出版するにあたって書いた序文において、次のことを告白しなければならなかった。
個別の事件あるいは一連の事件を評価する際に、日々の出来事から「究極の」経済的な原因まで遡ることは決してできない。失敗の原因は、事件と同時並行的に生じる経済状態の変化をいつも正確に観測することはできないということ、ましてやその出来事が自らが生きている時代のことである場合はとてもできないということにあるが、これは避けえないものである。
経済状態が、検討されるべき「全ての」事件の本質的な基礎であるとした場合は、[唯物論の]方法を過大評価することになり、そしてそのことはこの方法を直ちにドグマ的なものにしてしまうということ、すなわち、証明されるべきものであっても、証明されえないものがある、ということをエンゲルスは正しく知っていた。ただ、マルクスはこのことをほとんど理解していなかった。
(連載第10回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study932:180113〕
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