社会学者の見たマルクス(連載 第14回)
- 2018年 3月 3日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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この時点でマルクスの人生はまだ15年半残っていた。しかし『資本論』は、完成することはなく、整理もされなかった。そして彼を支援し、崇拝する少数のグループを別にするならば、誰にも理解できないままであった。しかも、三巻からなる『資本論』には学説史が付け加えられることになっていたが、それを含めて『資本論』は、全体系を叙述するのに全六部での構成が必要とされた作品の第一部に過ぎなかった。マルクスの生前に出されたのは第1巻の第2版までである。第2版には重要な前書きが書き加えられた(1873年)。その一年前にロシア語とフランス語の翻訳が出版されていた。この翻訳にはマルクス自身も加わり、内容についてかなりの変更が行われた。これに対して、エンゲルスも参加した英語版の翻訳は、長い努力にもかかわらず、これを軌道に乗せることには失敗した。
『資本論』の第1巻は、体系中の一つの巻ではあったが、その中心となるものであって、世界的な重要文献となっていった。そしてその過程で世界は震撼した。マルクスの遺稿によって編集された続巻は、第1巻ほどの迫力はないものの、それでもやはりマルクスの精神の特質を留めている。
マルクスは国際労働者協会(インターナショナルと呼ばれた)のための活動を続けた。彼が主に受け持ったのは、通信・連絡であったが、これは極めて広範囲なものであった。インターナショナルの第3回大会は1868年9月にブリュッセルで開かれた。ここに真っ先にやってきたのがロシア人バクーニンであった。マルクスは既に1843年にパリでバクーニンを知っていたが、バクーニンはこの大会で新たにインターナショナルに参加した。彼はすぐに、マルクスに対立する党派の中心人物となった。
この時期、インターナショナルの重要性は非常に高まった。それは、一連の大規模な労働者の蜂起によるものだが、そこにはインターナショナルの影響が見て取れる。このことを書いていると、私の少年時代に、インターナショナルが「肉体を持った赤い幽霊」として登場したことを思い出す。新聞は、インターナショナルの秘密に包まれた力や果てしない資金力を指摘する記事であふれていた。そして、カール・マルクスは世界的陰謀の恐るべき指導者として現れた。
それらはすべて幻影であった。実際には、組織の拡大が緩慢にしか進まないことが問題となっていたのである。それぞれの組織は、それが結成された国によって多様な性格を帯びていたが、共通して資金難と無関心にひどく苦しめられた。インターナショナルの総評議会では、マルクスは通信書記としてドイツとオランダを担当し、エンゲルスは同様にスペインを担当した。二人の影響力は次第に増加していったが、それでもこのような状況だったのである。
労働運動は相変わらず内部分裂に苦しんでいた。それを象徴するのが、フォン・シュヴァイツァーがなお支配者として君臨していた全ドイツ労働者協会がインターナショナルに加わらなかったことであった。インターナショナルはその最も重要な大会を1869年にバーゼルで開いた。この大会にもマルクスは出席こそしなかったが、(相続権に関する)総評議会の報告書は彼が作成したものであり、それを通して彼の考えは大会に届けられた。報告書は、相続権の放棄に関して、それを社会変革の出発点であると声高に叫ぶことは愚かなことだと、批判した。バクーニンがこのことを巡ってマルクスに反対した。バクーニンは過半数の支持を得たが、決定には至らなかった。一方で、社会は土地を共有財産に変える権利を持っており、この変更は社会の利益のために必要である、とする議決がなされた。これは世界を驚愕させるものであった。
大会の後まもなく普仏戦争が勃発した。当然のことながら、マルクスとエンゲルスは、緊張してこの戦争を見つめた。最終的にドイツが勝利を収めるという結果は、エンゲルスには前年[1870年]の7月の時点で既に疑いのないものに思えた。彼は自分の手でプロイセンの作戦計画を作っていたのである。マルクスは総評議会に対して報告書を書いた。これは、ジョン・スチュウアート・ミルやその他のロンドンの著名人達から賞賛を得たものであった。この中でマルクスは、この戦争をドイツにとっての防衛戦争だと明言したが、同時にプロイセンとビスマルクを、奴隷化されたフランスを自由なドイツと対比させることを怠っているとして非難し、「この[フランスにとって]自殺的な戦いの背後にはロシアの暗殺者のような姿が潜んでいる」とした。エンゲルスは[1871年]8月15日に次のような意見を述べている。
ビスマルクは今度も1866年と同じように、彼流のやり方で「[本来は]我々がやるべき仕事の一端」を遂行した。しかも、そう考えることもなしに、だ。ビスマルクは以前よりもっと純粋な民族国家を作ろうとしている。リープクネヒトは中立を維持しなければならないとしたが、この考えが、ドイツの一般世論であったならば、われわれはすぐにまたライン同盟を作らなければならなかったであろう。そして高貴なウィルヘルム(リープクネヒト)は、そこで彼がどんな役割を演じるのか、労働運動はどういう状態にあるのか、それをもう一度見なければならなかったことであろう。
現在にあっては極めて意義深い次の文章がこれに続いている。「当然のことながら、いつもただ殴られたり蹴られたりしているだけの民衆が革命を行う真の民衆なのであり、ウィルヘルム(リープクネヒト)にあっては、そのためには小さな国家のほうがいいのだ」。
プロイセンの政界のボスどもと南ドイツの熱狂的愛国主義者との二つのグループでは、アルザス・ロートリンゲンを併合しようとする強欲さが前面に出てきているように思われた。マルクスは既にこの時点で、次のように懸念していた。「アルザス・ロートリンゲンが併合されたならば、ヨーロッパとそれとは全く異質なドイツとが出会いかねないという、とんでもない大惨事となろう」。エンゲルスは、[フランスでは]時期を得て革命的政府が成立し、ビスマルクはこの政府との間で領土分割無しの講和を締結するだろうと、確信していた。セダンの戦いのあと、エンゲルスは次のように言った。「アルザスを割譲させようとする欺瞞は――原チュウトン人がそこにいるというほら話は別にして――主として戦略的な性格を帯びている。[ライン川左岸の]ヴォーゲゼン山脈をドイツ領ロートリンゲンの前哨地として得ようというのである」。マルクスはそれ以前に既に次のように考えていた。
プロイセンはそれ自身の歴史から学ぶべきだ。「領土の分割」によっては、眠っている敵に対して「永遠の」安全を得ることは出来ないということを、だ。ナポレオン一世のティルジットの荒療治[講和条約]は何の役に立ったのか。ナポレオンはプロイセンを[触ればすぐに崩れるような]ガスマントルの上に置いたのだ。
この考えは9月9日付の総評議会の2番目の報告書にも見られる。最初の報告書には次のような文章があった。「第二帝政の死を告げる時計の音が既にパリに響いている」。この報告書には警告もあった。2番目の報告書はこの文章を満足げにこう繰り返した。「ドイツの労働者階級が、現在行われている戦争を優れて防衛的なものだと性格づけることを許すなら、そしてフランス国民に対する戦いが著しく悲惨なものとなることを許すなら、この戦いが勝利となるにしろ、敗北になるにしろ、どちらにしても災いに満ちたものとなろう」。アルザスとドイツ系ロートリンゲンの併合の軍事的な理由を端的に述べた後、この報告書は次のように言う。
このようにして国境を決定することを原則にまで高めることは愚劣にして時代錯誤である。プロイセンのフランスに対する立場はナポレオン一世のプロイセンに対するそれと同じである。結末の悲惨さは今回も少しも和らげられないであろう。ドイツはロシアの領土拡張のあからさまな奴隷となるか、それとも短い休息の後、再び新たな防衛戦争、……スラブ、ラテンの両人種の連合に対する人種戦争の準備をしなければならないかのいずれかである。フランスをして貧しいロシアと無理矢理組ませるならばドイツの自由と平和は保証されると、本当にドイツ人は信じているのだろうか。
ついでながら、宛先はフランスの新しい共和国への挨拶となっている。冬季の戦闘の後、パリへの砲撃と飢餓、降伏、コミューンの蜂起と弾圧が続いた。すべての出来事の中で、古い反逆者たちをなによりも憤激させたのはコミューンに対する弾圧であった。それが終わった後、マルクスは総評議会の名で「フランスの内乱」に関する報告書を書いている。日付は1871年5月30日であった。ここには、同時代の事件を描写する老人のエネルギーがほとばしっている。インターナショナルはコミューンの結成やそのメンバー構成に全く何らの影響も及ぼさなかった。コミューンがその短い活動期間中にやったことに対して、インターナショナルはごくありふれた働きかけしか出来なかった。コミューンの多数派はブランキ主義者からなっており、プルードン主義者が少数派を形成し、その少数派の中に数人のインターナショナルのメンバーがいたに過ぎない。こうしたことにもかかわらず、マルクスはコミューンを断固として擁護した。
このことは、マルクスのこれまでの支持者をも驚かせた。とりわけイギリスではそうであった。[コミューンによる]パリ大司教を含む64人の懲罰的処刑さえマルクスは支持した。コミューンがこの64人の命を何回かにわたって奪っていったのは、ヴェルサイユ政権によって捕虜が次々と銃殺されたためだというのがその理由である。報告書では「大司教ディボアの本当の殺害者はティエールである」とされ、[コミューンを弾圧した]国民防衛政府の首脳たちは道徳的に腐りきった化け物として描かれた。
報告書は生々しい印象の下で書かれた。戦いを制圧し終えた勝者の恐るべき残虐さ、復讐心、そして凶暴さを見て、感受性の強い人間なら誰もが受けるはずの、ましてや労働者階級の擁護者であればなおのこと感じるはずの、生々しい印象である。報告書は、法的、道義的な激しい怒りで沸騰している。コミューン参加者の名誉を回復しようとしている。そしてまた、インターナショナルがなんら関与しなかったこの事件について、誇らしげに責任をとろうとしている。マルクスは熟考の末、次のように言う。
コミューンは本質的に労働者階級の政府であった。コミューンは、労働者の経済的解放が可能となる政治形態を遂に見いだした。コミューンは、諸階級が存在し、階級支配が行われる根拠となっている経済的基盤を覆滅する原動力として寄与するはずであった。こうしたことによってのみ、コミューン体制は、実現不可能な絵空事や錯覚以外のなにかになることができる。そしてまたそこで初めてコミューンは自らの存立条件を実現するはずであった。──コミューンは新しい社会のために、古い社会の懐で孵化されるのだ。
(連載第14回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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