脱資本主義・脱軍事国家の経済学への期待 中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』を読む
- 2018年 3月 4日
- スタディルーム
- 世界資本主義フォーラム矢沢国光
資本主義の「限界」「終焉」論が広がっているが、世界は依然として軍事大国の支配下にあるのみならず、これから軍事大国の仲間入りを目指す政権さえある――日本の安倍政権のように。
「脱・軍事国家」なき「脱・資本主義」は、絵空事だ。
なのに、「資本主義の限界」を論ずる経済学は、マルクス経済学を含めて、「脱・軍事国家」については、口を閉ざすだけであった。
中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』(東洋経済新報社2016.12)は、資本主義の世界史を貫く「富国」と「強兵」を統一的にとらえる「地政経済学」の構築をめざす。
中野の「地政経済学」は「富国強兵のあり方」を論ずるものであるが、わたし(矢沢)としては、「脱・資本主義、脱・軍事国家」の政治経済学として期待したい。
中野の「地政経済学」は、独自の国家論と独自の貨幣論の二つを、理論的柱とする。まず、国家論から見ていこう。
●国家は戦争によって作られる
国家と国際情勢の関係について、国家が国際関係を決定し(第一イメージ)、国際関係の圧力が国家を規定する(第二イメージ)、というのが従来の視点であった。これをコペルニクス的に逆転して、「国際関係の圧力が国家を規定する」から出発するのが、中野の言う「逆第二イメージ」の視点である。この視点によれば、
「国家が戦争をする」のではなく「戦争が国家を作る」。
この「逆第二イメージ」の視点は、1970年代以降のチャールズ・ティリーらの歴史社会学の成果だと、中野は紹介する。[本書は、経済学、歴史学、地政学の諸学説の集大成ともなっている。その労を多としたい]
現代国家とは何か、と問われると、多くの人は「国民国家」と答える。
「国民国家」とは、戦争のために国民を総動員する体制のある国家であり、現代国家の中でも特殊なものだ。現代国家をより一般的に規定すれば、「領域国家=主権国家」である、と中野は言う。同感だ。
「戦争が国家を作る」とはどういうことか。
中野は、国家の戦争遂行のための経済的人的資源の動員の仕方には、3類型があるという。
ヨーロッパの国家形成の3類型:
(1)強制集約型: 支配者が戦争のための資源を強制的に徴収する[ロシア、北欧、東欧]。
(2)資本集約型:商業資本の保護拡大のための国家形成。支配者は資本家の協力により、軍事力・傭兵を借りて戦争する[オランダ、北イタリア、カタルーニャ]。
(3)資本化強制型:(1)と(2)の中間。支配者は資本家とその資本を国家の内部に取り込んで、戦争準備する[イギリス、フランス、スペイン、プロイセン]。
類型論は、類型の根拠論――このばあいは、資本主義についての原理的規定にもとずく根拠――を要求する(中野は示していないが)。オランダとイギリスの「類型」のちがいは何にもとずくのか?
私は次のように考える[矢沢国光、世界資本主義の終焉に向けて--「脱・資本主義」・「脱・主権国家」を『情況 2018年冬号』]。
オランダとイギリスの違いは、宇野弘蔵のいう「流通主義的な資本」としての商人資本と「流通資本が生産過程を取り込んだ」産業資本のちがいである。国家との関係で言えば、オランダの商人資本が無国籍なのに対して、イギリスの産業資本は、イングランドという領域国家に根を下ろしている。商人の「都市国家」たるオランダは、領域国家となるまえに、イギリス海軍によって力をそがれ、ナポレオン帝国に占領された。
ロシアとイギリスの類型のちがいは何にもとずくか?ロシア帝国は、商人資本も産業資本も未発達なまま第一次大戦に突入し、破綻した。ロシアの「強制集約型」国家は、資本主義経済をその領域国家に取り込む前に破綻し、ソ連という「強制集約型」国家に引き継がれた。
(1)強制集約型は、資本主義の未発達のままの軍事国家の形成である。
(2)資本集約型は、資本主義の発展はあったが軍事国家の形成がない。
(3)資本化強制型においてはじめて、資本主義の発展を軍事国家が取り込み、ぎゃくに、軍事国家が資本主義の発展を助ける関係がつくられた。
こうした「富国」と「強兵」の結合という近現代資本主義国家を世界史上はじめて登場させたのは、1688年名誉革命後のイギリスであった。ジョン・ブリュワーの「財政=軍事国家」論は、名誉革命後のイギリスが、王室の「家産」を国家の「財政=租税公債」へと転換し、海軍力強化→世界商業・世界産業・世界金融による経済力の強化、という「富国と強兵の好循環」」が形成されたことを鮮やかに示した。
この「財政=軍事国家」を中野は「富国・強兵」の3類型の一つと位置づけているが、今日の世界では、軍事強国と呼べる国家はすべて、「財政=軍事国家」となっている。資本主義化しないまま領域主権国家となった中国・ロシアも、冷戦体制崩壊後、「財政=軍事国家」に向かっている。
●国民通貨とは何か
国家と資本主義経済の接点は、「国民通貨」にある。通貨とは何か?貨幣とは何か?中野は、「貨幣の領土化」から貨幣論の話を始める。貨幣論は、本書の二つ目の理論的支柱である。
マルクス経済学の原理論には、「世界貨幣」はあるが「国民通貨」はない。しかし、現実の世界には、ドルや円や人民元といった「国民通貨」はあるが、「世界通貨」はない。国際決済に使われるのは、いずれかの国家の国民通貨である。パクス・ブリタニカ時代のイギリス通貨ポンドやパクス・アメリカーナ時代のアメリカ通貨ドルのように。
中野は、貨幣とは「交換手段として受け入れられる負債の一形式である」とする。どういうことか?(1)財・サービスの移転と決済のあいだの時間差によって、売り手/買い手のあいだに信用/負債が生ずる。(2)二者間の負債が多数者間で決済されるために、負債の共通の表示として貨幣が生まれる。(3)負債はデフォルトのリスクをもつ。リスクのほとんどない負債[ほとんどの経済主体が受け取ってくれる負債]だけが、交換手段たりうる。それは現金通貨(中央銀行券と鋳貨)と預金であるが、現代経済では、預金が貨幣の大半であり、現金通貨はわずかである。
中野によれば、中央銀行の発行する紙幣は国家紙幣であると同時に中央銀行の信用通貨である。通貨の価値についての古来の論争から言えば「表券主義」(国家権力が通貨価値を保障する)プラス「価値内生説」(国民経済の経済力にもとずく価値)が、現代国家の通貨たる中央銀行券と預金の価値を説明する。中野はこれを「国定信用貨幣論」とよぶ。
世界経済は、いくつかの中心的な国民経済から編成されており、それらの国民経済は、それぞれの「国民通貨」によって統括されている。「国民通貨-国民経済」システムは、資本主義経済が領域国家に取り込まれて生成したものであり、国家の発行する通貨としての「国民通貨」がある以上、いくら「経済のグローバル化」が発展し「多国籍企業」が勢力を増しても、国家による経済への統括は、解消しない。
このことを経済学の論理であきらかにしたことは、「固定信用貨幣論」の功績だ。
だが、「固定信用貨幣論」にも、限界がある。財政論で、その限界が露呈する。
●赤字財政論の可否
第一次大戦後のドイツでは、通貨の増発がハイパー・インフレをもたらした。この経験から、中央銀行による国債購入で赤字財政を賄うことは、多くの国で「禁じ手」とされてきた。日本でも、財政法で赤字国債は禁止されているが、1975年からなし崩し的に赤字国債発行が始まり、今では、財政の半分を赤字国債で賄っている。
資本主義を批判するマルクス経済学者にも、財政赤字反対論者が多い。赤字国債・赤字財政は、経済政策として成り立たないのか。
中野は、「財政赤字イコール悪」論を、次のような論理で、否定する。
政府の財政赤字は、それと同額の民間部門の貯蓄を創造する。したがって、政府が貯蓄の供給不足に直面することはない。
企業に対する銀行の貸出限度額は、(銀行の資金力ではなく)企業の返済能力にかかっている。同様に、銀行の国債購入の限度は、政府の返済能力にかかっているが、政府は通貨発行の権限をもっているので、通貨を増発すれば、[国債が自国通貨建てであれば]返済できる。よって 財政支出の均衡[財政の健全化]は不要である。
たしかに、平時の赤字国債の増発が、ハイパー・インフレになるまで続けられるとは、考えにくい。
だが、赤字国債の無限増発可能性を、通貨の無限発行可能性に求めるのは、まちがっていないか。
通貨は政府が発行の権限を持っているからといって、いくらでも増発できるというものではない。
1980年代以降のアメリカが通貨ドルの増発で経常赤字を賄い、さらには対外資本投資で金融収益を得てきたことは事実である。だがこれはアメリカだからできたことであり、パクス・アメリカーナという国際軍事政治体制下ではじめて可能となったことだ。
中野の貨幣論のどこに問題があるのか? 「固定信用貨幣論」は、「国家紙幣」と「中央銀行券」を混同しているのだ。
「国家紙幣」は、資本主義と国家の結合を前提としない。「中央銀行券」も「預金」も、中央銀行をピラミッドの頂点とする信用体系による信用貨幣であり、その価値は、国家が取り込んだ国民経済の経済力にもとずく。中央銀行券は、領域国家に資本主義が取り込まれて「国民経済」が成立することを前提とする通貨だ。[明治維新政府は国家紙幣を発行し、叢生した国立銀行もそれぞれの銀行券を発行したが、中央銀行(日銀)成立後、国家紙幣は回収され、銀行券は日銀の中央銀行券に統合された]。
マルクス経済学の貨幣論も、ここら辺の事情を十分解明できているとは言えない。
●現代資本主義・世界政治をどうみるか
第二次大戦後の世界体制は、大きくみれば、ブレトンウッズ体制からワシントン・コンセンサス体制(新自由主義)への移行である。
中野によれば、ブレトンウッズ体制の思想的基礎(ケインズとホワイトが一致し、ロンドン・NYの銀行家は反対した)は、反グローバリゼーション=経済ナショナリズムであり、 その経済システムとしての特徴は、国際資本移動に対する制限にあった。
だが、1960年代後半、アメリカ経常収支が悪化し、ブレトンウッズ体制からの転換を迫られる。 転換の眼目は、「資本移動の自由化」である。
ニクソン政権の経済政策担当者が、自由で開放的な国際金融市場こそが、アメリカの経済覇権を強化すると考えたのは、2つの理由による。一つは、資本の自由化は、(ヨーロッパや日本など)黒字国に対する通貨高の圧力になること、もう一つは、国際通貨としてのドルは、開かれた国債金融市場の創出で強化される--国際的なドル市場への欧日からの投資が拡大する--と考えたからである。
2008年金融危機で判明したことは、アメリカ経済の成長は、「負債の増加と資産価格の上昇」に依存しており、これは持続可能ではないということだ。
アメリカは、イラク侵攻に失敗し、中国の台頭のまえに、東アジア覇権体制は弱くなった。
中国の台頭に対してアメリカは、当初は、中国の資本主義への統合[参入]を歓迎し、支援した(米中の大取引)。その後、中国の力が増し、米中の軍事的バランスは、東アジアでは、拮抗するまでになった。中国は経済大国化し、シーレーン防衛が戦略的関心となった。また、中国の経済大国化が、アジア諸国の対中国経済依存を拡大し、アジア諸国(とくに韓台)のアメリカ離れをもたらした。
アメリカは中国との「大取引」から転換しつつある。
●日本の富国強兵?
これは、日本にとって何を意味するか?
冷戦期のアメリカは、日本に「強兵」なき「富国」という僥倖をもたらした。
日本は、アメリカの「二重の封じ込め」戦略(日米安全保障体制によって中国を封じ込め、同時に日本の軍国主義化を封じ込める)のゆえに「強兵なき富国」を実現したが、アメリカの東アジア覇権の弱体化は、日本に対して、アメリカ依存からの転換を要求している、と中野は考える。
2000年代の日本は、アメリカの一極主義的軍事覇権[イラク侵攻…]に依存し、防衛費を削減した。反対に、中国は軍事費を拡大し、日中間の勢力不均衡が拡大した。
中国が台頭しても、中国は世界覇権を求めているわけではなく、せいぜい東アジアの覇権国家をめざしているにすぎない。アメリカにとって安全保障上の脅威とはならないし、米中の間に新冷戦は起きない。アメリカが、東アジアの覇権は中国に任せて、東アジアから出ていくこともありうる。
日本の政権は今のところ、対米追随一辺倒である。これは歴史上いつの時代にもみられる「慣性法則」でもある。
そして中野は、日本が、親米路線と新自由主義から決別して、「21世紀の富国強兵を実現するという可能性」を指摘する。
中野の「地政経済学」は、パクス・アメリカーナの危機を解明し、それに依存し続ける日本の危うさを鋭く提起する。こうした分析のための政治経済学の体系として「地政経済学」を、私たちの前に提示してくれた。
「地政経済学」が、
日本が、いかにして「富国強兵を実現するか」ではなく、
世界を構成する主要諸国(日本もその一つ)が、いかにして「富国強兵から離脱するか」(脱資本主義・脱主権国家)の道筋を示す「地政経済学」へと大きく発展してほしい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study943:180304〕
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