■維新と日本近代・2 なぜこの農村の国学者は常に遅れて発見されるのか ―鈴木雅之『撞賢木』を読む
- 2018年 5月 23日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「凡そ世(世界)になりとなる(生々)万物(人は更なり、禽獣虫魚にいたるまですべて有生のたぐひ、)尽く、皆道によりて生り出づ(道のことは下にいへり)。道ある故に、世にある万物は生り出たるものなり。」
1 遅れて発見される国学者
村岡典嗣の『増訂日本思想史研究』(昭和15年、岩波書店)に「農村の生んだ一国学者鈴木雅之」という文章がある。村岡のこの著書の初版本『日本思想史研究』は昭和5年に岡書院から出版されている。村岡が増訂版に付した「はしがき」によれば、上記の「鈴木雅之」をめぐる文章はすでに初版本に収められていたことになる。いま村岡の『日本思想史研究』の出版年次にこだわっているのは、その発見の驚きと喜びに満ちた「農村の生んだ一国学者鈴木雅之」という文章の発表年次にかかわってである。この文章は昭和5年9月の「思想」誌上に発表されたものである。とすれば初版『日本思想史研究』に載る発見者の驚きと喜びに満ちた「農村の生んだ一国学者鈴木雅之」という文章はそのまま十年後の『増訂日本思想史研究』に収められたということになる。日本近代における国学研究の最盛期というべきこの時期に鈴木雅之はなお昭和初年に発見された処女的国学者のままであったのである。
鈴木雅之について、落としてはたならないもう一人の国学研究者がいる。伊東多三郎である。彼が『近世国体思想史論』[2]に「多年国学の研究に従い、地方に埋もれている国学者の事蹟を調査している間に、鈴木雅之の名が美しい輝きをもって眼前に浮ぶに至ったのである」と書いたのは昭和18年であった。「机上に堆く積まれた雅之自筆の遺稿を通読した時には、その人物は是非とも顕彰せねばならぬ」としながらも、それを実現するための時間も条件も戦時下の伊東にはなかったのであろう。彼はただ「国学者鈴木雅之」という紹介の文章を同書の最終章に付するにとどまった。天保8年(1837)下総利根川畔の農村に生まれ、明治4年(1872)に35歳の若さで逝った鈴木雅之は、昭和の戦時期にいたるまでただ遅れて発見される国学者にとどまったのである。
この鈴木雅之がいつまでも〈遅れて発見される国学者〉あるいは〈知られざる偉才〉にとどまるという事態に憤った地元の研究者伊藤至郎[3]はまず独力で『伊能忠敬・鈴木雅之』(1941年)を書いた。だがそれに不満足であった伊藤は再び雅之に取り組み、病苦と戦時・戦後の悪条件を冒して鈴木雅之研究の完成に努めた。没後に刊行された『鈴木雅之研究』[4]の「一九四四年一月三日」[5]の日付をもつ「まえがき」で伊藤はこう書いている。「わたしは病後の心身を以て再び雅之と取り組み、ようやくにして本書を完成するに至った。しかし、わたしの無力は覆うべくもない。もし本書にとるべきところがあるとすれば、それは雅之その人のものである。わたしの多くの言説のごときは無知に反して語った徒言に過ぎない。」
「遅れて発見される国学者」という鈴木雅之をめぐる事態に憤る伊藤至郎もまた、その事態を覆すことをなしえなかった己れの無力を慨かざるをえなかったのである。そしてこれらの先人たち、村岡典嗣、伊東多三郎、そして伊藤至郎という思想史研究のすぐれた先達の教えによって鈴木雅之を知った私も、ただ雅之の主著『撞賢木』の遅い発見の驚きを記すにとどまったのである[6]。
しかし鈴木雅之とはなぜいつまでも遅れて発見される国学者であるのか。日本の近代はいまにいたるまで鈴木雅之を遅れて発見される国学者のままにとどめているのである。それはなぜなのか。
2 「農村の生んだ一国学者」
鈴木雅之は天保8年(1837)に下総国埴生(はぶ)郡南羽鳥村、現在の千葉県成田市南羽鳥の一農家に生まれた。父は清兵衛といい、小農であった。以下、雅之の出生と少年時代とを、村岡の記す文章によって見てみよう。
「天保八年は、大塩平八郎の騒動のあつた年である。渡辺崋山や高野長英の捕へられた二年前、藤井高尚、屋代弘賢、平田篤胤、香川景樹等の晩年に当る。この年の某月某日に、下総国埴生郡(今は印旛郡となる)の、東方長沼と西方印旛沼とにはさまれた一地域にある南羽鳥村という僻地の一農家に生まれた、一人の男子があつた。この児生長するに従つて頗る群童と異つた。沈重寡黙、友達と遊ぶ時にも、砂上に文字を書いて楽しみとした。成童の頃となると、常に附木とあきばの葉とを懐中して、昼はその見聞したところを記し、夜は爐火を燈に代えて、之に歌や文を書き、終に一葉も残さなかつた。稍長じて耕作に従事したが、田畑に息む時も、荷車を駆る時も、書冊を手に放たず、山にあつては、松葉を拾つて筮竹に代へて卜筮の理義を考へた。十五歳を越して若者の仲間入をしてから、その集会の席に列しては、徒りに雑談せず、寸陰を惜んで読書したりした。父母に仕へて至孝、些かも命令に背くやうなことなく、毎夜を読書の為に更しても、私かにふしどに入つて読書し、翌朝は必ず早く蹶起して業務に従ふやうにし、専ら父母を心配させたり、又父母の意に協ないやうなことないやうに努めた。
農村のこの異常の一少年が、かくの如き読書や思索は、始めはもとよりしかといふ目当もなく、当時一般の和漢の書を、手当り次第に読んだり、くさぐさの物の道理を考へるといふにあつたらうが、いつしかその輪郭も明らかになり、学問の目標も、定かになつて来た。即ち、専ら本居平田一流の古道の研究となつて来た。」
19世紀はじめの下総の一農村に異様な向学心をもった少年、まさしく「異常の一少年」が現れたのである。少年の日の雅之が、村岡がここに記すようであるならば、それはまさしく「異常の一少年」であるだろう。村岡がここに記した「異常な一少年」雅之のあり方は、木内宗卿の『穂積雅之君之略伝』によるものである。鈴木雅之の生涯を知りうるものはただ一つ明治17年に書かれた木内宗卿の『穂積雅之君之略伝』があるだけだと伊藤至郎がいっている。木内とは雅之の門人であり、その郷里を同じくしているという。したがって少年時の雅之を描くものは、だれもが『略伝』にしたがって「異常な一少年」雅之を描き出すことになるのだ。村岡とならぶ雅之の発見者である伊東多三郎もまた村岡と同じように「異常な一少年」雅之を記している。
だが私はこう書きながら、村岡や伊東による「異常な一少年」の記述に疑いを差し入れようとしているのではない。たしかに雅之は異様な向学心をもった少年であったのだろう。異様な向学心をもった少年であることなくして、三十五歳で急逝した雅之が、すでに「国学者として全く一家を成してゐる」と村岡に評さしめるほどの著述を残すことはない。だが私があえてここでいいたいのは、「異常な一少年」への驚きが、この少年をあらしめた下総のこの農村への驚きを隠してしまっていることである。
私は雅之という少年に驚くとともに、この少年を生み、育てた下総のこの農村と農家に驚くのである。書を読み、学を求めることの範型がその周辺になくして向学心といった心の志向が少年に生まれるわけはない。そもそも文字を学び、書を読む術をこの農家生まれの雅之は幼きときからもちえたのである。読むべき書物がすでにこの農村と農民の周辺にあったのである。かつて私は伊藤仁斎(1625-1705)の学問の形成過程を追いながら、町人の出身である仁斎が早くから漢籍を周辺にもつ家庭環境の中にいたことに驚いた。私は当初それは17世紀京都の上層町人の特殊な事例と解していた。だが近世江戸社会の知識・学問世界を知るにつれて私は、近世社会による脱階級的な知識・学問の展開と普及とを驚きをもって見出していった。
参勤交代が作り出す全国的な政治的ネットワークは、同時に経済的ネットワークをなし、文化的ネットワークをも構成した。さらに幕藩体制社会にとって重要なのは都市と農村とのネットワークである。近世江戸時代とはこうしたネットワークを全国的に成立させていった時代である。芭蕉が俳諧のネットワークによって「奥の細道」を旅したように、はるかに豊かな知識と文化のネットワークが町と村とを結んでいたのである。和歌や俳諧だけではない、儒学や国学、蘭学、心学などなどがこのネットワークによって全国的な学派、門流を成していった。ことに18世紀後期から19世紀初頭の江戸社会にあって、江戸と地方農村の豪農層を通じてのネットワークの形成とこのネットワークによる著述の販売と教勢の拡大を意欲的にはかったのは平田篤胤とその学派的中心気吹舎(いぶきのや)であった[7]。下総とは平田学にとっての拠点的農村地帯であったのである。「異常な一少年」雅之に驚く私は、同時にこの少年を生み育てた江戸後期下総の一農村に驚くのである。
雅之二十歳の頃、家督を妹婿に譲り、家を出て香取郡三倉村に至り、越川平右衛門氏宅に身を寄せた。「郷里を去つて同国香取郡内の所々に流寓して、一意研学に勉めると共に、かたはら農村の子弟を教へて日々を過す身となつた」と村岡は記している。彼が家を出る二十歳の頃、郷党の歌人神山魚貫(かみやまなつら)に入門した。魚貫は雅之が就いたただ一人の師であった。雅之の学問も知識もみずからいうように独学によるものである。雅之は三倉村に数年いて、高萩村の石橋伝右衛門氏宅に移った。「かくて少くとも元治二年二十九歳まで旅寓にあつた。旅寓中の彼は、二氏厚遇のもとに傍ら近隣の子弟を教へつつ、読書と研究とに専念し、また著述に心を錬つた。」雅之の著述は主としてこの高萩時代とそれに続く二、三年の間に、年齢からいえば二十八歳から三十一歳ごろまでに成されたものであろうと伊藤はいっている。この雅之の研学と著述を支えた越川平右衛門氏も石橋伝右衛門氏もあの平田国学派のネットワークの要をなす財と名望とをもったいわゆる豪農であったのであろう。
慶応が改まって明治になった雅之三十二歳のころ、高萩の石橋氏の許を去って鏑木村の医師平山昌斎の許に寓した。明治二年九月に雅之は、同郷の学友であった伊能頴則の勧めで東京に上り、彼の推挽によって大学小助教となった。明治維新と国学者の動静をめぐって伊東多三郎はこう書いている。
「明治維新、それは宣長、篤胤の教に従つて多年わが固有の道の復興を叫びつづけて来た国学者達にとつては、誠にその主張実現の好機至れりと雀躍すべき時であつた。明治維新政府の宗教行政、国民教化政策等の実施に当つては、沢山の国学者、国学書生の起用を必要としたので、彼等の大部分は、或は書斎を出で、或は郷関を辞して東京に集り、宗教行政の中枢機関であつた神祇官や、国民思想指導の衝に当つた教部省に出仕して、彼等の先人達が示した理想を今こそ実行に移さんと奔走したのである。雅之も亦その一人であつた。」
雅之は明治3年に大学小助教になり、その翌年には神祇官に出仕し、宣教師中講義生に任ぜられた。明治5年、小博士昇任の内意を受けたが、その叙任を待たずに雅之は病をえて急逝した。三十五歳であった。
その遺著はすべて草稿のままで、生前出版されることはなかった。その主な遺稿を伊藤至郎の分類によって示せば次のようである。
(一)哲学・世界観・道に関するもの:撞賢木
(二)諸批判:春秋賛義・大学弁・中庸弁・弁孟・論語弁・理学新論など
(三)政治・経済に関するもの:民生要論・治安策・民生要論略篇・示蒙彝訓・経国略論など
(四)歌学:歌学正言・歌学新論など
(五)随筆:藻・客居雑録
(六)研究:壬申乱・史論・活語全図・詞の花筺・古事記釈解・天津祝詞考・霊魂説略など
3 なぜ雅之は遅れて発見されるのか
昭和における雅之の最初の発見者というべき村岡は、その発見の文章の末尾で、「彼にしてなほ長らへたならば、学識一層の円熟を加へて、矢野玄道や福羽美静の徒と、優に伍するを得たであらう」といっている。若き雅之による学問的・思想的な早すぎた達成の発見者である村岡の言葉として、これは頂けるものではない。ましその生を長らえることができたならば、雅之はあの明治天皇制国家の祭祀体系、神道学的体系の構築者たち矢野玄道・福羽美静と並びうる国家的神道学者になっただろうというのは、発見者のいう言葉ではない。もしそうなら雅之はとっくに発見されて、国家神道史の上にはっきりとその名を刻んでいただろう。だが雅之とは昭和の村岡によって発見されねばならなかったのである。
鈴木雅之とはつねに遅れて発見される国学者・神道学者であることは村岡自身がその著書で証明していることではないか。すでにいうように村岡は昭和5年の初版『日本思想史研究』に雅之発見の文章「農村の生んだ一国学者鈴木雅之」を書いた。そして10年後、村岡は再び雅之発見のこの文章をそのまま増訂版『日本思想史研究』に収めているのである。それはただ増訂再版という出版慣行にしたがったまでだと人はいうかもしれない。だが私はそこに雅之がつねに遅れて発見される国学者にとどまっていることを見るのである。
それはなぜなのか。なぜ雅之はつねに遅れて発見される国学者であるのか。それは不幸にも三十五歳の若さで急逝してしまったゆえなのか。あるいはそれは学派的地盤も背景もなく、下総の農村地帯で独学的に形成された雅之の学が負わねばならなかった運命であるのか。そうかもしれない。だが雅之の学が負わねばならかった運命とはだれが定め、だれが与えていったのか。それは維新と明治に始まる日本近代が雅之に負わせていった運命ではないのか。そうであるならば雅之の発見とは、雅之が負わされてきた運命への問い返しであったはずである。そしてその運命への問い返しとは、雅之忘却の運命を定めた日本近代への問い返しであったはずである。それゆえ村岡の一農民学者雅之の発見とは、近代の国学史、神道史への問い返しであったし、伊東多三郎における雅之の発見は、「国民の多数が文化の創造に参加し、その享受の機会に恵まれてゐたかどうか」[9]という国民文化創造の原点的な問い返しとともになされたものであった。そして伊藤至郎の『鈴木雅之研究』にかけられた意味と重さは、すでに引いた妻伊藤光子の「あとがき」の言葉がそのすべてを語っている。もう一度ここに引いておこう。「戦争前の暗い時代に真理を求め続け、そのために長く自由を奪われ、そこで得た病を遂に恢復することができず、筆業なかばで倒れたことは、筆者にとっても、私にとっても、千載の遺恨というほかありません。」伊藤至郎にとって『鈴木雅之研究』とは、彼を獄に捕らえ、死にいたる病苦を負わせた昭和の戦争国家日本との対抗的な重さをもつ著作ではなかったか。
昭和における雅之の遅れた発見をこのように語る私もまた雅之の遅れてきた発見者であった。
4 私における雅之の発見
私は鈴木雅之を内からの要請で読んでいったわけではない。雅之だけではない、平田篤胤でさえ私にとって出会うべき必然的な存在としてあったわけではない。60年代の私は宣長を研究対象にしていたが、宣長の先に篤胤を見ていたわけではない。戦後の国学思想史というイデオロギー批判的思想史の方法的克服に努めていた私は、宣長から篤胤への道筋を当然辿るべきものとしていたわけではない。篤胤は偶然に、外から与えられた。60年代の終わりの時期に中央公論社の「日本の名著」の一冊として『平田篤胤』の巻の構成と解説の仕事が私に与えられた。私は篤胤の国学的コスモロジーとその展開をテーマにして、篤胤の『霊能真柱』を軸に佐藤信淵の『鎔造化育論』と鈴木雅之の『撞賢木』を添えて一巻を構成する案を立てた。これは私のにわか勉強によってなったものだが、間違ってはいないと今でも思っている。
私は篤胤や信淵の著作や雅之の『撞賢木』のコピーなどをもってドイツのミュンヘンに行った。71年に私はフンボルト奨学金によってドイツ留学の機会をえたのである。あの「日本の名著」の一冊としての『平田篤胤』はこのドイツ滞在の賜物である。それはただドイツ滞在がこれらのテキストを読むための時間的余裕を私に与えたということではない。私は〈ドイツから読むこと〉によってはじめて、これらの国学的テキストを読むことができたのである。〈外部性〉という思想的テキスト解読のための方法的視点を自ずから私はドイツ滞在によってもったのである。ドイツから読むことによってはじめて私は顕幽二元論的構成をもち、救済論的課題を内包した篤胤コスモロジーの意味を読み出すことができたのである。やがてこの〈外部性〉はポスト構造主義的なディスクール分析の方法として80年代以降の私の思想史を導くことになるのである。
このドイツ滞在は私に篤胤を再発見させただけではない、鈴木雅之という農民思想家を発見させたのである。私が『平田篤胤』に鈴木雅之を加えたのは、村岡典嗣や伊東多三郎に教えられてである。
雅之の『撞賢木』の「総説」は次のような言葉をもって始まる。
「凡そ世になりとなる万物尽く、皆道によりて生(な)り出づ、
道ある故に、世にある万物は生り出たるものなり、
万物生有(なれる)故に道生れるに非ず、
道本末ありて行はるる故に、其道によりて万物なれるなり、万物なれる
故に道はじめてもとになれりと思ふは誤なり、
いきとしいけるもの(生活するもの)皆、道を行ふによりて活(い)く、
世に生活するほどのもの、道を離れていけるものは更にあることなし、
いける故に道を行ふにあらず、
人もとより道を行ふによりていけるなり、いける故に道を行ふと思ふは、反(かえ)ざま
の惑ひなり、
期(とき)来りて死ぬるは、道行得るにより死ぬるなり、」
「辱(かたじけ)なくも天神の高天原(天を此国より指ていふ語なり、天は日輪な
り)に坐(まし)まして布行せたまふ生成の道、是なり、」
私はいまこの「撞賢木・総説」の言葉をすべてここに引きたいという衝動をもちながら、これを写している。私がこれを初めて読んだときの感動を、いまこれを写しながらもう一度体験し直しているようである。私はかつてその感動を次のように書いた。
「生活するということが道を行うことだと雅之はいう。あるいは人がこの世に生をうけ、そして日々の生業を営み、やがてその生を終えることが、すなわち人の生の展開そのものが道を行っていることだともいう。雅之の概念によっていえば、人の生活が生成の道を行うこと、あるいは生成の理にしたがうことである。このように人々の生活を基礎づける哲学的な展開が、あの道の根元性の主張によってなされていこうとするのである。そこに、下総の農村で耕作にしたがいながら思索した雅之が、篤胤ら国学の先達に与えた回答がある。」
「生成の道の根元性をいう雅之は、その根元の道に関与する魂(人身の神)の世界として幽冥界をとらえる。それはもはや死後の魂のおもむく霊的世界ではなくして、道の根元性にかかわるいわば本体的世界である。生成の道を基底として世界をとらえる雅之の思索力はきわめて高い。」[10]
生成の道の根元性をいい、地上の生活者をその生活による道の遂行者だとする雅之の日本思想史に稀有な思想と言語とを確かに読めば、日本近代がなぜ雅之を忘却のままに埋もれさせてきたかの理由も自ずから知るだろう。国家的神(現人神)の原理によって丸ごと造り上げていった近代日本は、雅之の「生成の道の根元性」をいう「人=生活者の思想」を埋もれさせることによってその国家的運命を遂げていったのである。
[1]鈴木雅之『撞賢木』『神道大系・論説篇・諸家神道(上)』所収、神道大系編纂会、精興社、1988。
[2] 伊東多三郎『近世国体思想史論』同文館出版部、昭和18年。
[3]伊藤至郎は明治22年(1889)千葉県成田市に生まれる。東京物理学校数学部卒業、神奈川県立二中や明星学園等で教師を勤め、唯物論研究会の結成に参画(昭和7)し、唯研幹事として逮捕、重患となり保釈出獄(昭和16)、戦後小康を得、5,6年の間、著作に携わり、住民運動に活躍する。昭和30年(1955)没。数学や科学史に関わる著作がある。
[4]伊藤至郎は戦中の昭和18年にはこの書の執筆を始めていた。戦後も病苦を押して執筆を続け、昭和30年に亡くなる前には完成をみていたようである。その17年後、昭和47年(1972)に『鈴木雅之研究』は刊行会の手によって青木書店から刊行される。その書の「あとがき」で妻の伊藤光子はこう書いている。「伊藤至郎は、戦中、戦後にかけて『いわゆる国学の死滅過程、および新しき出発』の研究を終生の仕事として、それを完成するまでは死ねないと病躯を鞭打っていました。その過程で、この『鈴木雅之研究』を脱稿・推敲しおえた時は「骨は折れたが、仕事をしたという気がするよ」と嬉しさを隠しきれない表情でした。そしてこの書が世に出るのを待たずに、戦争前の暗い時代に真理を求め続け、そのために長く自由を奪われ、そこで得た病を遂に恢復することができず、筆業なかばで倒れたことは、筆者にとっても、私にとっても、千載の遺恨というほかありません。」
[5]この日付は恐らく誤植で、伊藤の死の前年「一九五四年一月三日」が正しいのではないかと思われる。
[6]私は『平田篤胤』(日本の名著24、中央公論社、昭和47年)を篤胤とともに佐藤信淵と鈴木雅之とをもって構成し、雅之の『撞賢木』を抄訳し、その解説文を書いた。これは私による雅之の遅れた発見である。
[7]江戸後期社会における平田篤胤と気吹舎による各地農村とのネットワークの形成とそのネットワークによる篤胤著書の販売と平田学の教授と学派的拡充活動の実際を詳細に追跡し、そこから平田学の性格を闡明しようとしたのが吉田麻子の『知の共鳴—平田篤胤をめぐる書物の社会史』(ぺりかん社、2011)である。
[8]鈴木雅之の遺著は成田市の文化財に指定され、成田図書館に収められている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.05.21より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study978:180523〕
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