なぜ文化大革命は過ぎ去らないのか――日本の「進歩的」中国研究者の「結果責任」を問う(その1)
- 2018年 10月 31日
- スタディルーム
- 石井知章
*長文ですので、著者のご了解のもと、二回に分載いたします。註は、次回に一括して掲載いたします。(編集部)
はじめに
1966年5月から1976年10月まで続いた「文化大革命」について徐友漁は、「理想的な社会の実現というスローガンを叫び、大衆の大規模な動員を手段として、個人崇拝と集権化を行い、文化と文明に反し、法治を踏みにじり、専制を強化して発展させた政治運動」と定義している1。1950~60年代の人民公社や大躍進での相次ぐ失敗による中国経済の停滞ののち、劉少奇や鄧小平が市場経済を部分的に導入し、それなりに経済を回復しつつあったものの、毛沢東はこれらの政策を社会主義から資本主義へと逸脱させるものであるととらえた。なぜなら、毛沢東にとって、こうした「資本主義の道」を歩もうとする「走資派」による修正主義は、中国の社会主義そのものを存亡の危機に陥れるものであり、中国独自の社会主義を維持するために、批判・打倒しなければならかったからである。たしかに、すべての人民を西洋近代の「資本主義」だけでなく、中国の前近代的「封建主義」からも解放し、マルクス・レーニン主義の思想に基づく新たな文化を創出するというのが、毛沢東による当初の狙いだったのかもしれない。だが、実際にはその理念とはまったく裏腹に、全国規模の非合理的な社会的混乱が広範囲にもたらされていったのが文化大革命である。とりわけ、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を失った毛沢東は、「上から」の扇動によって一般大衆を劉少奇ら政敵への攻撃に駆り出し、自らの権力を取り戻そうとした。その結果、この中国共産党内部での権力闘争によって、数十万から1000万人に及ぶ一般大衆が生命を失い、さらに一億に及ぶ人々が何らかの犠牲を余儀なくされた。新たな文化の創出どころか、中国の多くの貴重な文化的遺産が破壊され、極度の政治的・社会的混乱と経済的停滞がもたらされていったのである。
だが、ここまでは公式に語られる表向きの、歴史上の「年」や「事項」、そして「数字」として理解された、誰でもが知っている文革の基礎知識にすぎない。これまで日本では、「中国プロレタリア文化大革命資料集成」(東方書店、1970年)や加々美光行『資料中国文化大革命』(りくえつ、1980年)など、数多くの第一次資料が出版され、中国では李松晨,唐合俭,杜述勝「文革檔案――1966~76』(当代中国出版社、1999年)が、香港でも宋永毅、丁抒らによる『中国文化大革命文庫』(香港中文大学中国研究服務中心出版、2002年)などが編纂されている。一般研究書としても、矢吹晋『文化大革命」(講談社現代新書、1989年)、安藤正士・辻康吾・太田勝洪『文化大革命と現代中国』(岩波新書、1986年)、厳家棋・高皋(辻康吾訳)『文化大革命十年史(上・下)」(岩波現代文庫、1999年)、福島愛子『文化大革命の記憶と忘却』(新曜社、2014年)などがある。また楊海英『墓標なき草原』(岩波書店、2009年)、リンチン『現代中国の民族政策と民族問題――辺境としての内モンゴル』(集広舎、2015年)、ボヤント『内モンゴルから見た中国民族政策―ホルチン左翼後旗の「民族自治」』(集広舎、2015年)などによって、内モンゴル自治区における文革の実態が詳しく紹介されつつある。チベットにおける文革の実態についても、ツェリン・オーセル(藤野彰、劉燕子訳)『殺劫――チベットの文化大革命』(集広舎、2009年) が出ており、これら少数民族自治区における文革の赤裸々な実態が明らかにされつつある。さらに文革50周年の節目に当たり、王友琴・小林一美・安藤正士・安藤久美子『文化大革命「受難者伝」と文革大年表』(集広舎、2017年)が出て、岩波書店『思想』も「特集――過ぎ去らぬ文化大革命」(2016年1月)を組んでいる。
たしかに、これらはいずれも、文革をめぐる歴史事項や数字として理解された事実を、その実相にまで肉薄し、かつその枝葉末節にまで掘り下げた実証研究の蓄積である。だが、逆にいえば、それらに対する「価値判断」をその具体的政治過程への内在的沈潜を通して下そうとする研究はこれまでほとんど見られない。しかしながら、もともと「事実と価値判断」とは、切っても切れない関係にあり、これら一つひとつの活字にされた事件や数字、事項の背後に、じつは目も覆いたくなるような事実、巨大な数に及ぶ人びとの悲劇、そしてさまざまな流血の惨事が隠されているのである。ここである事件についての情報が恣意的に公開され、ある情報が厳しく統制されているのだとすれば、そのこと自体、本来的に高度な政治性を伴う「価値判断」によって操作されていることになる。それにもかかわらず、これまで中国研究の分野では、あたかも「価値中立性」や学術的「客観性」なるものを装うケースが大半であり、この問題性そのものが政治学の分析・研究対象にすらならなかった。それゆえに本稿は、こうした歴史的事実の発掘による実証研究の一つの新たな成果を重ねようとするものではない。むしろこれら先行研究のうちでも、岩波『思想』に掲げられたタイトルの一部を借用し、「なぜ文化大革命は過ぎ去らないのか」について、日本の「進歩的」中国研究者への違和感を含めて、あえて「価値的に」問うこととする。
1.これまでの文化大革命研究とその問題性
1977年7月、四人組の粉砕によって文化大革命の終結を正式に宣言したことをうけて、いわゆる林彪・四人組裁判は1981年1月、四人組と林彪グループに対し、執行猶予付きの死刑から懲役刑の判決を下した。1978年以降、文化大革命中に反革命で有罪とされた人々に対する名誉回復(平反)の審査が行われたが、それは文化大革命以前の反右派闘争にもさかのぼって進められたため、長い年月を要した。このことは、文革関連の問題が少なくも直近では50年代後半にまで遡ることを意味している。その結果、1989年までに300万人の名誉回復が行われるにいたる。第11期6中全会(1981年6月)で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったことが公式に確認された。だが、毛沢東については、「七分の功、三分の過ち」という当時の鄧小平の言葉が一般的評価として定着し、現在でもそれが党の見解だとされている。いいかえれば、文革そのものが完全に誤りであったことを党=国家側が仮に認めたとしても、いまだに文革が過去のものになっていない理由の一つとしては、あきらかに毛沢東の「結果責任」に対するこのあいまいな政治的評価が挙げられる。
だが問題は、中国国内だけに限られるのではなく、その政治的かつ社会的運動が、日本を含む周辺国、さらに世界のさまざまな国へと与えた影響にまで及んでいることである。たとえば、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配下で、自国民の虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンボジア)は、文革中から中華人民共和国の親密な友好勢力であり続けたし、毛沢東もこれを支援していたことからも、文革とポル・ポトによる大量虐殺との関連性がしばしば指摘されている。実際、王友琴によれば、文革のさなかに張春橋はカンボジアを訪問し、ポル・ポトと抱擁し、その「偉大な」革命の成就を讃えつつ、「中国では成し遂げられなかった」と語っているが、当時はその訪問自体、中国ではまったく報道されていなかった2。日本でも当時、毛沢東思想が新左翼の一部で広く流布していたが、そのなかでも、あさま山荘事件を起こした連合赤軍は、毛沢東思想にきわめて大きな影響を受けていたとされる。
ところが、文革と新左翼運動の思想と行動との親和的関係性をめぐる研究は、今日においても十分に行われているとはいいがたく、その問題性も根源的にはほとんど明らかにされていない。とくにこの集団的狂気とも呼べるような暴力の正当化は、いったいいかなる歴史・社会・政治・経済・文化、そして思想の構造、条件の下で行われ、さらにそれらがいかなるプロセスで全面的に展開していったのか。これらの解明は、中国国内においていまだに半ばタブー扱いされているだけでなく、日本においてもほぼ手つかずの状態にある。おそらくその理由の一つは、この作業にはつねに一定の政治的「価値判断」が伴い、しかもそれにあたる研究者自らが依って立つ政治性に対する判断力と、そのことによって帰結する「結果責任」が、ともに広く社会的に問われるという高いリスクを背負わなければならないためであろう。
2.最新の文化大革命研究が問うているもの
「事実と価値判断」が本来的に分かちがたく結びついているのだとすれば、新たに発見された歴史的事実が新たな歴史的価値判断を喚起することは十分にあり得ることである。そもそも、社会科学におけるパラダイム転換とは、そのような「事実」と「価値判断」とのズレ(矛盾)が起動力となる運動のプロセスにおいて、これまでも歴史的に繰り返されてきたことである。とりわけ近年に見られる文革期の武装闘争、集団的殺戮などに対する一次資料開拓の急速な進展は、旧来の文革像に対して大きなインパクトを与え、それへの少なからぬ修正を迫るものであると同時に、新たな反省や省察、あるいは歴史的かつ根源的「価値判断」を惹起するものとなっている。
こうした意味での、文革期におけるさまざまな武装闘争をめぐる新たな事実の発掘については、近年、とりわけ宋永毅(カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授)が精力的に取り組んでいる。それは文革研究において新たな局面を築きつつあると同時に、いずれもこれまでの文革への研究姿勢そのものへの深い反省を迫る中身である。宋によれば、1986年から1988年までの間に、広西自治区党委員会の「整党領導小組」の資料、および当該辮公室が編纂した『広西文革大事件』と『広西文革大事記』を合わせて、全18冊が『広西「文革」檔案資料』として編纂されている。このうち、広西の党委員会組織は10万人の人員と4年をかけて「文革遺留問題」の処理にあたってきた。この資料は文革後、胡耀邦や習仲勲といった中国共産党中央の改革派の指導者が相次いで一つの調査グループを派遣し、さらに李鋭や周一鋒といった中央規律検査委員会、中央組織部、公安部における開明派の幹部が責任者となり、または直接リーダーとなって広西に赴いておこなった調査に基づいている。党委員会が作成した報告書(「広西文革檔案資料」)によると、広西では文革期に約20万の冤罪、約8万9000人の不正常な死、行方不明2万人、名前不明の死者3万人以上、少なくとも15万人が虐殺され、民間の調査では20万人以上が殺害された。しかも、このなかには、殺害後に心臓・肝臓を摘出、食人が横行するという凄惨なケースが含まれている。さらに食人以外にも、軍の師団が組織的に民衆に対して殺戮を行ったり、女性に対する性暴力が行われたことも報告されている3。
この報告書に基づいて宋永毅を中心にして編纂された『広西文革機密檔案資料』(国史出版社、2016年)によると、中国の一つの自治区で約9~15万人が一回の政治運動で不正常な死を遂げたことが分かっている。しかも、これらの被害者の中では、僅か3000人余りが自ら志願して参加した「武闘」で命を落としたに過ぎない。残りの約9~15万の被害者は、いわゆる「武闘」ではなく、指導者が計画的に行った「虐殺」の中で、個別的または集団的に殺害されたのである4。
これらの資料によれば、いわゆる「不正常な死」の数字の背後にあるのは、広西の最高指導者がほのめかし、各クラスの政府が組織し、軍人・武装民兵および数多くの党・団の積極分子が実施した、いわゆる「階級敵」を対象とする血生臭い大虐殺である。国家の暴力装置は、その過程において、被害者が暗殺または反乱を企んでいるといった種々のデマを撒き散らし、「貧下中農最高法廷」のような法外の暴力機構を組織し、意図的に「無政府」の状態を作り出して、虐殺を行った。6万人近くにも及ぶ「四類分子」とその子女が被害者全体の半数以上を占めており、「不正常な死」の総数の56%に達していた。さらに驚くべきことに、広西で高度に組織化された大虐殺には、人肉食の風潮が現れるという、非組織的で極悪非道な副産物も伴っていた。少なくとも302人が国家の暴力装置の代表である軍人・武装民兵、および数多くの党・団の積極分子によって、心臓・肝臓等が切り出されている。しかも、凶手の真の動機はけっして「階級敵」に対する憎しみではなく、体の滋養強壮と寿命の延長にあった。もう一つは大量の強姦、輪姦、性傷害と性虐殺事件の発生である。1967年末から1968年秋までの1年足らずの間に、夫を殺して妻を奪い、父を殺して娘を奪い、女性・財産・生命を奪うという連鎖が、広西の農村地域でほぼ常態化していた。しかも、宋の見るところ、これらの蛮行は階級敵に対する憎しみから説明できるものでなければ、加害者の動機はけっして美しい「革命」の理想でもなく、赤裸々な姦淫略奪の強欲によるものなのである5。
3.「土地革命」にまで遡る文化大革命とその意味合い
こうした凄惨な現実は、文革時に初めて現れたものではなく、じつはその原型は建国初期に発動した最初の政治運動、すなわち、暴力的な上地改革と反革命に対する血生臭い弾圧に遡る。当時、地主・富農とその他の「四類分子」に対する一方的な略奪と惨殺、彼らの妻女に対する強姦、輪姦および暴力による占有は、いずれも広西ばかりではなく、相当な程度において全国的に発生していた。しかも、これらの行為は完全に「合法」だと一般的に考えられていたということが重要である。宋は文革がたんに、これらの軍人・武装民兵および数多くの党・団といった積極分子にもう一度財産と女性を再分配する機会を提供しただけだという。「言い換えれば、これらの極悪非道な副産物は、文革前の17年間の中共の政策と実践の結果または延長に過ぎず、「中国的特色」という悪の華の結晶である。それまでの政治運動の慣例に従うと、それが合法なだけではなく、合理的でさえある。ただ、その現れ方が少々集中的かつ誇張的であったに過ぎない」6。文革中に終始屹立してけっして倒れなかった韋国清と彼を支持してきた広西の国家の暴力装置は、まさに文革前の17年間と文革中の10年間における、一般市民に対する迫害と殺戮の象徴であった。すなわちそれは、毛沢東という「上から」の至上の権力の下で、この中国農村共同体での異様なる専制的支配構造が、軍を統括するたった一人の広西王、韋国清を頂点に、粛清という恐怖を統治原理として、農民からの正当性を「下から」調達しつつ、「合法的」かつ「合理的に」築き上げられていたということである。
4.広西大虐殺と韋国清による専制支配の実態
広西大虐殺に「中国的特色」があるとすれば、それは「階級絶滅」という言葉に象徴される粛清運動である。文革中全国各地の大衆が一般的に大きく二つの集団に分かれていたように、広西においても自治区ナンバーワンの韋国清を打倒するかどうかをめぐって、二つの政治グループに分かれていた。打倒韋国清を主張する「四・二二」派(広西四・二二革命行動指揮部)は、庶民の造反派であって、基本的な構成員は若い学生、市民、産業労働者、下層の知識人および少数の幹部であり、人数的には少数派であって、軍隊による支持も獲得していない7。一方、韋国清を支持する「聯指」派(無産階級造反派聯合指揮部)は、人数的には多数派である。基本的な構成員は党・団(共産党と青年団)の中堅メンバーと武装民兵である。しかも軍隊、すなわち広西軍区と各地の武装部がその後ろ盾となっていた。両派が1967年4月に形成されて以降、小規模な武闘(武力闘争)を繰り返し人員の死傷を招いた。ところが、大規模な不正常死は1967年末から1968年7月までの間に、ここでも主に農村地域を中心に起きている。通常、死亡者は両派による武闘の積極的な参加者のはずであるが、機密檔案の資料は予想外の真実を突き付けることで「歴史の錯覚」を正している8。すなわち、「文革」の10年間、広西における殺人の多くは国家・政府機関の指導者の指揮の下で計画的に行われ、しかも殺人の多くは武闘ではない状況下で個別的、かつ集団的に行われたのである。宋によれば、その特徴として以下の3点が認められる。
第一に、それは完全に政府によって意図的に作り出された無政府状態であったことである。一般的に大虐殺の発生は、造反運動が政府機関を機能停止させたため、悪者がそれを機に動乱を起こしたと考えられがちであるが、実際の状況は全くその逆であった。なぜなら文革中、打倒または異動されなかった省クラスの党委員会第一書記・軍区第一政治委員は、韋国清ただ一人であったからである。韋を断固として守ろうとした「聯指」派は主に彼が代表している国家政権の基本的な構成要素、すなわち軍隊、警察(軍事管制されている)、民兵、基層の権力者、特に農村の幹部によって構成されている。それに対して、広西の造反派は、1966年末から1967年初めまでの全盛期においても、権力を掌握したことはなかった。そして、軍隊が「三支両軍」をすべきだという最高指示が下されると、1967年2月から4月までの間に、広西軍区と各県の武装部が警察・検察・裁判所を軍事管制下に置いただけではなく、省・市・県の三つのクラスで現役軍人をトップとする「革命に取り組み生産を促進する指揮部」を設立し、革命委員会が成立する前の実際の権力機構となった。言い換えれば、文革中の広西には「権力の真空期」が一度も存在せず、それによって無政府的な大虐殺が引き起こされる可能性もなかったということになる9。
第二に、それは大虐殺における加害者集団の高度な組織化と被害者集団の「高度な被組織化」であったことである。とりわけ、これらの「組織化」と殺戮の手法は、ナチスドイツによるホロコーストやスターリンによる大粛清にも見られない性格のものである。宋の見るところ、それは文革前の17年間の政治運動からその痕跡と法的根拠を見出すことができる。大虐殺が発生する前、「体制内」の画策者は皆、熱心に「体制外」の加害者組織の形成に力を注いでいた。たとえば、いわゆる「貧下中農最高法廷」、「貧下中農反革命鎮圧委員会」、「貧下中農聯合指揮部」、「社隊聯合横掃牛鬼蛇神指揮部」(公社と大隊が連合して牛鬼蛇神を一掃する指揮部)、「衛革指揮部」(革命を守る指揮部)、「保衛赤色政権指揮部」といった組織を作り出し、直接殺人の担い手とした。これまでのところ、中共の機密檔案はこれらの組織を「違法組織」と称しているが、党=国家側が一貫して提唱してきた「大衆独裁」の中では、これらの組織の名前は人々が聞きなれているものであって、建国以来の各種政治運動においてもすべて「合法的」組織であった。1950年代初めに起きた大規模な「暴力的土地改革」と「反革命鎮圧運動」において、中国の農村地域で少なくとも数百万人の地主・富農または歴史的な反革命分子が虐殺されている。直接の殺戮者となったのは、さまざまな「人民法廷」と「貧下中農委員会」であった。加害者が被害者に対して、まず「殺人現場会議」または「公判大会」を開き、つるし上げてから判決を下し、最後に野蛮な私刑で殺害するというやり方も、土地改革で地主を殺す際のプロセスのコピーであったという10。
しかも、大虐殺の発生においてもっとも重要なのは、被害者が真の「黒五類」であるかどうかではなく、彼らが「赤色政権」の反対派であるかどうかであり、加害者は罪をでっちあげて、他人を恣意的に特定の「反革命組織」の中に「組織化」することができたという点である。宋によれば、無実の民衆に「四類分子」のレッテルを貼ってから殺害するというやり方の背後には、文革前の政治運動における単純な「法的正統性の論理」が隠されている。すなわち、「四類分子」は階級敵であって、革命によって消滅すべき対象であったから、これらの人々がその一員に「組織」された以上、彼らを殺すことは「合理的」、かつ「合法的」であったことになる。したがって、その現れ方が少々集中的かつ誇張的であったかもしれないだけで、文革中の大虐殺は、文革前の17年間の政治運動における殺戮の一種の延長に過ぎなかったということである11。
第三に、それは虐殺の目的が生命を絶つことではなく、殺戮における官能的・心理的快感の享受にあったことである。その非人道性と非正義性とは、『広西文革機密檔案資料』はきわめて詳細に加害者の驚くべ残虐さについて記載している。その方法は、叩き殺す、溺死、銃殺、刺し殺す、切り殺す、引きずり殺す、生きたまま肉を切り取る、打ち殺す、首吊りを強要する、追い囲んで殺害する、腹を切り裂いて肝臓を切り取るなど、数十種類にも及んでいる。また政治迫害における拷問の手段として、綱引き(被害者の腰に縄を結び、両側から引っ張る)、銃殺を装って脅迫、生き埋めを装って脅迫、犬の糞を食べさせる、下半身を裸にして街中に引き回す、街中に引き回しながらつるし上げる、吊り上げて物を投げつける、手錠・足枷・木製の枷によって足を固定し、醜く化粧して街中に引き回すなど、百種類以上が挙げられる。宋によれば、加害者はできるだけ早く被害者の命を奪いたいわけではけっしてなく、むしろ拷問と殺害の過程で獣的な快感を十分享受したいという欲求に満ちていたことは明白であった12。
宋の研究によってさらに明らかにされたのは、加害者にこのような官能的・心理的快感が生まれたのが、中共が長い間にイデオロギーの中で「階級敵」を「非人間化」してきたことと関連しているという事実である。すなわち、彼らはもともと人間ではなく、排除しなければならない「臭い犬の糞」、「蛆虫」だった。だが、韋国清を代表とする「赤色政権」による「黒五類」と反対派の民衆に対する迫害と殺戮は、最低限の「人倫の道」すら大きく踏み外していく。たとえば、殺人犯たちは息子に自分たちの目の前で父親を殺すよう強要した。むやみな暴行、殺人が横行している中、1968年6月2日、永福県堡里大隊革命委員会が開いた大衆つるし上げ大会において、黄広栄をつるし上げて打ち殺した後、その息子黄明新に父親の頭を包丁で切り落として墓に供えるよう強要し、その後、黄明新をも打ち殺すという惨劇が起きた。また、加害者は往々にして「生きること」を餌に、一部の「四類分子」をその他の同類を殺すよう仕向けて、その後、すぐ約束を破って彼らをも殺してしまった。これと似たような状況はほかにもあり、宜山県北牙公社保良大隊の農民章瑞年が銃殺された後、頭が切り落とされて、加害者がその妻に無理やり夫の頭を持たせて街中に引き回している13。
第四に、虐殺が往々にして「根こそぎ」、一族全員死に絶えさせるような形で行われたことである。しかも、この残忍さの背後には、往々にして財産を奪うという卑劣で醜悪な動機が隠されている。虐殺は被害者にとって、いうまでもなく最大の悲劇であるが、加害者にとっては、踊りたくなるような大喜劇の始まりである14。それはあたかも、魯迅の描いた阿Qが、自分が殺される以前にはひどく興奮して人が殺されるのを見ていたのと同じことである。当時、多くの人々は魯迅が描いた阿Qのように生きており、大喜びで「公判大会」に参加し、他人が銃殺されるのを「面白い芝居」として見物していた15。なぜなら、彼らは魯迅がいう「暴君の臣民」であり、少しでも自分よりも虐げられている者、弱い者があれば、暴君以上に暴虐、残忍になるという、いわば「前近代的」、あるいは「啓蒙以前」的存在だからである(「諺語」、1933年)。ヘーゲルが『精神現象学』で描いた「主人と奴隷の弁証法」のように、もともと専制者の対概念とみなされているのは奴隷であり、奴隷と奴隷の主人が同じであるからこそ、残酷を娯楽とし、他人の苦しみを賞玩物とし、慰安とすることができたのである。だが、「暴君の臣民」は、逆にその情況によって与えられた権勢をいったん失うと、たちまちまた元の奴隷の権化にもどってしまうことはいうまでもない16。
5.「前近代的」性格としての農民による殺戮
これらの檔案には以下のような絶えず繰り返されたモデルが記されている。すなわち、それは「根こそぎ」的な殺戮の血の跡が乾く前に、加害者はすでに被害者の財産を分けるクライマックスに突入していたことである。被害者の家庭が所有していた鶏・鴨・豚・羊と限られた食料は、派手な飲み食いをする宴会の中で湯水のように使われた。たとえば、1968年8月18日、大新県桃城区松洞公社党支部書記趙福とその手下趙健強らが梁超文、梁超武、梁超廷の兄弟3人とその父親梁基安を惨殺したのち、複数の人を集めて、梁家の鶏6羽、鴨5羽、ガチョウ2羽を奪い、その日の夜に宴会を開いた。さらに、梁家のもみ180斤、人民元26元、豚一頭(総重量80斤)、布12尺、木の板4枚をも奪ったため、梁基安一家は人命も財産も失われた17。
また、1967年11月29日、鍾山県石龍区松桂小郷塞義頭生産隊の女性社員皺清華と息子潘恵興がいわゆる家庭の出身が悪くて、親族の中に台湾に行った人がいるという理由で、「外国に内通している」、「暗殺団」に参加しているといった無実の罪を着せられて、同じ穴に生き埋められて殺害された。この虐殺事件を画策するとき、貧農協会主任の潘煥益が繰り返し被害者の財産を餌に、二つのグループの殺人犯による競争をけしかけた。皺清華親子を生き埋めにした次の日、潘連照、潘義信が民兵である潘義洪、潘火興、潘培興、潘聚興らを連れて、潘恵興の家に赴き、その場で千斤余りのもみ、スギ材25本、現金70元、鶏20数羽、新しい蚊帳一張、綿入れの服一着、新しい布団一床を没収した。没収された家財は鶏を除いて全部競りにかけられた。競争によって得られたお金で、大きい豚一頭を購入し、学校のグラウンドでは十数卓の宴席が開かれた。村の民衆のほかに、小郷の幹部である潘官栄、潘進興、潘瑞喜、および羅ト江、大岩口、獅子頭、松桂、老虎尾という近隣の5つの村落の代表を招待して、110人余りの規模で会食を行い、いわゆる殺人の「祝賀の宴」を開いている18。こうした一連の悲惨な殺害事案をつぶさに観察したうえで、宋は次のように述べている。
「ここまで読むと、「謀財害命」(財物を奪うために人を殺す)という言葉が自然と頭に浮かぶのではないだろうか。また、50年代初期に起きた暴力的な土地改革においても、一番多くの死者を出したのは地主から「家財を取り立てる」運動であったことを連想する人もいるだろう。確かに、中国の農村で起きたこれらの暴力において、加害者はほとんどが中国農村の「農民」またはゴロツキである。その教育レベルは往々にして文盲または半文盲である。彼らに中共の階級闘争の理論を完全に理解してもらうのは困難であるし、まして毛沢東のいわゆる「プロレタリア独裁下の継続革命理論」を理解してもらうのは非現実的である。ナチスによるホロコーストとスターリンによる大粛清において、種族と階級理論が主な動機であったのに対して、中国農村のゴロツキにとって、イデオロギーは利用できる単なる看板と言い訳に過ぎない。もっともらしい革命のスローガンの背後には、非常に現実的な「謀財害命」という殺人動機が潜んでいる。そして、一家全員を殺害するというやり方は彼らに最も早く、最も便利に他人の財産をすべて占有する近道を提供した。彼らが両手を挙げてこの革命の饗宴(人を食う宴席)を擁護しないはずはないだろう。真相は人を激怒させるものであると同時に、非常に鮮明な「中国的特色」を有している」19。
このようなあからさまな表現で宋が指摘しているのは、「近代的」ナチスにも、「半近代的(半アジア的)」ロシアにも見られなかった、「ゴロツキ」と呼ぶにふさわしい、無知蒙昧たる広範な農民による「前近代的」非合理性の噴出である。この「事実」に対していかなる「価値判断」を下すのかということこそが、文化大革命の本質的局面を決定し、その意味を理解するもっとも重要なポイントとなる。かつて魯迅が「前近代的」なものの象徴としての阿Qという人物によって「封建社会」を描いたように、いわば「ゴロツキ」としての農民が文革の主人公となり、しかもその「狂人日記」で描かれた人肉食という、およそ人間のものとは思えぬ倒錯した極限的欲望によって支配される状況が、小説というフィクションの世界ではなく、20世紀の現実の中国社会に現れたことはまぎれもない事実なのである。
6.「反右派闘争」に遡る文化大革命とその実態
宋永毅と同じように、文革の受難者に対する調査によって、その被害の実態について明らかにしたのが、王友琴(シカゴ大学所属)である。王は当時の学生教師を4分の1世紀の長きにわたり訪問し、引き取り調査を行ったが、その数は1000人にものぼった。受難者の中学校・小学校など、調査した学校は200か所にのぼり、地域は北京、上海、天津、江蘇、陜西、新疆など、25の省、市、区に及んでいる。この調査によって王は、659人の伝記を書きあげている20。
そのうちの一人である顧文選(北京大学ヨーロッパ語学部英語専攻)は1957年、「右派分子」とされ、懲役5年の刑に処せられた。「一打三反運動」で1970年、「反革命犯罪」が出され、同年3月5日、36歳の若さで銃殺刑に処せられている。顧文選は1957年、北京大学のある学生雑誌に「私の遭遇」という表題の文章を発表したことによって右派分子にされ、それ以後の一連の災厄により、ついに死にいたった21。しかし、きわめて断片的な資料を通してこの人物について調べた王友琴によれば、顧が遭遇した運命はけっして彼ひとりのものではない。顧が処刑された時期とは、文革中でも国家機関がすぐ人を逮捕し、判決を下し、銃殺することがもっとも多かった、いわゆる「打撃反革命運動」(反革命に打撃を与える運動)の高潮期にあたるがゆえに、それはごく一般的事例の一つの象徴であるにすぎない。文革中、「反革命罪」で死刑判決が下されれば、「即時執行」されるのが常であったが、その主な問題は、死刑執行の時間が早すぎるだけでなく、形式的な上訴権さえ認められないということであった。顧の生前のわずかな姿の輪郭が、じつは1950年代から70年代にかけての一連の膨大な数に及ぶ無名の人々の悲劇的事件と緊密に結びついている。つまりそれは、毛沢東が発動した3回の「政治運動」、すなわち「粛清反革命運動」、「反右派闘争」、そして「文化大革命」こそが、顧文選をはじめとする多くの無辜なる人々の運命を決定しているということなのである22。
たとえば、「粛反運動」という名の粛清運動を指導した主要な文献の一つに、「党中央十人小組による、反革命分子とその他の破壊分子に関する解釈と彼らに対する処理の暫定規定」(1956年3月10日)なるものがある。この「規定」の中には、全ての「反革命分子」として類別できる条文があるが、その一つの条例は、「品性が極端に劣悪な堕落変質分子。この種の人は全体の約5パーセントの悪人の中に計算しない、幹部審査の範囲内に入れて処理する」としている。この規定は、各単位の打撃対象は5パーセントがノルマであることを側面から証明している。当時、各単位にはどこでも「五人小組」が編成され、それが「粛反」を指導したが、誰もが5パーセントの打撃対象を集めなければならなかったのである。したがって、各人が懸命に他人を脅かし、恐れさせて、決められた5パーセントの「反革命分子」をつかみ出していった。しかも、ここには「上部機関」の圧力があり、さらにまた各単位(職場)の中には、この機会を利用して積極的に粛清に参加し、手柄を立てようとする人さえいたという23。
だが、さらに注目すべきなのは、1955年に行われた「粛反運動」の前に、すでに「鎮圧反革命運動」なる政治運動があったことである。政府公文書の資料には、1950年12月から52年までの間に、「各種反革命分子として27万人は拘禁し、23万人は禁鋼刑にし、71万人は処刑した」とある24。毛沢東は廬山会議の席上で100万人を殺したと述べたといわれるが、「鎮反運動」での殺人も、比例定数によって実行していたにすぎない。『当代中国重大事件実録』には、「1951年5月10~16日、第三次全国公安会議が北京で開催された。会議は、公安部長の羅瑞卿と毛主席の指示で、同月15日、『第三次全国公安会議決議』を行い、党中央の批准を経て、各中央局と省・市・区の党委員会に通達した」との記述がある25。
この「公安会議決議」によると、各地の反党分子を殺す数字は、必ず一定の比率内に収めねばならず、「農村では一般に人工の1000分の1を超えてはならない。都市部では1000分の0.5が適当である。党・政・軍および文教・工商・宗教・各民主党派や各人民団体内部から詳しい検査によって出されてきた。当然死刑にすべき反革命分子については、一般にはその中の10分の1か2を処刑するのが原則である」26。これがまったく本来的に「合法」であったのも、すでに最高権力者のお墨付きがあったからである。だが、のちに『毛沢東選集(第5巻)』の40頁に収録される際、「農村では一般に人口の1000分の1を超えてはならない。都市では1000分の0.5がよい」という部分が削除されている。これは25年後に『毛沢東選集』に当該文章を掲載するにあたって、当時の毛のやり方が殺気や邪気に満ちていたことが外部に漏れるのを怖れて、上記の殺人比率の部分だけを削除したものである。大国中国の規模では、人口の1000分の1、あるいは1000分の0.5といえども、いうまでもなく巨大な数字である。これほど多くの「反革命分子」を監禁したのち、またも全人民的「粛清反革命運動」をやらねばならなかったのだとすれば、それは「反革命分子の定義」を拡大する他に、当然にも大量の証拠物件を審査する人と、彼らに各種の圧力をかける人員が必要となったためである27。
初出:(愛知大学現代中国学会編『中国21』、Vol.48, 2013年3月から転載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study997:181031〕
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