なぜ文化大革命は過ぎ去らないのか――日本の「進歩的」中国研究者の「結果責任」を問う(その2 )
- 2018年 11月 1日
- スタディルーム
- 石井知章
- 1. 明治大学現代中国研究所・石井知章・鈴木賢編『文化大革命――<造反有理>の現代的地平』(白水社、2017年)、35頁。
- 高橋勇治・米沢秀夫編『文化大革命と毛沢東思想』(日中出版、1973年)、40頁。
- 加々美光行『歴史としての文化大革命』(岩波書店、2001年)、168頁。
- ここでさらなる歴史的省察を進めれば、こうした「前近代的」非合理性表出の起源とは、これまでの中国史のいったいどこまで遡るのかというごく自然な疑問にたどりつく。明治大学での講演(2016年10月)で徐友漁は、西太后が義和団を操縦したやり方と毛沢東が紅衛兵を使ったやり方は似ているとしたシモン・レイ(『毛沢東の新しい制服』現代思潮社、1973年)に触れながら、「毛沢東がみずからの統治下で生じた民衆の不満を政敵の責任として相手側になすりつけた」と指摘した。だが、これに対して矢吹晋は、「これは西側の人々にとっては分かりやすい説明ではあるが、当時大陸を追われて香港に逃れたカトリック神父のシニカルな観察であり、その例示により説明することに違和感を感ずる」としている(前掲『文化大革命――<造反有理>の現代的地平』、116頁)。ここに見られるのも、加々美の中国認識とほぼ同質の、西側の価値観を中国に押し付けていると主張する、いわば「反近代主義」的立場である。さらに徐友漁が、文革とは「理想社会を実現するというスローガンを掲げつつ、結果的には専制政治を強化した政治運動」であり、「理想社会づくりという「羊頭」を看板に掲げて、実際は「狗肉」を売るものだった」と指摘したのに対しても、矢吹は「専制政治の強化という一つの帰結から文革を総括するのは、一面的な評価であって、むしろ理念が実現できなかったからこそ、専制政治が行われたのだ」と反論している(同、118-119頁)。しかしながら、もし毛沢東に投企されたこうした自らの「理念」が文革の悲劇を多かれ少なかれ招来したのだとすれば、本来やるべきことは、まずは自らの「結果責任」を認めたうえで、この「理念」そのものの省察をはじめることではないのか。その作業を抜きにして、過去の「理念」をそのまま無反省に正当化するというのは、「心情倫理」によって「責任倫理」そのものを拒否しようとする、社会科学者としてあるまじき研究姿勢であるといわざるを得ない。
7.文化大革命における知識人と「ゴロツキ」の役割
こうした中国の知識人に対する数々の政治的迫害・抑圧について研究してきた斐毅然(元浙江財経大学教授)は、中国が克服すべき「社会的基礎」として、ソ連で行われたスターリンの大粛清と中国の文化大革命がともに政権奪取後の20年近くで爆発したという共通性について指摘している。斐の見るところ、この「相似性」が生まれた政治的本質は、どちらも「民主制の保障がない革命的専制制度」にある。なぜなら、「この制度は異質なものを受け入れる寛容度がはなはだ低く、ただ封建的な既存の型に立ち戻ることができるだけ」だからである28。階級闘争は、自分と異なる思想をちょうど都合よく刈り取り、取り除く道具となった。知識人は、その独立性を持った価値を追求するという傾向によって、必然的に粛清を受けるにいたる。たとえば、それは東ヨーロッパ諸国と朝鮮、ベトナム、カンボジア等々の共産主義政権が、等しく知識分子を敵対勢力と見なしたことにも示されている。毛沢東が文化大革命を発動した真意は、劉少奇を打倒することにあった。
だが、このような政治的策略の発動をあからさまにやることは、事実上不可能であった。まずは周りを囲んで劉を浮きださせ、証拠を得る必要があったのである。最大のカギは、明確な「革命対象」を明らかにすることであり、こうしてはじめて「継続革命」の必要性を示すことができた。文化(教養)の普及度の低い中国では、剣で知識人を指し示せば、たやすく民衆を政治運動に動員できる。実際、毛沢東は、「われわれには大学教授、中学高校教員、小学校教員などというものはいらない。それらは全部国民党のものであり、つまり彼らはそれで統治していたのだ。文化大革命は、この彼らから始めるのだ」と明言している29。毛沢東は反右派闘争ですでに党外人士を屈服させていたが、今度は党内人士を倒さなければならなかった。こうして北京市党委員会にいた「三家村」(鄧拓・ 呉晗・廖沫沙)は、最初の犠牲に捧げられる子羊となったのである30。
斐毅然によれば、そもそも文革期において知識人とは、標準的な政治賎民としての「臭老九」であった。毎日閉じ込められている場所も、皆扉を開けて、「革命的人民」がいつでも入って来て、監督し、検査し、訓示を与えやすくしておかなければならない。また彼らが、部屋を出入りする際には、毎回、治安委員に正式に報告しなければならなかった。では、いったいなぜここまで知識を蔑むイデオロギーが現実にまかり通ったのか。それは「人民専制」(プロレタリアートの階級独裁)という支配の正当性が、すべて知識が少ないという「前近代的」、あるいは「前啓蒙的」状況の継続に頼っていたからである。吊るしあげる側にとって、「反動派」はみな知識が多かったから、知識人の代名詞は「学問がある馬鹿野郎」でなければならず、労働改造隊の中での地位としてもさらに低く、コソ泥や「ゴロツキ」からも「糞食い分子」扱いされざるを得なかったのである。目にするのも、耳にするのも不快極まりない彼らによるあからさまな過去の暴力に対して、一部の人々は、むしろこれらの事実に触ること自体、その否定的記憶を呼び起こし、社会的混乱をもたらすだけだと主張しはじめた。それに対して斐毅然は次のように憤る。
「ある人は、文革が永遠に体験者の記憶の中に埋葬されることを希望し、また知識分子がもっと度量を大きくすることを希望して次のように言う。「もうあの文革の古傷を書きたてるべきではない――過ぎ去ったものは、過ぎ去るにまかせよ」と。聞くところによれば、これはやはり中華民族が再興するのに必要な「金言であり、良言である」ということだ。しかし、今、知識人はそんなにお人好しではない。彼らは集団として言う、「ダメだ」と。古い世代の知識人が大方世を去っても、また彼らの訴えがさまざまな封殺にあったとしても、彼らはやはり「集団記憶」を留めている。時間の経過とは対照的に、歴史はまだ文革の荒唐無稽さを更に強烈に浮き上がらせるのだ」31。
このように、良かれと思って過去の否定的事実を隠蔽する側に立つ人々も、これを公開して歴史的教訓とすべきとする側にある人々も、いずれもポスト文革期における知識人の主体的態度決定であることに何ら変わりはない。したがって、新たな歴史的「事実」の掘り起こしは、こうした意見の対立の中で、否が応でも逆説的に「集団的記憶」を呼び起こし、新たな「反省」や「価値判断」に導くことにならざるを得ないということになる。
8.日本における「進歩的」中国研究者の問題性
文化大革命や毛沢東思想は果たして「近代的」だったのか、それとも「前近代的」だったのかをめぐっては、いまでも論争の真っただ中にある32。林彪がクーデタを起こす際、毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行う者であり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて秦の始皇帝の法を行う者として告発したように、ここで毛沢東は「封建的」(マルクスのいう「アジア的」)な暴君、つまり「前近代的」政治体制の象徴として現れた。それに対して、クーデタを企てた林彪の立場は「反封建」であり、ここには「近代」と「前近代」、「革新」と「反動」をめぐるネジレ現象があからさまに表出しているといえる。だが、この歪んだロジックは、あたかも「文革の亡霊」のように、いまだに中国を、そして日本と世界を漂っている。
文革当時の日本では、たとえば伊藤敬一(中国文学者)が毛沢東思想を考える切り口として、『文芸講話』(1942年)を取り上げている。伊藤によれば、毛沢東の基調とは、前近代的様相によって、近代的考え方を排除するものであって、中国が近代を経過せず、近代を知らない農民の存在が圧倒的多数だったという背景から、そうしたネジレが生じたのだという。ここで伊藤は「ヨーロッパの近代文化が、資本主義のアジア侵略とともに、上から権威として入ってきた」として、植民地的、あるいは疑似近代的な権力について、それは中国にとっては「反動的」なものだとして、その「反動的」なものに対して民衆が本能的に反感・嫌悪を覚えたのが文革だった、との判断を示している33。したがって伊藤は、こうした「反動的」なものに対して嫌悪感を示すのは、きわめて自然な反応だとして、そこにある「前近代的」社会的基礎を全面的に肯定しているのである。いわく、「「近代」は少数の支配者、少数のエリートのものであり、政治的には反動の側にあると思う。そして権力の圧迫下で民衆が、かたくなにまもり愛してきた「前近代」は、むしろ進歩の側にあり、本質的に民主主義的な場にある」34。ここで伊藤は、「前近代的」なものを土台にして、西欧近代的なものを否定しつつ、しかも否定することが逆に進歩につながる、という毛沢東の論理をそのまま肯定している。こうした屈折したロジックには、いわゆる近代主義者の「近代」は「封建」を内包した「虚偽の近代」であり、開明官僚的人工人為の「近代のカリカチュア」にすぎないとして、復古保守をもっとも斬新な「近代主義」であるとした保田与重郎ら、日本ロマン派のそれを少なからず彷彿させるものがある35。しかも、それが土着的民族主義と農本主義を全面的に肯定している点でも、多かれ少なかれ共通している。
だが、C・シュミットが指摘したように、あらゆるロマン主義とは、深い闇の中で過去と現在、つまり古いものと新しいものとの矛盾のなかで生起するものであり、それゆえにそれは本来的に「自己欺瞞」と「内的虚偽性」を伴うものである36。こうしたあいまいな姿勢こそが、既述のような一連の「前近代的」性格の農民を中心とする内乱がもたらした未曽有の悲劇に対する「結果責任」(M・ウェーバー)を、完全に形骸化してしまうのである。文革とは本来、まさにここで伊藤が述べている「前近代的」なものを基礎にしてはじめて現実化したものなのであって、今現在でもそのエートスは中国社会の土台として根強く残っている。したがって、この現存する「前近代的」基礎を克服しない限り、「文革の亡霊」は何らかの機会にまた現れるということを繰り返さざるを得ない。たとえば重慶事件(2012年)が示すように、仮に部分的にであったとしても、毛沢東主義という名の中国の「伝統」への回帰によって「革新」をもたらそうとする試みとは、文革の際、全面的に復活していった「前近代的」非合理性を、再び呼び起こすことに帰結するだけである。いいかえれば、毛沢東主義という「伝統」への回帰による「近代化」の推進とは、あたかも清末の洋務運動での「中体西用」がことごとく失敗したように、たんに「前近代的」なものへの後退、とりわけこの10年余りの間、「新左派」(新保守派)の拡大とともに復活し、ますますその「伝統」の力を強めてきた「封建専制」という名の「アジア的」専制の再来をもたらすだけなのである37。
9.コミューンをめぐる「前近代」と「超近代」との恣意的混同
こうした「前近代性」の問題が現実として今も存在しているという事実そのものを、今もって頑なに認められないでいる代表的文革研究者の例が、加々美光行である。加々美は文化大革命という「前近代的」非合理性の噴出のなかに、一種の「コミューン革命」を見出しつつ、「近代化革命路線」対「コミューン革命路線」という図式の中で仮にそれが終結しても、国家に対する異議申し立てとしての革命はなお未完として存在し続けるとした38。なぜこうした倒錯した中国認識が可能になるのかといえば、それは何よりも加々美が「前近代的」ゲマインシャフトをいきなり「超近代」(社会主義、共産主義)へと結びつけるという、根本的な認識の誤りを犯しているからである。たとえば、「文革の悲劇の本質」なるものについて、加々美は次のように記している。
「コミューン国家論は、西欧の自由主義段階に現われた夜警国家論と似た要素を持っている。むろんこの国家が保全しようとするのはブルジョア的な「利益社会」ではなく、むしろコミュナルな「共同体社会」である。しかしながらこの「共同体社会」の敵は、「利益社会」の敵がそうであるのと全く同じように、この社会の外に存在するのではなく、この社会の内に存在し、もっといえば隣人同士が互いを敵であるかもしれないとみる相互不信の状況下に敵は存在する。そして本来相互扶助を原則とするはずの「共同体社会」がかえって相互不信の状況下にあるということこそ、文化大革命下の現代中国がみせた最大の逆説であった」39。
相互扶助を原則とするはずの「共同体社会」が、かえって相互不信の状況下にあるというのは、発想の前提そのものがまったく転倒している。人格を含むあらゆる所有関係(property)が共同体に埋没している「前近代的」ゲマインシャフトとは、もともと地縁・血縁などにより自然発生した社会集団であるがゆえに、濃密な人間(人格)関係の中に専制権力のもたらす「恐怖」が媒介されるやいなや、「近代的」ゲゼルシャフトにおいてとは決定的に異なる「相互不信」の状況をもたらすのである。これこそが、文革において展開された「奴は敵だ、奴を殺せ」という「相互不信」の極限的状況そのものであった。したがって、広西における一連の大虐殺においてそうであったように、この共同体にそびえたつ「唯一の所有者」(マルクス)としての毛沢東の専制国家の権力を抜きにして、いかなる人間の「相互関係」を論じてもまったく無意味であるばかりか、むしろ有害ですらある。しかも、文革の「最大の逆説」があるとすれば、それは農民という「下から」ではなく、専制国家による「上から」の恣意的操作によって無政府状態がつくられたことにこそあるというべきなのだ。
このように加々美は、「前近代的」ゲマインシャフトを無反省に「超近代的」なものと同質のものとして扱い、しかも「前近代」から「超近代」への跳び越えを提唱することに一切、躊躇しない。だが、ヘーゲルの言葉を俟つまでもなく、そもそも歴史に跳び越えは存在しないのであって、仮にロマン主義の内的虚偽性と自己欺瞞によってそれらを強行すれば、次にやってくるのがそれ応分の「反動」という名の厳粛なるしっぺ返しであることは、まさに歴史そのものが現実として証明しているところである。
しかるに、マルクスが念頭に置いた未来のコミューンとは、けっして「前近代的」ゲマインシャフト(「共同体」)のことではなく、それを「近代的」原理でいったんは昇華させたゲノッセンシャフト(「協同体」)の概念である。ところが加々美は、「前近代的」共同体をめぐり、フランス近代起源の「コミューン」の概念を毛沢東と同様に無反省に媒介させつつ、しかも「前近代的」なものを高位の「協同体」(ゲノッセンシャフト)の概念と恣意的にすりかえて同一化するという深刻なる過ちを犯している。なぜこうしたレトリックが容易にまかり通ってしまうかといえば、「前近代」と「超近代」とは、「非近代性」という意味においてはむしろ「同一」であり、本来、それらに内容的かつ本質的「差異」が存在するにもかかわらず、むしろ形式的「同一性」の方が、ロマン主義を媒介とする概念操作においては優先されてしまうからである。
だが、「前近代的」なものとは、主観的にどんな解釈を施そうとも、現実として「前近代的」であるという客観的事実にまったく変わりはない。たしかに、ゲゼルシャフトは近代的「利益社会」のことであるが、それを「市民的(bürgerliche)」なものとして理解するならともかく、加々美は「ブルジョア的」という言葉によって、たんに「資産階級的」という硬直した左翼イデオロギー的解釈のみを施し、これを価値的に貶めようとしている。ところが、その結果として導かれたのは、知識、財産、身分を有した「市民階級」への容赦ない弾圧への消極的承認(=沈黙)であり、広範なる農民(ゴロツキ)による集団的殺戮への間接的承認(=沈黙)である40。そもそも加々美は、「前近代的」なものの存在を認めることと「中国人の野蛮さ」なるものを認めることが、本来、まったく別の事柄であるにもかかわらず、日本の右派(嫌中派、反中派)にありがちな中国認識と同様に、不当にも両者を混同してしまっている41。したがって、こうした認識論上の問題そのものを、加々美はまったく自己認識できないだけでなく、「前近代的」なものは自らのイデオロギーにとって都合の悪い事実として、自己の客観的認識そのものから「価値的」に排除せざるを得ない。それゆえに、あたかも表面的には良心的に「文革について語る」そぶりだけはつねに見せてはいるものの、実際のところ、本質的にはいっさい何も語れないでいるのである42。きわめて逆説的だが、この非倫理性に基づく不正義は、饒舌に「語る」こと(コミュニケーションの欠如したモノローグ)によってのみ、ことごとく隠蔽されるとすらいえる。これこそが、事実を事実として認められない、歪んだ「進歩的」知識人の心性の本質である。しかも、こうした知的誠実さの対極にある研究姿勢は、なにも加々美一人に限ったことではなく、いまでも汪暉らとともに、柄谷行人や丸川哲史、そして若い中国研究者の一部までもが、きわめて屈折した「文革再評価」論や「帝国」論を繰り広げていることにも見られる通りである43。
これらはまさに、中国における「未完のブルジョア革命」の意義を否定し、「前近代的」非合理性を暗黙裡に肯定する言説である。なぜなら加々美は、「近代」をもっぱら「西欧近代」のこととしてしか理解しておらず、「中国独自の近代」(溝口雄三)なる「近代」の概念において、「普遍的」近代が本来的に有しているある一定の規範性をまったく骨抜きにしているからである。そこでは、いわば「擬似近代」とでもいったものが「中国独自の近代」なるものとして扱われ、「普遍的」啓蒙としての近代という概念がほとんどないがしろにされてしまうのである。そうした意味でいえば、よほど竹内好の方が「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する」とする観点から、「西欧近代」とは厳密に区別された「普遍的」近代について理解していたといえる44。
おわりに
これまでみてきたように、文革期広西における農村共同体では、毛沢東という「上から」の専制的権力による支配構造が、事実上、たった一人の支配者、韋国清を頂点に、農民からの正当性を「下から」調達しつつ、「合法的」かつ「合理的に」築き上げられていた。たしかに打倒韋国清を主張する庶民の「造反派」も存在したものの、基本的な構成員は若い学生、市民、産業労働者、下層の知識人および少数の幹部であり、人数的には少数派であるのに対して、韋国清を支持する多数派は、党・団(共産党と青年団)の中堅メンバーと武装民兵であった。このように、文革中の広西には通常理解されがちなアナーキーな「権力の真空期」が一度も存在せず、それによって無政府的大虐殺が引き起こされる可能性はまったくなかったのである。そこで行われた大虐殺は、加害者集団の高度な組織化に基づき、しかもその殺戮の手法は、ナチスドイツによるホロコーストやスターリンによる大粛清にも見られない「前近代的」性格のものであり、かつそれは土地改革で地主を殺す際のプロセスのコピーですらあった。かくして文革中の大虐殺は50年代の土地改革や反右派闘争を含む、文革前の17年間の政治運動における殺戮の一種の延長であったことになる45。さらに既述のようなおぞましいほどの歴史的事実は、旧来の文革像に対して大きなインパクトを与え、それへの少なからぬ修正を迫るものであると同時に、われわれに抜本的反省と新たな「価値判断」を促すものとなっている。にもかかわらず、日本における一部の中国研究者は、自らのイデオロギーにとって都合の悪い「前近代的」なものを、自己の客観的認識そのものから「価値的」に排除してしまい、いまだに事実を事実として認められないでいるのである。
近代において野蛮からの解放を約束したはずの啓蒙の理念が次第に形骸化し、人間や物は操作、管理、支配の材料でしかなくなるとともに、近代啓蒙自体も道具化して、いつしか再び野蛮へと退落していったのはいったいなぜなのか。この根源的問題について思索を続けたホルクハイマーとアドルノ(『啓蒙の弁証法』)は、やがて権力の手段の一つとしてしか社会的に機能せず、価値判断を意図的に排除することで中立を装う実証主義の学問(科学)が、じつは「道具的理性」としての限界をつねに有していることを突き止めていった。これらを前提作業にしたハーバーマスが、さらに新たな「コミュニケーション的理性」によってこれを克服する思想的道筋を確立していったことはよく知られている。だが、こうした実証主義の狭い枠組みを「コミュニケーション」という開かれた批判的理性によって打開しようとする学問的姿勢が、日本の中国研究にはいまだにほとんど欠如しているだけでなく、それに対する客観的認識すらまったく共有できていないといわざるを得ない。文革がいまだに過ぎ去らない理由の一つは、明らかにこうした日本における「進歩的」中国研究者らの知的怠慢と不誠実さにあるというべきである。
註
2.王友琴・小林一美・安藤正士・安藤久美子『文化大革命「受難者伝」と「文革大年表」』(集広舎、2017年)、10頁。
3.前掲『文化大革命――<造反有理>の現代的地平』、45頁。
4. 同、46頁。
5. 同、104-106頁。
6.同、106頁。
7. 同、50頁。
8.同、51頁。
9. 同、58頁。
10. 同、66頁。
11. 同、68頁。
12.同、69-70頁。
13. 同、70-71頁。
14.同、73-74頁。
15.前掲『文化大革命「受難者伝」と「文革大年表」』(集広舎、2017年)、176頁。
16. 伊藤虎丸『魯迅と日本人』(朝日選書、1983年)、170頁。
17.前掲『文化大革命――<造反有理>の現代的地平』、74-75頁。
18. 同、75-78頁。
19.同、78-79頁。
20. 前掲『文化大革命「受難者伝」と「文革大年表」』、24-25頁。
21. 王友琴「顧文選――迫害に次ぐ迫害の後、銃殺刑にされた北京大学の学生」、同所収、143頁。
22.同、145頁。
23. 同、171頁。
24.同(馬寧平・黄裕沖『中国昨天与今天[1840~1987、国情手冊]』解放軍出版社、1998年、737頁からの引用)。
25. 同、171-172頁(楚序平・劉剣主編『当代中国重大事件実録』華齢出版社、1993年、277頁からの引用)。
26. 同、172頁(前掲『当代中国重大事件実録』華齢出版社、1993年、277頁からの引用)。
27.同(『当代中国重大事件実録』華齢出版社、1993年、740頁からの引用)。
28. 斐毅然「文革の狂濫怒涛の中の知識人」、同所収、232頁。
29.同、233頁(李鋭『李鋭論説文集』中国社会科学出版社、176頁からの引用)。
30. 同、232-233頁。
31. 同、246-247頁。
32. これについては、代田智明「[光陰似箭]書評の太平楽」『中国研究月報』第65巻第5号(759号)2011年5月、拙稿「[論評]太平楽論の体たらく――代田氏に反論する」『中国研究月報』第65巻第7号(761号)2011年7月、代田智明「[論評]蛸壺のなかのまどろみ」『中国研究月報』第66巻第5号(771号)、坂元ひろ子「[論評]劉暁波『現象』所感」『中国研究月報』第67巻第1号(779号)2013年1月を参照。ちなみに、この論争は継続中である。
34. 同、40-41頁。
35.橋川文三『日本浪漫派批判序説』(未来社、1984年)、37頁。
36. C・シュミット(橋川文三訳)『政治的ロマン主義』(未来社、1982年)、186-187頁。
37.これについては、拙書『中国革命論のパラダイム転換』、「中国近代のロンダリング汪暉のレトリックに潜む「前近代」隠蔽の論理」(第5章)を参照。
39.同『現代中国の挫折――文化大革命の省察』(アジア経済研究所、1985年)、73頁。
40.ヘーゲル『精神現象学』に示されるように、疎外された精神とは遅かれ早かれ、何らかの主体=実体という具体性において、必ずや自己を回復すべく顕現する宿命にある。それゆえに、加々美がひたすら「沈黙」する一方で、同じ思想的基盤を共有している前田年昭は、「下放による自己変革、自己改革を背景にした社会改革という夢を、プロレタリア文化大革命を私たちに残して、「敗北」した。夜見る夢は朝になったら覚めて消える。文化大革命が人類に見せてくれた夢は、昼見る夢として決して消えることはない。そして、12歳でプロレタリア文化大革命に出会った私は夢を追い続けている」と、いわば毛沢東の「革命的ロマン主義」(H・ルフェーブル)をストレートに表出することに何らの躊躇も感じていない(土屋昌明・「中国六〇年代と世界」研究会編『文化大革命を問い直す』勉誠出版、2016年、109頁)。ここでわれわれが目撃しているのは、「我としてのわれわれ、われわれとしての我」において疎外された(引き裂かれた)自己意識としての精神が、もう一つの実体=主体の言葉(精神の言語化)によって回復されるという具体例である。
41.前掲『歴史としての文化大革命』(岩波書店、2001年)、227頁。
42. 加々美光行「文化大革命の歴史的意味を問う」、『思想』、2016年1月所収。
43.これについては、前掲『中国革命論のパラダイム転換』、および拙稿「柄谷行人と「帝国」論の隘路 ――ウィットフォーゲルとマルクスの間で(上、中、下)」、「ちきゅう座」、2016年 7月 17日、2016年 7月 13日、15日、17日、「重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ(上・下)」、「ちきゅう座」、2012年 6月 21日、22日、(http://chikyuza.net/archives/tag/%e7%9f%b3%e4%ba%95%e7%9f%a5%e7%ab%a0)などを参照。
44.竹内好「方法としてのアジア」、武田清子編『思想史の対象と方法』創元社、1961年所収、237-238頁。
初出:(愛知大学現代中国学会編『中国21』、Vol.48, 2013年3月から転載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study999:181102〕
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