ドイツ通信第138号 歴史の結節点で思うこと
- 2019年 2月 10日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
2018年そして19年という年代は、歴史を振り返れば時代的にいくつかの重要な政治変動があった時期と結びついていることに、改めて様々なメディア、情報で知らされました。
思いつくままに、いくつかのテーマを取り上げてみます。2017年のロシア革命100周年を経て、68年革命から50年、世界第一次大戦終結から100年、そしてワイマール共和国成立から同じく100年、女性の選挙権が認められ、堕胎法が成立して100年、さらにバウハウス(Bauhaus)設立から100年。 テーマにまつわる展示、そして議論が一年間通して行われ、引き続き今年も目白押しに予定されています。連日目に焼き付き、耳に飛び込んでくる情報に煽られながら、その理解に後れを取らないようにと精いっぱいの状態になっています。その先には、いうまでもなく1933年のナチ政権奪取が控えています。 他方では、ナショナリスト、極右派、ナチ勢力が東西問わず台頭してきて<民主主義の危機>が叫ばれる現状を顧みれば、どこかに共通する根があるのだろうかと探索しながら、しかし一方で、当時と何か異なるのではないかとさえも思われ、実にこの狭間でヨーロッパは揺れ動いているのではないでしょうか。 * この50年―100年という時代の経過の中で、人は何を学んだのかということでしょう。歴史が悲劇に終息しないためには、その意味を再考することが必要ではないかと思い、それらの展示をマメに見て回っています。 その手掛かりとは何か? 膨大な歴史資料を紐解くことは私にはできないことだし、資格もありません。周りの人たちとの議論、またその人たちの声を聴く中から、歴史を見る視点がつくり上げられたらなと思う次第です。 難しく聞こえるテーマのつかみどころを整理していくために、年末から年始にかけて出会った人たちとの経験から書き始めます。 *** 一人の電子工学の教授がわが家に来ていました。彼はマリアンネの同僚の弟で、ドイツ―世界でも名の知られている研究所で仕事をしていて、私たちが唯一の連絡先でした。彼の姉が重病に陥って以降、家族と共に彼女が運営する診療所の引き継ぎ、書類・事務整理等々で緊急にカッセルに来る必要があり、また家族の事情で実家には宿泊したくないというので、私たちの家を提供することにしました。 一日中、町中をあちこち動き回り、夕方おそくグッタリ疲れて家に帰ってきます。私の作る晩ご飯をおいしそうに食べ、日本には何回となく学術会議でいったこともあり、日本食は好きだと晴れ晴れとしていました。62歳で想像していた気難しいタイプではなく、ドイツ人には珍しく言ってみればサニー・ボーイ(Sunny Boy)風ですから、私自身も肩の荷が下り、彼の気晴らしと気分転換になればと思い雑談をして楽しんでいました、といえば失礼ですが。しかし、どこかで精神的負担をお互いに取り除く必要がありました。 食後は、マリアンネと差し向かいで彼の姉、つまりマリアンネの同僚の話になります。共に過ごした子供時代、ギムナジウム、そして医者になってからの彼女の生涯、それと同時に複雑な家族関係の経緯が、単なる事実・時間経過だけではなく、そこにまつわる人間関係の精神心理学的な問題に焦点が合わされ追体験されていきます。連日、そうした二人の話を、私は傍で聞くことになりました。 私の知っている彼の姉との共通の時間というのは極めて限られていますから、何かを口挟む機会もなく、何を、どう話していくのかと冷めて聞いていましたが、その内、私の興味は彼の家族の今後はいうまでもなく、その議論の仕方にも向けられていきます。 なぜなら、私の体験からはマリアンネの同僚たち、また周りにいるインテリ、知識人の多くは、精神心理学的分析にかなりの重点を置いた思考方法をしていると思えるからです。加えて、親へのこだわりの強いことに気づかされるからです。家族、両親への繋がりは日本でも確かに強いですが、ドイツ人のその傾向は、まだどこかヘソの緒が切れていなくて、そこで独り立ちできず精神的に悶々としている節が見られるのです。戦争責任を負う親の世代から決別したいという子供たちの思想的な苦闘が、そうさせるのでしょうか。 別の言い方をすれば、人それぞれに考える時の論理、方法論というようなものを持ち合わせ、そのすべてが集約されて文章・言語表現となって表れてくると思うのですが、精神心理学的認識の際立っているところが、どうもドイツ人的ではないかと思われてなりません。 逆に言えば、そうしたドイツ人から質問されたときに、私が日本人として答えることは非常な困難を要し、的外れな対応に終始するケースもでてきます。
そんな私の思索を感じ取ったのか、彼は「日本でもこんな家族関係に関する話をするのか」と、矛先を変えてきました。「もちろん、人間関係に関する議論はするけれども、精神心理学的分析はほとんど珍しいはずだ。非常にドイツ的だと思うけど」と思っているところを述べ、それから、戦後ドイツのインディヴィジュアル(個の存在)議論に関する個人的な見解を披露することになります。 **** 戦後のドイツは、ヒットラー支配を含む国家、民族の歴史をどう書くのか、言い換えれば、ナチ支配とユダヤ人虐殺をどう総括するのかで歴史家の間で議論されてきました。また、その議論を進めた歴史学者の中には、ナチの信奉者、協力者、同調者が含まれていました。一つの長い歴史と人間の虐殺及び社会破壊、そしてその歴史を語る個人の存在がここでは問われてきます。戦後すぐはそれらが明確にされることはなく、ナチ支配の分析が行われてきたように思います。 スターリン主義の蛮行に対するドイツの防壁をナチに見るかと思えば、1789年のフランス革命がそうだったように集団化した大衆運動の行きつく先がナチとユダヤ人大量虐殺であるというような見解もここから導き出されてきます。あるいはまた、ナチの成立根拠をワイマール共和国に求める主張も生まれてきます。 そこに見られるのはナチ支配の成立経過と意味―それが正当かどうかの議論は脇に置くとして?に関する議論でした。見失われているのは、虐殺されたユダヤ人の存在です。ユダヤ人には一寸の目も向けられず、心を寄せることもなくナチ支配が議論されていました。 こうした視点からは、確かにナチのユダヤ人虐殺を弾劾するとしても、戦後社会の中にドイツ国民としてのユダヤ市民の権利獲得に反対しようとする矛盾した主張が生まれてきても当然といえば当然です。 それに、「知らなかった」というドイツ市民の自己責任逃れの意識が加わります。そのことによって戦後、二重の屈辱をユダヤ人は受けたことにならないでしょうか。
ユダヤ人・市民の存在を「知ること」によって、歴史は新しく書き換えられるはずです。何もナチ時代に限らず、ドイツの歴史、それはまたユーロッパの歴史にこれまでとは違った自意識が、特に若い世代の中に作り上げられてくる契機になるでしょう。 「鉄のカーテン」が崩壊直後から、旧東ヨーロッパを見て回りながら、そこに少なくなったとはいえ今も残されているユダヤ文化の影響がいかに強いかを見せつけられて、そんなことを考えていたものです。 それを阻んできたのが、歴史を見る、ナチの経験を反省する、しようとする〈個の存在〉の欠如です。ドイツの歴史家論争で困難を極めるのは、歴史の中にナチが位置付けられないことでした。位置付けようとすれば、必然的に「自分は何か? どうするのか?」という問いが返されてくるはずですから、そこで次の一歩は停止してしまいます。このジレンマが、戦後の歴史家論争の背景に潜んでいたように思います。それは、また同時に個々の市民についてもいえるでしょう。
戦後社会の主要な部署にはナチが残存し、戦後再建に向けて彼らの「専門知識と技術」が必要とされてきました。しかしそれを暴いて、彼らの責任を追及したのが1963-65年に開かれたフランクフルトでの「ナチ法廷」です。 「ドイツの驚異」といわれた経済復興と成長のなかで、しかしフランクフルト検事総長フリッツ・バウアー(Fritz Bauer)が、周囲の妨害をはねのけて、ユダヤ人大量虐殺の実行・加害者を裁判にかけ、彼らの責任を問いました。ここから、<ナチの責任問題>が議論されていきます。 68年革命は、さらに直接行動で残存ナチを摘発し、「過去の克服」を社会の変革として目指し、そこから新しい政治・社会運動が組織されました。ナチを批判し、憎悪が増せばますほど、行動はラディカルになります。それは反面、莫大な権力の暴力を目前に体験して、無力を知らされる自己への怒りであったかもしれません。 68年世代と運動が目指した方向性は、ナチの責任を追及して過去を克服することですが、思想的にはファシズムに反対することです。過去から学びながら、歴史を二度と繰り返さないためは、現実的にはファシズムとの闘争が主要な政治テーマになってきます。理論的には、資本主義批判です。ファシズムと資本主義批判の関連性で、左翼勢力は30年代にそうであったように多数のグループに分裂していきます。戦後直後の政治過程の分析の域を越えられことはなかったように思われます。 それに加えて、イスラエル批判が帝国主義の批判の対象になりますから、被害者のユダヤ人の現状には目が向けられません。 そのとき、運動がラディカル化する一方で、〈個の存在と責任〉は、再び後景に押しやられました。
そこでの個々人の思想的営為が、実は、精神心理学分析に向かうことになります。それを現在の60歳代の世代、つまり戦争世代の両親の子供たちに見ることになります。明らかにされてくるナチによるユダヤ人大量虐殺に目が向けられながら、ドイツ市民の一員としてそれを自分はどう認識して把握するのかという捉え返しが、ユダヤ人の現実に向かうことなく、内面化=観念化されます。それを必要なことと承認しながらも、私の問題意識は、他方で、それによって「ユダヤ人(の存在)」が抽象的な集団として対極に置き去りにされはしないのかということです。 インディヴィジュアル論争といわれる〈個の存在と責任〉の所在は、そこから被害者一人ひとりの体験と意見に耳を傾け、現状を知ることから始まるように思われるのですが、どうでしょうか(注)。
(注)「FR」紙2019年1月2日付 歴史学者Paul Nolteへのインタヴュー記事を参考にしました。 記事のタイトルは、“Man duckte sich erstmal nach Europa weg“ です。 したがって、68年世代と革命についていろいろな議論がされ、それはそれで正しいと思いますが、以上の点に関しては忘れられ、無視されてはならないと考えています。 これが、私が彼の質問に答えようとしたかったことです。それを聞きながら彼は頷き、マリアンネは、「だから、外国に行けばドイツはフロイトの世界だとみられる!」と自嘲的に言葉をはさんできました。
つい先日、マリアンネがフランクフルトに行って、学生時代の同僚に会ってきました。「自分は知らなかったけど、フランクフルトがドイツ皇帝の館(城)のあった街で、カロリング王朝時代に女帝がいたことを知っているか」と聞いてきます。日本の天皇の歴史を連想しての私への質問です。私が「知るわけないだろう。そんなことはドイツ人の方が学校の歴史の授業で勉強しているはずではないか」と突き返したら、「学校でそんな歴史は学ばなかった」と。 「学校でそんな歴史は学ばなかった」?この発言は、議論をしながらよく耳にします。歴史が好き、嫌いか、また成績が良かった、悪かったかの話しではありません。この一文が語っているのは、学校教育でキチンとドイツの歴史を教えてこなかった、それによって歴史への責任を拒否してきた戦後ドイツの一面を見る思いがします。 ****** では、何がドイツを、そしてドイツ人の意識を変えたのか。決定的なきっかけは、1979年にドイツで放映されたアメリカのTVシリーズ「ホロコースト」でした。 手元に「シュピーゲル」誌に掲載された記事があります(注)。それを基にして当時の様子を少し振り返ってみます。 68年革命に対抗するかのように、或いはまた、その反動として、70年代の後半には歴史を逆戻りさせるかのような言動が表立ってきます。極右派の結集も進みます。その放映から今年は、40周年を迎えることになります。 TVシリーズ「ホロコースト」の特徴は、単にユダヤ人の苦痛、苦悩、過酷な状況だけではなく、ナチ時代のドイツ人の家庭を同時に描き、ユダヤ人家族の一方で、ドイツ人家族がいかにナチ支配に屈服し、NS主義者になっていくかの経過にも光が当てられました。 放映に当たっては、政治家、主要メディア、公共TV局から攻勢的な大きな批判キャンペーンも行われたといいます。 主要なものでは、アメリカの大量消費文化に対する反発で、当時私も日本で見た「ボザンナ」と同類のウエスタン・シリーズではないかという、社会文化的な違いが強調されます。「ただドイツ人だけが〈第三帝国〉を偏見にとらわれなく、具体的に取り上げることができる」と。 政党で見れば、CDUとCSUからの反発が際立っています。 当時のCDU党代表コールは、キリスト教関係者のナチ抵抗-被害者を強調すべきで、CDUが加害者の側に立っているような印象を許してはならないと主張すれば、CSUは、今こそソヴィエトに支配された東ヨーロッパ圏から祖国追放されたドイツ人被害者に焦点を当てるべきではないかと訴えます。この時期にあっても、虐殺されたユダヤ人が、あたかもドイツ国民でないかのような認識です。
ドイツ家族とユダヤ人家族の両面を描くことによって、ナチ支配の現状を知ることになり、視聴者の目はそこに立たされている各人に振り向けられていきます。何が実際に起きたのかを見せつけられ、被害と加害が交錯してくるのを知ります。この現実的な関係の中で、〈自己の責任〉に気づかされました。 その後1979年には、連邦議会でユダヤ人虐殺に〈時効がないこと〉が決議されます。 歴史学者(Frank Bösch)は、そのインタヴューで次のように締めくくります。
もし、TVシリーズがなければ、1979年末以降、NS‐加害者(下手人?筆者)は誰一人も裁かれることはなかっただろう。
(注)Der Spiegel Nr.3/12.1.2019 歴史学者Frank Bösche へのインタヴュー記事 ”In die Wohnzimmer“
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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