■明治維新の近代・10 徳冨蘆花と「謀叛論」 ─なぜ蘆花に「謀叛論」があるのか
- 2019年 4月 18日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「吾夫の御眠り安からず。早朝臥床に居たまふ。折からいろいろ考へ給ひ、どふしても天皇陛下に言上し奉る外はあらじ。(中略)ともかくも草し見ん、とまだうすぐらきに、書院の障子あけはなち、旭日のあたたかき光をのぞみて、氷の筆をいそいそ走らし給ふ。走らしつつも其すべを考へ給ふ。桂さんよりは書生の言を退けて一言の返事もなし。ともかく『朝日』の池辺氏、これも志士の後、同氏にたのみて、新聞に、陛下に言上し奉るの一文をのせてもらはん、と漸くかき終えて、一一時比池辺氏への手紙と共に冬を高井戸に使し、書留にて郵送せしむ。まづはなし得るだけはしたれども、どれ一つかなへさうもなし。やきもき思へどもせんすべもなし。」(『徳冨愛子日記』[1])
1 講演「謀叛論」
「謀叛論」とは、幸徳秋水以下いわゆる大逆事件の被告12名の大量処刑が行われた明治44年1月24日の8日後の2月1日、第一高等学校大教場で蘆花が行った準公開講演の演題である。この講演「謀叛論」の草稿を載せる岩波文庫の解説で中野好夫は、「謀叛論」で注目すべきは「大逆事件処刑の八日後になされた公開の発言だったことである。当時すでにひそかな批判を抱いていた人間は、今日分明しているだけでも、ほかに幾人かはいる。だが、こうして公然と東京の真中で叛徒弁護の発言を行ったのは、ほとんどまず蘆花ひとりだった」といい、それは「特筆さるべき一事だった」と記している。また「謀叛論」(草稿)を載せる『徳富蘆花』(明治文学全集)の解説で編者神崎清はこういっている。「蘆花の「謀叛論」は当時の天皇制政府の強権支配に向けられた爆弾演説であった。不敬演説と非難するものもあらわれてきて問題が一高校長新渡戸稲造等学校当局の責任追及に発展してきたので、愛子夫人の日記によると、心配した蘆花が桂首相、小松原文相、一高(弁論部河上丈太郎宛)などに救解の手紙を出しているが、残念ながらそれ等の手紙はまだ発見されていない。」[2]
たしかに蘆花「謀叛論」における激しい非難の矛先は天皇側近の「不忠臣」的閣臣に向けられている。「廟堂にずらり頭を駢(なら)べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、唯一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機会を見す見す看過し、国家百年の大計からいえば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種を播いてしもうた」というように。だが蘆花とは文頭に引いた『徳冨愛子日記』の記述に明らかなように、事件の死刑囚への恩赦の嘆願文「天皇陛下に願ひ奉る」を草して、朝日新聞の池辺社長に届けるような、自らを天皇の忠臣と任ずるような人物である。私は蘆花「謀叛論」の究極的な受取り手(アドレサート)は明治天皇だと考える。「諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである。天皇陛下は剛健質実、実に日本男児の標本たる御方である」と語る蘆花の「謀叛論」とは、その蘆花にして始めて可能な〈天皇をその究極的な受け手としてもった告発的な嘆願文〉だといいうるものではないか。そうであるならば「謀叛論」は蘆花という人物と切り離すことのできないテキストだということになる。「謀叛論」という言説が一大事件だとするならば、蘆花という文学者の存在も一大事件であるだろう。「謀叛論」が歴史的スキャンダルだとするならば、文学者蘆花という存在もまた歴史的スキャンダルであるだろう。
私はここで〈われわれの批判的視線がまず注がれねばならないのは彼が何をいい、何をいかに語ったかであって、彼その人の存在の仕方ではない〉という私の思想史における言説論的方法を放棄しているかのようである。たしかに私はここで「謀叛論」という問題に直面しながら、「謀叛論」という言説の分析から始めるよりは、蘆花の人物伝を読むことから始めたのである。この方法論的変更を促すのは蘆花特有の問題からくることなのか、日本近代文学史特有の問題からくることなのか。蘆花の「謀叛論」を論じるには、こうした方法論的問題を引きずりながら安路とはいえない筋道を辿らざるをえない。
2『蘆花徳冨健次郎』
中野好夫の主著というべきものに『蘆花徳冨健次郎』(全三部)がある。『中野好夫集』全11巻が筑摩書房から出ているが、その最後の三巻(第9巻〜第11巻)を中野の「蘆花伝」すなわち『蘆花徳冨健次郎』(全三部)が占めている。このことをもって、中野の英文学研究上の業績を知らない私は単純に『蘆花徳冨健次郎』を中野の主著だとみなすのである。だが実際に読んでみて私はこれを中野の主著であるどころか、日本近代文学史における最高の伝記的著作ではないかと思った。
ところで私における蘆花との関係の個人史をいえば、小学校の4、5年級の私は『自然と人生』や『みみづのたはごと』の文章を暗唱して聞かせる母から蘆花の名を教えられていた。私の母に小学校以上の学歴があるわけではない。その母が作文の宿題があるというと蘆花の自然叙景の文章を口ずさむので私は閉口した。そして『思出の記』は少年時の私が最初に読んだ文学作品であった。しかし蘆花はそれっきりで、それ以降私は蘆花をかえりみることはなかった。それから40年も隔てた昭和の末年という時期に私は中野好夫らの監修になる高価な『蘆花日記』[3]を買い込んだりしている。同じ時期に戦前の『蘆花全集』[4]をも、これは安い値段で買ったりしている。中野の『蘆花徳冨健次郎』を購入したのもこの時期であったであろう。なぜこの時期に蘆花の著作などを買い込んだりしたのか。恐らく私は「近代知のアルケオロジー」[5]の一つのテーマとして「近代日本の「告白」文学」を考えていたからではないか。だがそれは実現されることなく、蘆花関係書は私の書棚に持ち腐れのままになっていた。それが「大逆事件」を読み直す[6]ことを通じて蘆花は再び私の前に登場してきたのである。すなわち「謀叛論」の蘆花として。
私は「謀叛論」を蘆花という文学者の存在において考えようとした。それは「謀叛論」が蘆花という文学者の存在を離れてはない言説、蘆花にしてはじめて「謀叛論」があると見たからである。ここにはすでにいうように私の思想史の方法における言説から人物への変更がある。その蘆花という人物を知るために私は中野の『蘆花徳冨健次郎』を読むことにした。中野の「蘆花伝」は蘆花その人の「告白」以上に蘆花をめぐる「真実」をわれわれに教えてくれる。
蘆花は大正7年(1918)の『新春』の自筆広告文で、「天人の前に素裸になつた彼が五十年の懺悔」とか、「かさねかさねた虚偽粉飾の十二一重(ひとえ)を脱ぎ捨てて、純真赤裸の自然男自然女に立ち帰つたアダム、イヴ」といったり、彼の最後の告白文学『冨士』第一巻(大正14年5月)のやはり広告文で「過ぎ行くものの告別の懺悔と謝罪と祝福と、永劫に新な生命の凱歌と讃美と感謝と・・・小説『冨士』は公にせられねばならぬ」といったりする懺悔者である。ところで懺悔しつつDVを繰りかえすものと、無反省にDVを繰り返すものと何が、どこが違うのか。始末が悪いのはどっちであるのか。懺悔による自己への宥しを求める前者にあって、自己とは究極的に宥るされる自己であって、暴力を繰り返す犯罪者としての自己を決して己れの外に見ることはない。懺悔者は懺悔に綯(な)い合わさった事実をしか告白しない。蘆花の場合がそうである。蘆花夫妻の共著の形をとる最後の告白文学『冨士』を読んでいくと夫婦そろって懺悔遊びに興じているかのように思われてくるのだ。だからこそ蘆花における「真実」を見るには中野好夫の目を必要とするのである。私はここで蘆花を論じるのに中野の『蘆花徳冨健次郎』を読む形をとるのはそれゆえである。
3 『蘆花徳冨健次郎』を読む
中野は蘆花という問題が兄蘇峰との「賢兄−愚弟」的関係性の問題であることを正しく見ていた。彼はこの兄弟の関係性の中に明治という時代と国家の光と影とを見ていった。中野は三部構成からなる『蘆花徳冨健次郎』第3部の「むすび」の章を「それにしても、蘇峰と蘆花—単なるそれは個人としての珍しい対照というだけにとどまらず、大きくいえば、近代日本の宿命というべきものを背負った相剋でもあったはずである。蘇峰の生涯を近代日本の陽画(ポジ)とすれば、蘆花のそれはさしずめ陰画(ネガ)であった。陽画と陰画−−−それは二つにして、また一つでもある近代日本像ともいえそうである」という言葉で結んでいる。中野はこの結びにいたるまでに兄弟の関係史を徳冨家という豪家の家族史のなかで、さらに熊本から京都そして東京へという明治国家の形成とともにする地域的、社会的関係性の移動と拡大のなかで、その目と足とをもって徹底的に追及していく。蘇峰・蘆花の社会的関係性の拡大とともに彼ら〈賢兄・愚弟〉間の相剋はますます大きく、重く深刻になる。その相剋からくる重みも歪みももっぱら〈愚弟〉の側の引き受けるものとなる。こうしてこの相剋は蘆花をしばしば狂気に導き、彼を家庭内のいっそうの暴力者にしていく。ここで中野の「蘆花伝」の一節を引くことで、私の冗長な解説にかえよう。
「こうして三十七年、三十八年という年は、健次郎にとって最悪に近い条件の中で流れて行った。戦勝、戦勝で酔い痴れる世間の騒ぎとは、およそ無縁の一年有半でもあった。戦争、そしてその戦争に対しても、まことに澱んだような割り切れぬ健次郎の立場、加えて微妙な夫婦間愛情の危機、したがってまた当然なんにも書かぬ、いや、書けぬ彼—どちらを向いても、いわば八方塞がりといってよかった。
しかも、そうなるとまた脆いのが健次郎であった。自信過剰の兄猪一郎とちがい、彼の胸にはつねに自虐という小鬼が巣くっていた。国民の多くが満洲で血を流し、またたとえ戦場ではなくとも、みんな懸命に働き苦しんでいるのに、自分ひとりは仕事もせず、うまいものを食ってぶらぶらしているという自省は、健次郎の胸を噛んだ。また、そんな中で、ややもすれば若い女の肉に惹かれる己れの姿にも、われながらあさましさを覚えずにはいられなかった。そしてこの不生産的な反省は、いよいよ抑鬱を深めるばかりであった。しかも、そう思っても、己れに克てぬのが彼であった。「彼の為る事は多くは思ふ事の反対であつた」(「冨士」四-二)。ときに突風のように爆発する癇癪も、愛する妻、憎しみもない小娘風情をいじめ抜くその嗜虐的衝動も、裏を返せば、そのまま苦しい自虐にすぎなかったのだ。彼は足下の大地が、ガラガラ音を立てて崩れ行くのを感じないわけにいかなかった。」(第二部七「日露役と蘆花」)
蘆花は決して日露戦争の非戦論者でも不戦論者でもなかった。むしろ対露膺懲の積極的な主張者であった。だが実際に戦争が始まると、戦争を遂行する国家政府に積極的に同一化していく兄猪一郎に対して、弟健次郎は戦争の否定面を心身に受け負っていく。兄は高揚し、弟は自虐的に自らを破滅へと落とし入れていく。しばしば癇癪を破裂させ、周辺の女性を性的衝動や暴力の対象にしていく。それはすでに狂気といっていい。
中野は明治史をつらぬく蘇峰・蘆花兄弟の相剋史を克明に記述していく。その相剋史はそのまま明治の国家史であり、政治史であり、社会史であり、家族史でもあるのだ。私はこれを読みながら興奮し、ネット上にその興奮を記していったりした。だが第一部を読み、第二部を読み、肝心の「謀叛論」の章から始まる第三部に入ったころには私はかなり白けていた。明治国家のネガ像といっても、その帝国化とともに肥大していくネガ像を追うことがバカバカしくなっていった。そのバカバカしさが頂点に達するのが蘆花夫妻による「世界旅行」である。蘆花の「年譜」[7]によれば、「大正八年(一九一九)五十二歳 一月二十七日、夫妻にて、第二のアダム(日子(ひこ)=蘆花)・イヴ(日女(ひめ)=愛子)の自覚に醒め、この年を新紀元第一年と宣言して、夫妻にて世界一周の旅に出る」とある。ところで中野が記すその「旅支度」をめぐる文章が面白い。
「さらに旅支度というのがまた大変であった。いかに船旅とはいえ、大小実に二十五箇の大小荷物が積み込まれたというのだから驚く。・・・和服の礼装、普段着、丹前、浴衣、さらには贈答用の手土産品あたりまではまだわかるとしても、なんと急須から煎茶茶碗などの一切の茶道具、硯、墨、筆、いや、小田原提灯、蝋燭から懐炉、懐炉灰などという奇妙なものまで、丹念に用意しているのだから滑稽である。・・・それにしてもこの大袈裟な旅支度、最後まで健次郎の一面であった豪家意識が見えて興味深い。なにもこの海外旅行だけではない。すでにその幾つかには触れて来たが、彼がベスト・セラー名士になってからの夫妻国内旅行というのは、すべてこの引越し然たる大荷物が特徴になっている。」(第三部十「世界をめぐって」)
エルサレムにあって4月21日、蘆花は父や母や血族の夢を見て夜半に目をさました。『冨士』は「母の呪詛」を負ってある己れの過去への長い述懐の後にいう蘆花の復活の言葉を記している。
「私を中心とした半生の悲劇に於て随分つらい事、醜い事、はづかしい事の数々も閲して来たが、それは耶蘇の言ふやうに、「父の罪でもなく、母の罪でもなく、私の罪でもなく、それによりて天の父の栄が彰はれん為」である。/其天の父の栄が、今彰はれる。/やはり新天地だ。アダム、イヴだ。過去は皆私共に於て新になるのだ。天の父の勝利だ。生命の凱歌が今挙がるのだ。」(『日本から日本へ』第4編2−7「大復活」)
その翌日、蘆花はパリの講和会議に集う列国の指導者に向けて公開の書簡を認める。イギリスのロイド・ジョージ首相、アメリカのウィルソン大統領、そして日本の全権委員西園寺公望に宛てたものである。この書簡を発する己れ自身について蘆花はこう書くのである。「私は日本人である。だから私の血は先づ東洋の為に動く。然し私は人である。だから西洋人の腹にも、私は入り得る。/日輪は遍く照らす。日の子、日の女、は一切衆生の父たり母であらねばならぬ。/今日は復活月曜。エルサレムはまた祭礼装して、祭礼気分が支配する。」
「所望」と題された日本全権西園寺公望宛の書簡は次のようである。
「一、現在の講和会議を進めて世界的家族会議とし、全世界の各国民各種族の男女代表者を会して、人類の福祉を増進すべく、意志の疎通と感情の融和を図る。(人類総会議は、時折開かんことを望む)
二、新世紀の創始 世界の人心を一新し、人類の歴史を更始せんが為、本年を以て世界共通新紀元の第一年とす。東洋は其大正、中華民族年号、回教暦等を捨て、西洋は耶蘇紀元を捨て、総て同一紀元を採る。
三、陸海軍全廃 人類再び会い殺さずの決意を以て、一切無条件に陸軍及び海軍を全廃す。(以下略)」
私はこれを読むにいたって、これ以上中野の「蘆花伝」を読むことを止めた。「謀叛論」を蘆花という存在において読むことの目的はここで遂げられたと思ったからである。中野もこの「要望書」の前文を記した後で、「断っておくが、わたしは別にこれを、特に評価して紹介するわけではない。畢竟は書生の空理空論にしかすぎなかったろうからである」といい、さらにパリの講和会議について中野は、「そのありようは要するに戦勝者の会議、国家的エゴイズムを露き出しにした戦利品の分け取りにすぎなかった。おそくも早くも、健次郎の提案など、即刻屑籠行きは自明である。が、そこがいかにも健次郎らしいドン・キホーテぶりであり、少なくとも「謀叛論」の彼は、このときもまだ生きつづけていたといえようか」というのである。
中野もまたここで「謀叛論」の蘆花を想起している。私もまたパリ講和会議への「要望書」の蘆花によって「謀叛論」の蘆花を想起する。蘆花なくしてあの「要望書」はなく、蘆花なくして「謀叛論」はない。1919年の蘆花にしてあの「要望書」があり、1911年の蘆花にしてあの「謀叛論」があったのである。私はその蘆花を「ドン・キホーテぶり」の蘆花として片付けるつもりはない。
4 「謀叛論」の蘆花
第一次大戦後の国際関係的事態についてたとえ戦勝国のリーダーたちに訴えるべき意見をもっていたとしても、それを直ちに書簡にして送り届けたりするものはない。今でも昔でも政治的事態や事件にかかわる直接的な訴願者というものはいたし、今でもいるであろう。しかしいまパリの事柄はそうした訴願者のかかわるものではない。パリの講和会議の直面する事態をめぐってもの申すものとは、この会議を構成する各国全権たちと等しい地位と力とをもちうるものであるだろう。それはただ政治的地位だけをいうのではない。精神的、宗教的、あるいは言論的に彼らと並び立ちうる地位をもいうのである。そこには外的位(くらい)もあり、内的位もある。
蘆花はエルサレムにあって前に引くように、「やはり新天地だ。アダム、イヴだ。過去は皆私共に於て新になるのだ。天の父の勝利だ。生命の凱歌が今挙がるのだ」と新天地に再生した「アダムとイヴ」との自覚をもっていた。また一切衆生の父であり母である「日の子・日の女」ともいっていた。これらの言葉は蘆花における二度の「神来の啓示」[8]に基づく新宗教への回心からもたらされるものである。中野はこの蘆花の宗教的回心をめぐってその経過を詳しく追いながら、「(健次郎新信仰の内容は)どうせ無数の矛盾、混乱に充ちているのだから、一貫してまとめることなど、所詮むりである」といい、「ただ側面からライトを当てるだけにすぎない」といいながら「蘆花教」を結論づけてこういっている。
「ただ側面からのライトを当てるだけにすぎぬが、その意味からすれば、別の意味で大きな興味も感じられぬわけではない。結論を先にいえば、彼のこの新信仰—いうなれば蘆花教とは、彼五十年にわたる自己枉屈の過去から一転して、にわかにとめどない自己肯定、自己拡大へと突っ走ったというだけにすぎぬのではあるまいか。たとえていえば、長年猛烈な水圧下におかれていた、いわば深海魚にも似た彼の自我が、その圧力の消滅とともに、たちまち一挙に畸型的なまでに膨れ上ってしまったというべきか。とにかく歯止めのとれた車同然という形であった。」(第三部九「蘆花とキリスト教」)
1919年の4月にパリの平和会議に集う戦勝国の首脳に向けて、屑籠行きに定められたような「要望書」を書きしたためる蘆花とは「畸型的なまでに膨れ上ってしまった」蘆花であるにちがいない。だがそれより8年前、1911年の2月1日に一高の大教場で「謀叛論」の講演をする蘆花とはやはり「膨れ上がってしまった」蘆花であるのだろうか。さきに中野は蘆花教的自己膨張を「彼五十年にわたる自己枉屈の過去から一転して、にわかにとめどない自己肯定、自己拡大へと突っ走ったというだけ」のものだといっていた。この蘆花の自己枉屈をもたらす最大のものは兄蘇峰との相剋である。それは蘆花に運命づけられたものであることはすでにいった。蘇峰は、日露戦争を遂行し、軍事大国化を日本に方向づけていった元老山縣有朋を背景にもつ首相桂太郎と日露戦の前後の時期に「蜜月状態」を作り出していたのである。蘇峰の国民新聞は戦後の日比谷事件でもっとも忠実な政府の御用新聞として暴徒の激しい攻撃を受けることになる。やがて蘇峰は寺内朝鮮総督の依頼を受けて京城日報紙の経営に協力する。その蘇峰と九州から満州・朝鮮旅行の途次、京城で出会って以後(1913)、蘆花は蘇峰との関係を断絶し、死に臨む場面での和解にいたるまで(1927)兄蘇峰と会うことはなかった。この兄弟の相剋は、軍事帝国化する日本のポジ像を兄蘇峰に負わしめ、弟蘆花には帝国化する日本のネガ像を負わしめることになるだろう。だがここで間違えてはいけない。ポジ像とネガ像の違いはあれ、彼等兄弟はこの帝国のそれぞれの像を担いうるほどにそれぞれの自己を肥大させていることを。
中野は健次郎がもっていた「豪農意識」をしばしばいっている。「彼の周囲にに終始いたものは、妻愛子を除いては、多少の出入りはあったにしても、すべてつねに三人ないし四人の小間使?や女中(それも十代からせいぜい二十歳をこえたばかりの小娘なのだが)ばかりであった。言葉は悪いが、いうなれば小ながら、まるでハレムの主、お山の大将であったといってよい。健次郎というこの人物、一面では徳冨家的豪農家風に強く反撥しながらも、そのくせ血による意識の矛盾とでもいうか、結構みずからもまた本能的に豪農意識、大旦那意識の一生持主であったようである。」(第三部七「閑居三年」)この豪農意識を素地としてもつ蘆花は、蘇峰との相剋を通じて己れを明治国家のネガ像にまで肥大させていったのであろう。
ところで私がいまここでしていることは「謀叛論」のネタ割れ的な人物暴露といった性格をもつものであることは否めない。それはすでにいうように究極的に天皇を受け手(アドレサート)としてもったような「謀叛論」の言説は蘆花といった人物なしにはないと考えるからである。そしてこの蘆花が送り手(アドレッサント)であることによって、「謀叛論」という言説はどのような性格のものとなったかを考えてみたかったからである。
冒頭に引いた『徳冨愛子日記』に見るように「大逆事件」の報を聞いて蘆花は「どふしても天皇陛下に言上し奉る外はあらじ」といったという。これはだれもがする反応ではない。というより、「まず天皇に」といった反応をするものとは一体だれなのかと問うべきであろう。蘆花は「謀叛論」の講演を、彼の住む武蔵野の農村から世田谷を通って東京に出る道すがらに見る井伊直弼と吉田松陰の墓にふれながら、今日の日本を造り出した幕末の先覚者、志士たちを回顧することから始めている。「畢竟今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌を打つたに過ぎぬ。彼等は各々其位置に立ち自信に立つて、為るだけの事を存分に為て土に入り、其余沢を明治の今日に享くる百姓等は、さりげなく其墓の近所で悠々と麦のサクを切つている。」
蘆花はいま「我が先覚の志士」に同一化して物をいおうとしている。蘆花が天皇を究極の受け手とする言説を語りうるのは、この志士に同一化することによってである。徳冨家という熊本の豪家の血統と意識とが、天皇をその志の受け手としてもちうるような勤王の志士たちとの同一化を健次郎に可能にさせている。「諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れてゐる」という蘆花によってはじめて「謀叛する志士」の真の志が語られ、彼等を処刑することの過ちが訴えられることになるのである。
「彼等十二名を殺したくはなかった。生かして置きたかつた。彼等は乱臣賊子の名を受けてもただの賊ではない。志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。況んや彼等は有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み身を献げて人類の為に尽さんとする志士である。其行為は仮令狂に近いとも、其の志は憐れむべきではないか。」
そして蘆花は、彼以外のだれもいうことのできない言葉をもって、この講演を閉じるのである。
「諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でも無い。恐るべきは霊魂の死である。・・・我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。」
「諸君、幸徳君等は乱臣賊子として絞台の露と消えた。其行動について不満があるとしても、誰が志士として其動機を疑ひ得る。諸君、西郷も逆賊であつた。然し今日となつて見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤つて乱臣賊子となつた。然し百年の公論は必ず其事を惜むで其志を悲しむであらう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研(みが)くことを怠つてはならぬ。」
これは殉難者をその志において称える言葉である。だがこの言葉はすでに蘆花が自らを同一化させた維新の志士をこえて宗教的予言者のものになっているではないか。8年後(1919年)の蘆花夫妻は新世界にアダムとイヴとして再生してエルサレムの地にいる。8年前(1911年)一高の大教場で獅子吼する蘆花はすでにエルサレムへの旅立ちの地に立っていたというべきではないか。
私は数年前、社会主義をその政党とともに殆ど溶解させてしまった現代日本の政治状況に立って、「大逆事件」に始まる大正という時代の読み直しをした。なぜ「大逆事件」からかといえば、この事件は世界史にはっきりと「帝国」として登場していった日本の社会主義に対する先制攻撃というべき国家的テロルであったからである。その「大逆事件」を戦後日本の司法は再審を拒否し、事件をそのままに存続せしめていることを、そしてわれわれ国民もまた事件に蓋をして、記憶から喪失させていったことを田中伸尚の『大逆事件—死と生の群像』[9]によって教えられた。それゆえ私は大正の読み直しを「大逆事件」の読み直しから始めたのである。「大逆事件」から読み直すことによって大正がどう読み直されたかは私の著書[10]が語るところである。私は「大逆事件」を読み直しながら数少ない同時代の証言をも読んでいった。啄木が残した文章も歌も「事件」が同時代の知識青年に与えた深刻な打撃をわれわれに教えた。だが「事件」について唯一公けに語った蘆花の講演「謀叛論」は何をわれわれに教えるのか。
実は私は蘆花の「謀叛論」をその時、すなわち「大逆事件」の読み直しの時にはじめて読んだのである。それは私の怠慢をいうことでしかない。だが啄木の「時代閉塞の現状」が日本近代を再考しようとするものの必読の文献であったように、「謀叛論」がそうした文献としてあったわけではない。「謀叛論」はその危険なタイトルにもかかわらず禁書ではない。多くの伏せ字によりながらも昭和4年(1929)に全集に収められて公刊されている[11]。だが私は「大逆事件」を読み直そうとしたその時にはじめて「謀叛論」を読んだのである。私はこれに違和感を覚えた。これは違うと思った。「謀叛論」は蘆花のパフォーマンスであって、それ以外のものではないと思った。蘆花という人物が「謀叛論」を語ることが事件なのであって、「謀叛論」という言説が事件であるのではないのだ。
私がここで「謀叛論」を語る蘆花という人物とは誰かという、人物論的方法をもって語ってきたのはそれゆえである。
[1]蘆花の妻愛子の日記である。中野好夫『蘆花徳富健次郎』第三部から引いている。日付は「(明治四四年)一月二五日」である。その前日二四日には幸徳らに対する死刑が執行されている。この『日記』にも「午後三時比新聞来。オオイもう殺しちまつたよ。みんな死んだよ、と叫び給ふ」という記述がある。
[2]『徳富蘆花集』神崎清編、明治文学全集42、筑摩書房、1966。
[3]『蘆花日記』全7巻、中野好夫・横山春一監修、筑摩書房、1985〜86。
[4]『蘆花全集』全20巻、新潮社内蘆花全集刊行会、1928〜30。
[5]戦後50年という時期のこの思想史的作業は『近代知のアルケオロジー』(岩波書店、1996)にまとめられている。
[6]「大逆事件」の読み直し作業は『大正を読み直す』(藤原書店、2016)にまとめられている。
[8]中野はこう注記している。「第一回は明治三十八年夏の富士山上での経験、第二回は父一敬の死の直後、大正三年五月二十七日の深夜、父の魂魄が球状の光りものになって粕谷の庭の暗闇を飛んで過ぎるのを見たと、彼はその日記に記している。」(第三部九「蘆花とキリスト教」)
[9]田中伸尚『大逆事件—死と生との群像』岩波書店、2011。
[11]『蘆花全集』第19巻、新潮社内蘆花全集刊行会、1929。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.04.17より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1033:190418〕
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