5月18日「資本主義国家の成立-世界資本主義論の再構築のために」 矢沢国光報告(要旨)・伊藤誠コメント 世界資本主義フォーラムのご案内
- 2019年 5月 12日
- スタディルーム
- 世界資本主義フォーラム伊藤誠矢沢国光
- 国籍のない商業から国籍のある商業へ
- 「国民経済」
- ウィーン体制
- ビスマルク外交
- 参考文献
- 主催 世界資本主義フォーラム
- 日時 2019年5月18日 午後2時~5時 (受付開始 1時30分)
- 会場 本郷会館 東京都文京区2-21-7 電話 03-3817-6618
- 報告 矢沢国光
- コメント 伊藤誠(東京大学名誉教授)
- テーマ 資本主義国家の成立――世界資本主義論の再構築のために――
- どなたも参加できます。資料代 500円
- 問合せ・連絡先 矢沢 yazawa@msg.biglobe.ne. jp 携帯090-6035-4686
※歴史的事実関係については、別刷「暫定・資本主義像」を参照してください。
資本主義のオルタナティブを構想するためには、迂遠のようではありますが、資本主義の発生期までさかのぼって、世界の政治経済史、とくにパクス・ブリタニカの生成・発展・終焉の歴史のうちに、脱資本主義・脱主権国家の契機を探ることが必要だと考えます。[パクス・ブリタニカを引き継ぐパクス・アメリカーナとその行き詰まりについては、次の機会に譲ります]
[1]世界商業と国家――国籍のない世界商業と国籍のある世界商業
資本主義の起源を世界商業に求めるとは、どういうことでしょうか。13世紀に北イタリアから始まり17世紀オランダで最盛期を迎えた無国籍の世界商業(貿易と金融のネットワーク)は、イギリス、フランス等の国家に取り込まれ(重商主義)、国富の増大の手段となりました。しかし、国家に取り込まれたのは、世界商業の一部だけで、無国籍の世界商業は依然として国境の外に残りました。20世紀末以降の「グローバル金融化」は、「無国籍の世界商業」の復活・再拡大とみることもできます。
イギリスを世界の工場・世界の貿易センター・世界の金融センターへと押し上げたのは、「国家としての世界商業」――2つの三角貿易――でした。この「商業革命」(1640-1740年、川北稔)が、都市の消費拡大・労働賃金騰貴により、産業革命の促進要因となりました。
(1)15世紀に始まるスペイン・ポルトガルのラテン・アメリカ植民地化は、金・銀を両国にもたらしたが世界商業には発展せず、蘭・仏・英等の世界商業に回収された。
(2)ヴェネチア、アムステルダム、ハンブルク等、都市国家による世界商業は、国籍のない商人資本の活動であり、世界資本主義の生成期の「商業資本主義」とみることができる。都市国家であっても、商船が武装し、武力を行使することは、商業活動にとって不可欠であった。ただ、武力はあくまで商業活動のための武力、商船隊の武装であって、主権国家としての武力(国軍としての海軍)ではない。
(3)これに対して、国家主導の重商主義的商業がある。
オランダは、東インド会社、西インド会社を作り、「重商主義帝国」的活動もしているが、オランダにとっては、バルト海とイベリア半島を結ぶ「母なるヨーロッパ貿易」こそが主流であり、軍事的侵攻が際だつ東西インド会社は傍流であったという[ティールホフ『近世貿易の誕生 オランダの「母なる貿易」』知泉書館2005]。
これに対して、イギリスの東印会社は、20万人の兵力を擁して、商業組織というより国家の出先機関そのものであった。
*重商主義は、宇野『経済政策論』でも、「生成期の資本主義」の政策として取り上げられている。宇野は重商主義の政策として、(国内工業や貿易会社への)特許制度、航海条例、(保護関税、輸出促進等の)貿易政策、(国内食糧確保のための)穀物条例を挙げている。宇野は、商人資本・重商主義を「産業資本確立のための地ならし」とみている。だから、産業資本の成立によって商人資本は消滅するとする。
宇野『経済政策論』に欠けているのは、重商主義といいながら、15-18世紀の世界商業についての記述がまったくないこと。商人資本のイメージが問屋制マニュファクチュアを産みだした国内商人になっており、都市国家や無国籍の商人[ディアスポラ(散らされている者)の商人といわれる]の世界商業を念頭に置いていない。
[2]国家と資本主義経済の結合――「財政=軍事国家」というシステム
「国家」とは何か。シュンペーターは、「共同の困難」から国家が生まれたと言います(『租税国家の危機』)。領主が(外敵という)「共同の困難」を指摘し、等族がこれを承認したその瞬間、私的領域に対する公的領域――「国家」――が生まれた。近代国家では、「共同の困難」に対処する方法は徴税です。それゆえシュンペーターは、国家はすべからく租税国家であり、「租税国家」という言葉は同義反復である、というのです。
租税国家の代表は、1688年名誉革命で国王から財政権力を奪ったイングランド地主議会の「財政=軍事国家」ですが、「財政=軍事国家」のイギリスこそ、資本主義と国家が結合した最初の近代国家といえます。
イギリス「財政=軍事国家」の要点は、(1)戦費の調達を国王の借金から国の借金(公債)に変えた、(2)公債発行による資金調達を、アムステルダムやロンドンの金融市場に求めた、(3)議会が設立したイングランド銀行が公債を発行した(議会による公債の元利保証)、(4)租税によって公債の元利支払いをした(17世紀後半、減債基金とコンソル債)、という点です。
イギリスは、こうした「財政=軍事国家」のシステムによって、戦時に膨張した借金をその後の平時の租税によって返済し、潤沢な戦費の調達によって、ヨーロッパ諸国間戦争に勝ち抜くことができました。それと対称的に、大国フランス[ルイ14世の絶対主義王権]は、「財政=軍事国家」への転換に失敗して1789年革命で打倒され、ナポレオン戦争でも敗退しました。
17世紀末以降、主要国において資本主義と国家が結合して近代主権国家と「国民経済」が生まれた。その際、国家と資本主義を結ぶ機構は、財政と中央銀行である。中央銀行は主権国家の金融政策をにない、中央銀行券が国民通貨となる。中央銀行の通貨発行権は、軍事や外交とならぶ主権国家の主権の一部と考えられる。
中央銀行をもち、その中央銀行券を国民通貨とする経済が「国民経済」である。(註)
(註)岩田弘は、宇野弘蔵の「純粋資本主義」モデルとそれを基準とする「タイプ論」を批判して、資本主義はイギリス、ドイツ、アメリカといった各国資本主義を個別的に取り出して(その特質をタイプとして)規定できるものではなく、世界資本主義の全体像としてはじめて規定しうるとした[岩田弘『世界資本主義』1964未来社]。宇野弘蔵が19世紀中葉のイギリス資本主義を十年ごとの循環恐慌によってその内的矛盾を処理しつつ発展する姿を原理的に明らかにしたのに対して、岩田は、そのイギリスの世界工業、世界商業、世界金融の力学がイギリスを取りまく諸資本主義国・半資本主義国を世界編成する様相を描き出した。だが岩田の世界資本主義論は大きな限界を持っている――「国民経済」の規定を欠いていることである。岩田が『世界資本主義』で叙述した19世紀中葉の上記のような世界経済編成にあっては、イギリスの金本位制が国際金本位制となり、あたかも世界経済はポンドという単一通貨による単一市場を形成しているかのようであった。そのことが、「国民経済」を見えにくくさせたのではないか。
[3]主権国家の形成と戦争の意味の変化
(1)主権国家は、どのようにして形成されるのか。他の主権国家の軍事的脅威に対抗して形成される。「戦争が国家をつくる」のであって「国家が戦争をつくる」のではない[ティーリー]。
主権国家は「戦争のための国家」であり、「主権国家の存在それ自体が戦争の原因となる」--歴史は主権国家について、こうした本質を示しているように思う。
(2)イギリス「財政=軍事国家」は、18世紀、スペイン、オランダ、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシア等との5つの戦争を通して、グローバルな海上覇権を確立した。さらに、1815年には対仏戦争勝利を主導して、ヨーロッパの覇権国となった。
フランスは、絶対王政が資本主義との結合に失敗して(財政危機のあげく)打倒され、革命戦争とナポレオン戦争で、史上初の「国民軍をもつ主権国家」(=国民国家)となった。ナポレオン敗退後のウィーン体制下でようやく、資本主義的発展を遂げて国民経済となった後発のプロイセンは、ビスマルクの豪腕でオーストリア、デンマーク、フランスとの3戦争を勝ち抜いてドイツ帝国を建設し、富国強兵に専念して、イギリス産業革命の成果を取り入れただけでなく、イギリスを上回る重化学工業をもつ陸軍強国となった。
ロシアは、徴兵制と穀物の飢餓輸出で陸軍大国をつくってきたが、クリミヤ戦争の敗北で目覚めて近代化に舵を切り、19世紀末にはヨーロッパ金融市場からの資本導入で重工業・鉄道建設・軍備の近代化を実現した。
欧州列強のアジア植民地化の脅威を前にして、わが日本は、幕藩体制を打倒し、日清戦争により中央集権国家化と富国強兵に突き進んだ、というぐあいです。
(3)ヨーロッパ諸国間戦争の原因は、17-18世紀には、領土獲得、通商航海や王位継承をめぐる争いであったが、主要国が主権国家・国民国家に移行したあとの19世紀には、領土の獲得・保全、通商航海の争いに加えて、民族解放・国家形成の争いが登場してきた。
(4)戦争の意味の変化
戦争の原因は変遷したが、戦争の目標――敵兵力に致命的打撃を与えて有利な講和条件に持ち込むという戦争の目標――は変わっていない。戦争は、国家間外交の延長としての合法的手段であった。(クラウゼヴィッツ的戦争)。
第一次大戦では、こうした17-19世紀的戦争の目標・態様が一変して、「総力戦」になった。こうした戦争の意味の変化は、第一次大戦が始まったあとはじめて明らかになってきたことであるが、「総力戦」のもつ重大な意味は、かならずしも各国の政治に反映されなかった。こうした中途半端性が、第二次大戦に突入させた。
【補足】●主権国家システム
冷戦体制崩壊後の今日の諸国家は、「主権国家」とされる。旧ソ連・東欧諸国も、そして改革開放後の中国も「主権国家」を自認している(註)
(註)中華人民共和国には、バンドン会議を主導した周恩来のような主権国家論と、文革を発動した毛沢東のような革命国家論の、二つの国家論が混在していた。毛沢東・文革の「永続革命」は対外的には「革命の輸出」であり、これは他国の主権の侵害である。主権国家は、「主権の相互承認」を前提とするので、他国の主権を否定する国家は主権国家ではない。中国は文革の否定を経て、今日では主権国家を自認している。
[4]パクス・ブリタニカの意味
1815年、イギリス軍がナポレオン軍を破り、以後1914年の第一次大戦までの100年間、欧州列強間にはクリミヤ戦争を除いて大きな戦争はなく、「パクス・ブリタニカ」といわれる。
「パクス・ブリタニカ」は、世界資本主義の発展段階論としても、「パクス・ブリタニカ段階からパクス・アメリカーナ段階へ」(河村哲二氏)とみられている。この百年間の「戦争なき世界秩序」はどんなしくみによるのか?そこでイギリスはどのような役割をはたしているのか?パクス・ブリタニカはなぜ崩れたのか。
(1)パクス・ブリタニカは、1815-1914とされるが、1870年代-1914はパクス・ブリタニカの崩壊期とみたほうがよい。(「両大戦」がパクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行期)。
(2)パクス・ブリタニカは、世界政治の中心部としてのヨーロッパ政治と、ヨーロッパ政治によって規定される世界政治、という構造をもつ。この間のヨーロッパ政治の「安定」は、ヨーロッパ5列強(英仏露墺普)の協調外交による。協調外交の前半はウィーン体制下のイギリス外交、後半はビスマルク外交による。
ナポレオン戦争の戦後処理としてのウィーン体制は、「正統主義」、つまりフランス革命以前のヨーロッパ諸国王体制への復帰を基本理念としつつも、じっさいには、ナポレオン戦争の過程で生まれた変革の多くが追認された。たとえば、ドイツについては、ナポレオンによって整理統合されたドイツ諸国の枠組が「ドイツ連邦」として引き継がれ、神聖ローマ帝国の復活はなかった[岩崎周一『ハプスブルク帝国』]。
「ウィーン体制」は、英・墺・普・露の反仏同盟として発足するが、ウィーン会議には、敗戦国フランスも加えたG5体制。ウィーン会議の議長国は墺のメッテルニヒだが、大陸のG4は、〈北方3列強(墺普露)〉対フランスという構図になっており、イギリスが中立の立場で勢力均衡を図る、というのが1815-48年のパクス・ブリタニカである。
イギリスは、ヨーロッパ大陸の外に位置するゆえに「領土を要求しない」立場を貫くことで「公正な調停者」の役割を果たすことができた。[海軍大国のイギリスの欲する「領土」は海上にあった。]
パクス・ブリタニカの後半は、じつはビスマルク外交であった。イギリスは領土は要求しなかったが、海上権益は死活問題であり、ロシアの南下は座視できなかった。そのためロシアが黒海での海軍基地と海峡の支配を狙ったとき、英仏連合軍を出動して、クリミヤ戦争になった。
その後も英露の対立は続き、その調停をビスマルクに任せるほかなかった。
ビスマルクは後発のドイツ帝国にとっては平和維持が必要であると考えていたが、1890年失職。ヴィルヘルム2世はイギリスへの挑戦に突き進み、第一次大戦を引き起こすことになる。
(3)ヨーロッパ外の世界では、帝国からの独立戦争や列強による植民地戦争が頻発したが、これらが局地的戦争に止まったのは、イギリス海軍によるグローバル海上覇権とイギリス主導の自由貿易体制が列強に経済成長をもたらしたことによる。
(4)1873年に始まる大不況が自由貿易による世界経済成長を終わらせたこと、重工業化を背景として列強が大軍拡競争(その中心は英仏独露日等の建艦競争)に突入したこと――これらの要因がパクス・ブリタニカを崩壊させ、列強の第一次世界大戦に帰結した。
[5]第一次大戦と戦争の意味の変化――「総力戦」の二つの意味
オーストリアとセルビアの対立が、三国同盟と三国協商の世界戦争(第一次世界大戦)へと発展した。17-19世紀的戦争のつもりで開始した世界大戦は、予期に反して長期化し、「総力戦」になった。戦争の性格が「合法的な手段としての戦争」を超えて「総力戦」になってしまったことは、「パクス・ブリタニカ」の崩壊を意味する。
「総力戦」には2つの意味がある。
第一に、19世紀後半の資本主義による工業力の発展が、軍事的破壊力を飛躍的に拡大し、しかもその軍事力は、国民(兵士・労働力)と経済資源の総動員体制を要求した。国民の総動員態勢は、国民の「生活」保障を必要とする。「福祉国家」は、総力戦の産物である。
第二に、戦争は、軍隊と軍隊の闘いに止まらない、国力と国力の闘い、したがって、相手国の国民生活と国民経済全体の殲滅をめざす闘いになった。ドイツの降伏は、戦場での敗北によるのではないことが、戦史の研究で明らかになっている。軍隊への補給の途絶、銃後の国民の飢饉、それによる軍とドイツ帝国の内部崩壊――つまり、イギリス経済力に対するドイツ経済力の敗北。
第一次大戦の「総力戦」としての中途半端性が、第一次大戦の延長としての第二次大戦への突入をもたらしました。第一次大戦から第二次大戦への過程で、世界資本主義は、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへと移行しましたが、これについては、別の機会に譲りたいと思います。
第一次大戦の、連合国の勝因は、軍事力の差ではなく、経済力の差であった。ドイツの敗因は、戦場における敗北ではなく、経済的困窮・飢餓状態による軍の内部崩壊・兵士の反乱を契機とする帝国体制の自壊による。
勝利した英仏=連合国側の終戦に対する対応も、「総力戦」による国民経済そのものの崩壊に対する対応ではなく、敗戦国の国民経済の復興という課題は(たとえばケインズの警鐘)無視され、18-19世紀的な、領地の拡大と賠償金による講和となった。その一方で、ドイツ軍部は温存された。そのけっか、残存軍部と軍隊の解体で失業者化・流民化した兵士たちが、「匕首伝説」でワイマール政府を批判し、ナチス運動の台頭をゆるすことになった。
戦争の本質が「外交の延長」から「総力戦」へと変わったことに対する認識の中途半端性により、人類は、再度の世界大戦に突入することになる。
イギリスは第一次大戦の戦勝国となったが、その勝利は、アメリカの参戦とドイツの自壊によるものであり、パクス・ブリタニカも第一次大戦で最終的に崩壊した。
ただ、世界一の経済大国に躍り出たアメリカも、第一次大戦終結時には、規模は世界一でも後発の国民経済にすぎなかった(アメリカの中央銀行の成立は1913年)。パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行とそれによって主権国家体制がどのように変化し、その矛盾と限界がどのような形で「オルタナティブ」を要請しているか。次の課題としたい。
ジョン・ブリュア『財政=軍事国家の衝撃』 名古屋大学出版会 2003
オブライエン『帝国主義と工業化』
富田俊基 『国債の歴史』東洋経済2006
川北稔『工業化の歴史的前提 帝国とジェントルマン』 1983岩波
キンドルバーガー『経済大国興亡史』
川北稔・木畑洋一編「イギリスの歴史」有斐閣2000
井手英策、財政学における「公」と「私」について考える
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005682704
村松怜「『近代財政』の再検討」
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-20150101-0069.pdf?file_id=104210
池上岳彦「現代財政学の視点--財政社会学と経済学--」
http://www.unotheory.org/files/2-14-4.pdf
神野直彦『財政』有斐閣2007
玉木俊明『近代ヨーロッパの形成 商人と国家の近代世界システム』創元社2012
中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』東洋経済 2016.12
松田武・秋田茂編『ヘゲモニー国家と世界システム』山川出版社2002
矢沢国光、 資本主義像の再構築(上) オランダ商業覇権はなぜイギリス重商主義帝国に敗れたのか
矢沢国光、資本主義像の再構築(中) イギリス・フランス・ドイツ資本主義にみる「国民国家」・「国民経済」の形成
矢沢国光、 資本主義像の再構築(下) 軍事=財政国家としての近代資本主義国家
矢沢国光、歴史における資本主義と国家のかかわり――脱資本主義・脱国家のために――
矢沢国光、 中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』を読む
矢沢国光報告「資本主義国家の成立―世界資本主義論の再構築のために―」へのコメント
2019・5・18. 伊藤 誠
矢沢報告の要旨は、連作論稿「資本主義像の再構築」上、中、下、(『情況』2016年4-5月号、同年6-7月号、2017年1月号)および「世界資本主義の終焉に向けて」(『情況』2018年新年号)にもとづいている。それらは、岩田弘『世界資本主義』(1964)を資本主義国家の形成発展の側面について、補強し再構築する試みをなしている。それはまた、宇野弘蔵『経済政策論』(改訂版、1971)が、マルクスの『資本論』の準備過程で残していた執筆プラン、「資本、土地所有、賃労働。国家、外国貿易、世界市場」における後半体系を、前半体系についての『資本論』における原理的考察にもとづき、研究の次元を異にする資本主義の世界史的発展段階論において、体系的に解明する試みを示していた発想に、ある意味でたちもどり、岩田世界資本主義論の世界市場にもとづく中枢部の資本主義的生産・金融システムの自律的動態の現実的考察の試みに、国民国家のとくに戦争国家としての役割を財政・金融面で重視して、補完しようとする研究をなしていると思われる。その試みは、宇野『経済政策論』についてもやや手薄であった資本主義国家の「財政=軍事国家」としての成立、発展の一面を補うものとなっている。その意味で教えられるところも多く、参考になった。
しかし、その考察全体は、もともと岩田世界資本主義論もそうであったように、『資本論』の経済学にもとづき、その資本主義市場経済の原理的考察にもとづき、資本主義の世界史的生成、発展、終焉の現実的過程を体系的に考察する試みであることが、より一貫して明確にされることが望ましいのではないか。どのような意味で、マルクス経済学による財政学、国家論を再構築しようとしているのかが、十分読みとれず、むしろ戦争=軍事国家としての近代国家の生成、発展史論一般として読まれるおそれもなくはない。
以下、報告要旨の5つの項目にそくして。
[1]国籍のない世界商業と国籍のある世界商業。商人資本に始まる資本は、もともと共同体的諸社会の間に生まれて、本来無国籍的アナーキーな原理を有しているが、現実的にはそのときどきの政治的軍事的権力と相互補完的に結合することも辞さない二重性を内包しているのではないか。13世紀のイタリアから17世紀のオランダにいたる商人資本も無国籍であったとはいえないのではないか。軍事的側面をふくめた都市国家の保護は、イタリアの商人も重要な後ろ盾としていた。他方、16世紀以降の世界商業の形成、拡大は、マルクスも重視しているように、新大陸をふくむ地球的規模での資本主義の成立基盤をもたらした。そのさい、『情況』の論稿(中)で川北稔『工業化の歴史的前提』(1983)により、奴隷貿易を中心とした本国―西アフリカ―西インド(あるいは北米大陸)-本国のルートを二つの三角貿易としている。しかし、マルクスと宇野が重視していたのは、毛織物をキー産業とする本国―新大陸―アジア―本国の三角貿易で、奴隷貿易は重要ではあれ、それのいわば副軸をなしていたのではないか。毛織物工業の勃興は、イギリスに典型的に進展した囲い込み運動による農民からの耕地の収奪を促し、イギリスでも18世紀末まで綿製品の2倍をこえる主要輸出品であり、綿工業での産業革命を技術的に準備したマニュファクチュアの代表的基盤をなしていた。生成期の資本主義の指導的産業をなしていたといえよう。
[2]16世紀から18世紀にいたる資本主義の重商主義段階において、近代国民国家が形成される過程で、まずその前半期にイギリスでも他の西欧諸国でも絶対王政が形成され、世界商業の覇権をめぐり戦争をくりかえしていたことを、どう位置づけるか。矢沢報告要旨では、名誉革命(1688)が「財政=軍事国家」としての最初の近代国家としているが、それは近代国家が絶対王政としてはじまり、いわゆる資本の原始的蓄積を貨幣的資産の蓄積と農民からの耕地の収奪との二面で推進する役割を担っていた歴史的意義と必然性とを軽視することにならないであろうか。と同時に名誉革命後の議会制度も貴族的な大土地所有者と資本家層の議会で、王権を制限はしたが存続させる側面も有していた。しかし、イングランド銀行設立(1694)とあわせ、この時期にイギリスが財政・金融の近代的体制を整え、「財政=軍事国家」としてのある種の近代化をはたしたことは認められてよい。しかし、それに失敗したことが、フランスのナポレオン戦争での敗退の原因とまでいるかどうか。
[3]17-19世紀ヨーロッパ諸国間戦争の意味。この時期をつうじ戦争が国家をつくることが強調され、国家間外交の延長としての合法的手段としての戦争が、あいついで「財政=軍事国家」をヨーロッパ諸国、さらに日本に生じていったとされている。その総括にはいくつかの意味で過度の一般化がふくまれていないか。まず、歴史上、古代以来、国家は事実上、戦争と交易との二面を他国との間にくりかえしてきた。しかし、その戦争と交易は、歴史的にみて、諸社会の生産諸関係が生産諸力の高度化をともない、変化するにつれて、その役割と意義を変化させてきたのではないか。
問題とされている17-19世紀については、あきらかに資本主義の生成、発展との関係で、戦争の果たす役割が問われなければならない。17-18世紀には世界商業の形成と資本の原始的蓄積をすすめる、イギリスに典型的な重商主義的戦争の世界史的意義が読みとられてよいのではないか。
ついで[4]で問題とされているパックス・ブリタニカの19世紀には、確立されて成長期にはいったイギリス産業資本の自律的蓄積を中軸に、自由貿易運動が実現されてゆき、むしろ大きな戦争はない自由主義段階をみる。そこでは、戦争は資本主義にとって不可欠の条件ではないし、資本主義国家も戦争国家としての役割を縮小しうる可能性が示されていたのではないか。その側面にそって、『資本論』の原理的体系も、抽象可能とされていた。
しかし、続いて19世紀末以降の金融資本の形成とその基盤をなした重工業の台頭の過程で資本主義は海外投資の圏益を植民地の再拡充、関税政策により国家主義的に擁護する帝国主義政策を強化し、第一次大戦を必然化していった。
[5]パックス・ブリタニカは、重工業を基礎とする金融資本の組織的成長が、19世紀末の大不況を生じたイギリス産業の停滞化をうけて、それに追いつき追い抜くドイツ、アメリカなどの新たな帝国主義的列強の競い合う帝国主義的対立を生じ、第一世界大戦の危機を招いた。矢沢報告要旨では、その総力戦の国民総動員体制としての戦争の意義の変化と、その帰結としての福祉国家の誕生を重視するとともに、大戦の中途半端性から、その延長としての第二次大戦をもたらし、その過程でパックス・アメリカーナへの移行を生じたとされている。
しかし、第一次大戦の重要な意義は、ロシア革命とソ連型社会主義の誕生を促したことにあり、福祉国家の理念もそれに対抗する意義を有していたのではないか。第一次大戦の「中途半端性」とは何を意味しているのか。戦債賠償問題の重圧と大恐慌の破壊的影響をうけて、独、伊、日の枢軸諸国にファッシズムが台頭するのも社会主義に対抗する資本主義の変容形態をなしていた。ニューディール型福祉国家に移行するアメリカ、西欧諸国とソ連も参加する同盟諸国とのあいだのいわば三つ巴のより大規模な破滅的第二次大戦は、第一次大戦の延長とはいえない歴史的意義を示しているといえないであろうか。
こうした問題は、パックス・アメリカーナの世界資本主義をめぐる次回報告の内容にかかわる。と同時に、現代の世界資本主義をどう総括するかは、現代の社会主義をどう再考するかと密接に関連する課題ともなるであろう。岩田世界資本主義論のその観点からの拡充、補充の試みにも期待したい。
参考文献:
伊藤誠「入門資本主義経済」(2018) 平凡社新書。
2019年5月18日世界資本主義フォーラム 案内
※今回は、2時開始です(いつもは1時半ですが)。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/gmap/detail.php?id=10136
アクセス 地下鉄本郷三丁目から徒歩5分 (下の案内図参照)
◆東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目」より徒歩5分。
*丸ノ内線「本郷3丁目」駅からの行き方:「春日通り方面」出口から出て左へ。大横町通りに出たら右折し、100メートル行くと三菱UFJ銀行のATMがあります。ここを左折すると三河稲荷神社。その隣です。
◆都営大江戸線「本郷三丁目」3番出口より徒歩6分
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■2019年6月以降の世界資本主義フォーラムの予定
6月15日(土) 平川均(名古屋大学名誉教授)[一帯一路構想とアジア経済]
参考文献(平川):
http://www.world-economic-review.jp/impact/article1048.html
http://www.world-economic-review.jp/impact/article1130.html
http://www.world-economic-review.jp/impact/article1291.html
7月以降 五味久壽(立正大学名誉教授)[中国経済のゆくえ]
岩田昌征(千葉大学名誉教授)[東欧体制の崩壊・市場経済化]
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1038:190512〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。