岩田専太郎と小川原脩の戦争画
- 2019年 9月 26日
- 評論・紹介・意見
- 髭郁彦
2019年6月4日から10月20日まで、東京国立近代美術館のMOMATコレクション展で、5点の戦争画が展示されている。藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」(1944年:以後初出時に制作年をタイトルの後に表記する)、中村研一の「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」(1945年)、岩田専太郎の「小休止」(1944年)、小川原脩の「成都爆撃」(1945年)、三輪晁勢の「ツラギ夜襲戦」(1943年) である。MOMATコレクション展では、戦争画が3点しか飾られないことが一般的であるが、今回は終戦記念日を挟む期間の展覧だからであろうか、5点飾られている。
私は最初、藤田の暗く重い絵と、中村の青空の下で墜落する三機の軍用機が描かれた絵という極めて対照的な光度の絵が向かい合って展示されている点が気になった。この二枚の絵を巡る問題をじっくりと検討してみたいという欲求もあったが、このテクストでは、それ以上に気になった岩田と小川原の戦争画に関する問題について考察していきたいと思う。何故なら、先ず岩田に関しては、彼は挿絵作家として有名であると共に、美人画作家としてもよく知られていたが、彼の画家としてのそのキャリアと戦争画との関係性を理解することが難しかったからである。小川原に関しては以下のような理由があった。戦後すぐに彼は軍国主義政策に協力したという責任を負わされ美術文化協会から除名処分を受けたが、同じように日本画壇の中心から追放された藤田嗣治とは異なり、小河原が自らの描いた戦争画の責任問題を生涯問い続けた画家であり、この点について詳しく検討していきたいと考えたからである。
二人の画家は十五年戦争中の戦争画制作を積極的に牽引した画家であったとは言い難い。だが、今回展示されたこの二人の画家の二枚の絵を中心的に見つめながら、彼らの戦争画を考察することによって、戦争画の持つ社会的な、また、歴史的な重さと意味とが浮き彫りにできるのではないかと思ったのである。すなわち、藤田や中村のような当時の戦争画制作活動をリードしていった画家の作品だけでは捉えることができない戦争画の問題点にスポットを当てることができると考えたのである。
岩田専太郎の略歴と画風
弥生美術館学芸員の松本品子が書いた『岩田専太郎:挿絵が画壇の鬼才』(以後、松本の言葉の引用はこの著作からである) や岩田専太郎が書いた『私の履歴書』を読むと以下のことを知ることができる。岩田専太郎は1901 (明治34) 年に東京浅草で生まれた。元々徳川家の御家人の家系であったが、明治期の士族階級の没落によって貧しい幼年時代を送った。13歳から京都に移り住み絵を習い始め、友禅図案家、日本画家、印刷図案家の弟子となる。18歳のときに東京に戻り、お菓子屋の見本描きなどをして生計を立てていたが、大衆文芸雑誌『講談雑誌』を発刊していた博文館に挿絵画家として採用される。その後、着々と実力をつけ様々な雑誌に挿絵を描くが、1926 (大正15) 年に発刊され、ベストセラーとなった吉川英治の『鳴門秘帖』の挿絵を描いたことで画家としての地位を確固たるものとした。その後も挿絵に加えて多くの雑誌の表紙に美人画を描くなど、順調な画家人生を送る。だが、日本が戦争の時代に突入し、仕事が激減する。この時期、岩田は戦争画を多数描くがこのことについては次のセクションで詳しく検討する。戦争によって彼は全財産を失うが、戦後、挿絵の依頼は再び急増。絵画制作の他にもエッセイの連載なども行うようになり、忙しい毎日を送るようになる。しかし、1974 (昭和49) 年、脳出血により急死する。73歳であった。
岩田の一生をこのように眺めていくと、戦中の一時期を除き画家として十分に成功した人生であったと判断できるが、彼の絵の特徴について一言述べておく必要がある。前述した松本が書いた本によると、岩田は生涯で6万点に及ぶ挿絵を描いたが、その殆どのものが美人画であった。彼の描いた雑誌の表紙や小説の装丁も、その殆どすべても美人画であった。つまり、岩田は大正・昭和期の挿絵画界における美人画の巨匠と形容することができる画家であった。松本は「専太郎の挿絵の描き方には、さまざまな工夫のあとが見られる。たとえば、極端なまでのクローズアップやローアングルの手法、効果的な光と影の使い方、装飾的な画面構成などである」と書いているが、ここで指摘されていることは岩田の美人画の特徴と言ってよい。この指摘を別な言葉で言い換えれば、流行に敏感で、大衆的欲望を強く刺激するスタイルの絵を岩田が描いていたと述べ得るだろう。
雑誌の挿絵という問題を考える場合、雑誌が週に一度や月に一度など決められた日時に発行される点を忘れてはならない。定められた時間内で如何に効果的に、上手く仕上げるかが挿絵作家にとって最も重要なことである。また、挿絵はそれだけで作品全体を構成するものではない。何かが書かれたテクストと一緒になって一つの作品世界を作り上げる。それゆえ、書かれたものと描かれたものが如何に相乗効果を発揮するかという点も重要となる。歴史学者の西山松之助は岩田の美人画について、『岩田専太郎の世界 おんなⅠ:色は匂へと』(以後『おんなⅠ』と表記する) の中に書かれた「妖しいお色気―岩田専太郎の女―」において、「あきらめているようでしかも怨むがごとく、慕うがごとく、泣くがごとく、訴うるがごとくであり、それでいて陶酔している甘美な女体がわなないている。つまりそういう美人は、誰でもちょっと言葉をかけてみたくなる女なのである」と語っている。この西山の主張は岩田の美人画を高く評価したものであるが、そこには万人受けを狙った美人のステレオタイプ化を岩田が強く押し進めていった側面がある点も透けて見えるのではないだろうか。岩田の描く女性に高貴な清浄さというものはない。如何に装飾しようとも、どこか俗っぽく下卑た女であるという印象は否定できない。つまり、キッチュなのである。
『おんなⅠ』の冒頭部分には岩田の名言集が掲載されているが、その中に「自分の絵は芸術ではないものだ。多くの方に、お気の召すものが出来れば、それでよいと考えている」という言葉が書かれている。この言葉を岩田の芸術家としての謙虚さと取るべきではないだろう。大衆迎合的姿勢の表明による自己肯定と取るべきであるように私には感じられる。その理由は次のセクションで詳しく考察するように岩田の戦争画が平板で、はっとするもののなく、つまり、ロラン・バルトの用語を使うならば、彼の戦争画にはプンクトゥムがまったくないのからである。
岩田専太郎の戦争画
上述したように、岩田の絵画的想像力の限界をはっきりと示すものが彼の戦争画ではないかと私には思われる。岩田は東京国立近代美術館に保管されている「小休止」と「特攻隊内地基地を出発す(二)」(1945年:「特攻隊内地基地を出発す(一) 」は伊原宇三郎によって前年に描かれている) という二つの作品の他にも多数の戦争画を積極的に描いた。國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センターの「招魂と慰霊の系譜に関する基礎研究」というサイトには「靖国の絵巻」という項目があり、そこには1939~1944 (昭和14~19) 年 まで陸軍情報部と海軍軍事普及部が編纂していた「靖国の絵巻」という作戦記録画集に収録された絵が掲載されているが、そのサイトで岩田の戦争画6点を見ることができる。「淅東作戦」(1941年)、「仏印風景」(1941年)、「米東亜侵略の牙城 マニラ占領」(1942年)、「陸鷲コレヒドール島猛爆撃」(1942年)、「ニユーギニア ジヤングル地帯の戦闘」(1942年)、「敵将方先覚わが軍門に降る」(1944年) である。これらの絵を見た印象は、確かに戦時下の大衆が納得するだろう絵ではあるが、戦争画としてのオリジナリティーは乏しく、他の作家の構図や写真を写したような作品が目につく。挿絵制作における大衆迎合性はここでも変わってはいないと述べ得るが、彼の描いた美人画のような華はまったく存在していない。
岩田の戦争画は私が知る限り、すべてが兵士中心の人物画であり、殆どすべての絵には複数の兵士が描かれている。だが、複数の人物の取っているポーズも表情も凡庸で、単調である。目を引くシーンが描写されている訳でもなく、人物一人一人の個性が強調されている訳でもなく、岩田が戦前に描いていた大衆のための挿絵の延長線上にあるものであると見なすことができる。岩田の絵には戦争というものへの深い問いや批判精神、戦争画というジャンルの絵の持つ特殊性への熟慮は少しも感じられない。時局が美人画を望んでいないから戦争画を描いたとしか思えないほど、彼の戦争画はテーマ的にも構図的にも貧しいものだ。その特徴が最もよく表れているのが兵士たちの表情だ。そこには戦争の持つ重さや暗さ、悲惨さ、残虐性、絶望感などがまったく表されていない。ある情景がある情景であることを単に示す情報を与えるためだけに描かれた作品。劇的な何ものもなく、戦争という状況に付属しただけの作品。そうとしか判断出来ない絵なのである。岩田は芸術としての戦争画を描ける画家ではなかったにも係わらず、戦争画を描いてしまった画家なのである。
今回の展覧会で展示されていた岩田の「小休止」と藤田の「血戦ガダルカナル」とを比較すれば、今述べた岩田の戦争画の特徴がはっきりと理解できる。日本画と洋画という違いはあるが、どちらの絵にも複数の兵士が描かれている。もちろん、兵士の小休止と戦闘シーンでは大きな違いがあるが、戦場のどのシーンを切り取り、作品にするかは画家の創作態度に係わる大きな問題である。藤田の作品を見てみよう。この絵の画面の暗さは異常とも言えるものである。よく見なければ、画面上で展開している肉弾戦が殆ど理解できない。光が弱すぎて殺戮場面の残虐性も暴力性も、悪魔的な蠢きも確認することが困難な作品である。だが、画面上部にある小さな稲妻の白い光によって、ドラスティックな神話性が実に効果的に表現されている。「血戦ガダルカナル」は、藤田の戦争画が大衆迎合のためのプロパガンダ絵画ではなく、彼が戦争画の巨匠を目指して制作したものであることが疑うことなく了解できる作品である。それに対して、岩田の「小休止」の戦争画としての貧弱さと通俗性は歴然としている。ここに描かれた兵士の服装を労働服に変え、兵器をなくし、何人かのプロレタリアートが仕事の合間に取る休憩の場面としたとしても、作品全体の雰囲気や構図的な違和感はまったくないであろう。つまり、この絵は小銃や軍服とった小道具によってしか戦争画と見做せず、戦争画としての独自性が欠如した絵なのである。さらに、その表情は何処か曖昧でぼやけているような印象を抱くものである。大衆迎合型、流行を追う挿絵師である岩田は戦争画というジャンルの絵を小手先でしか描くことができない画家だったのである。しかしながら、問題は岩田の戦争画制作技術のなさという点にあるのではなく、こうした戦争画とは無縁であるはずの画家さえも生活のために、絵の具を得るために積極的に戦争画を描いたことにある。だが、この点に関してはここではこれ以上は触れずに、最後のセクションで詳しく検討することとする。
小川原脩の略歴と作品の特徴
小川原脩は1911 (明治44) 年に、北海道の倶知安村 (現在は町になっている) で生まれる。1930年に東京美術学校 (現在の東京芸術大学) の西洋画科に入学し、1935年に同校を卒業。シュールレアリズム的絵画を数多く制作し、福沢一郎を中心として1939年に結成された美術文化協会の創立メンバーとなる。また、滝口修造を知り、滝口などが1936年に結成したアヴァンギャルド芸術家クラブにも入会する。だが、戦争の時代がやって来る。1943年の「バタン上空に於ける小川部隊の記録」で陸軍大臣賞を受賞し、報道班員として中国大陸に渡る。翌年に今回のMOMATコレクション展で展示されていた「成都爆撃」を作戦記録画展に出品する。戦後、故郷の倶知安で暮らすようになるが、1947年に突然、美術文化協会から除名通知を受ける。以後、中央画壇からは離れて創作活動を続け、2002年91歳で永眠する。
戦前、小川原は日本のシュールレアリスト画家の旗手の一人として注目されていた。「植物園」(1937年)、「砂漠の花」(1937年)、「雪」(1940年)といった作品は彼がまさにシュールレアリズム作家であったことを示すものである。戦争が激しくなる中、同郷の先輩だった陸軍報道部の山内一郎大尉との関係で戦争画を描くようになる。ただ、キャンバスに描かれた戦争画は三点だけである。この問題に関しても次のセクションで詳しく述べることにするが、一言だけ小川原の戦争画の印象を述べておこう。彼の戦争画は迫力もなく、構図的にも脆弱なものでとても大作とは言い難いものである。
戦後の小川原は北海道の風景、馬や犬などの動物をモチーフとした作品を描いていったが、そうした作品には伸びやかさや大らかさとは対極の、暗さと孤独感とが滲み出ている。彼の戦後の代表作に「群れ」(1977年) という作品がある。周りを取り囲む犬の群れから一匹だけ離れて地面を見つめる犬が描かれている。この絵の犬について、2006年の朝日新聞道央版に掲載されていた「戦争と画家・小川原脩の生涯」の中で、記者の中村尚徳は小川原と写真家の大石芳野とののやり取りを、「孤独な犬を、大石が「小川原さんのようですね」と言うと、小川原は「そのつもりだ」と答えた」と書いている。戦争画を描いたことがトラウマとして残り、さらに、他にも戦争画を描いていた画家がいたにも係わらず、自分だけが美術文化協会から追放されたという経験が、戦後の小川原の絵画創作を大きく規定したと言ってよいだろう。だがこの問題についても次のセクションで詳細に論じることとする。
戦後の作品テーマとして小川原は「個と群れ」という問題を挙げているが、小川原の戦後の絵の大きな特徴はその構図にあるように思われる。上記した「群れ」と「犬と雪山」(1970年) という作品を見ても、画面の下方には一匹だけぽつんと周りから引き離された犬が配置されている。前者の絵の上方には犬たちの群れが描かれており、後者の絵には雪山が描かれているという差異はあるが、両者の構図はかなり類似している。自分一人だけが排除され、孤立し、中心から離れて存在している。そうした思いが両方の作品に明確に表されている。小川原のこうした作品を見ていると、社会共同体と画家との関係、歴史的動きと画家との関係という問題が画家の作風に大きく影響を与えることを、さらには、小河原の画家としての立場や、対象を見つめる眼差しの寂しさをどうしても感じてしまう。
小川原脩の戦争画
小説家の神坂次郎、美術史家の河田明久他二名を著者とする『画家たちの「戦争」』の中に掲載されたインタビュー記事の中で、小川原は彼が描いた戦争画は三点であると語っている。それは上記した二点と「アッツ島爆撃」(1944年) である。作品としての点数はかなり少ないが、陸軍大臣賞の受賞や左官相当の待遇の報道班員として中国大陸に渡ったことによって、画家仲間たちから羨望の眼差しを向けられたことも不思議なことではなかった。それが後の美術文化協会からの除名の伏線になったと考えられる。小川原の戦争画に話を戻そう。先程示した朝日新聞の特集記事の中には小川原が従軍期間中に何十枚も丁寧に描いた秘蔵のスケッチブックがあり、小川原脩美術館が開館した後、それを公開することを彼が認めたと書いている。戦争画を描いたという自らの過去の行為と正面から向き合う必要があると小川原は考えていたのだ。
小川原の三枚の戦争画の中で最初に描かれた「バタン上空に於ける小川部隊の記録」は行方知れずになっているが、「アッツ島爆撃」と「成都爆撃」はアメリカの無期限貸与作品として東京国立近代美術館が所蔵している。どちらの絵も飛行機からの爆撃の様子が描かれている。「アッツ島爆撃」について『画家たちの「戦争」』にあるインタビューの中で、小川原は「僕がシュールレアリスムをかじっていたせいだと思うけど、これを見た人は何かストップ・モーションのような不思議な浮遊感を感じたようです」と述べている。この作品では大自然の雪山とその上空を飛ぶ銀色に鈍く輝く日本の爆撃機の編隊とがコントラストをなし、特殊な空間が描き出されているが、そこに戦闘場面は存在していない。小川原はこのインタビューで「成都爆撃」に関して、「この絵はあまりいいとは思いませんが」と語っている。確かに、向かって左上にある爆撃機の描写などは模型の飛行機のようであり、257.5×187.5cmという画面の大きさに比べて迫力がなく、大作とは形容し難い。また、小川原の三点の戦争画のいずれにも飛行機が描かれているが、この点について、インタビューの中で、「(…) 僕はたとえ描くにしても、殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった。もっと機械的な、そういうものでやりたい。そこで、飛行機ならば俺にも描けるぞ、と考えたわけです」と述べている。藤田のような激しい肉弾戦が展開する絵は小川原には描けなかったのだ。
小川原の戦争画の特質を更に理解するために「成都爆撃」と中村の研一の「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」とを比較してみよう。この二枚は今回の展覧会で隣り合って飾られていたため、比較することが容易だった。「成都爆撃」に関してはすでに述べたので、中村の絵を考察してから、二つの作品を比較する。中村の絵の上方には青空が描かれ、その下には雲の広がりがある。絵の中央部には撃墜された二機のB-29が、その下には体当たりした日本の戦闘機が墜落していく様子が描写されている。だが、画面の殆どの部分は青い空と白い雲である。それも明るい光に包まれたその場面は、そこに描かれている戦闘シーンがまるで嘘のような印象さえ受けるものである。戦闘シーンと明るい画面とのコントラストは見手に、驚きと異化効果を与えている。それに比べて小川原の絵は何処かちぐはぐで、無理に戦争画を描いている印象を受けてしまう。小川原も岩田と同様に戦争画を描けない、描いても戦争画のダイナミズムを絶対に描くことができない画家であったのだ。しかしこの点についての考察は最後のセクションで行うことにする。
十五年戦争以降日本で描かれた戦争画における岩田専太郎と小川原脩の作品の歴史的な位置や特質は何であったのかという問題に対して答えることで、このテクストを終わりにしたい。確かに二人の戦争画に対する制作姿勢も戦後の美術界での立ち位置もまったく異なっていたが、上記したように両者ともに戦争画の巨匠ではないにも係わらず戦争画を描き、そのことによって戦争協力をしたという共通点がある。しかし、もちろん二人の画家の戦争画に対する心情にはかなり大きな違いがある。先ずはこの点を考えてみる。
岩田が戦争画を描いたのは挿絵の仕事がなくなったためだからと言っても過言ではない。彼はイデオロギーや社会的変化とは無縁で、そうした問題を熟慮したこともなかったであろう。絵画ジャンルという問題もまったく考えたことがなかったゆえに、戦争画が何かということも考えずに描き、描いたことも少しも重視してはいなかった。言説ジャンルという問題に関してミハイル・バフチンは『ことば 対話 テキスト――ミハイル・バフチン著作集第8巻』の中に収められている「ことばのジャンルの問題」において、「スタイルがあるところにはジャンルがある。スタイルが、あるジャンルから別なジャンルに移されると、本来自分のものでないジャンルのなかで、そのスタイルの響きが変わるだけではない。[受け入れた] ジャンルのほうも、破壊されるか、もしくは更新されるのである」(佐々木寛訳) と主張しているが、スタイルの変化によってジャンルが壊されるか、更新されるのは書かれたテクストに限定される訳ではない。絵画テクストにおいても、あるスタイルはあるジャンルに内包されている。あるジャンルとあるスタイルとの関係に齟齬がきたした場合、そのスタイルはそのジャンルを破壊するか、新らたなものとなり、異なるジャンルの絵となってしまう。岩田の「小休止」も、「特攻隊内地基地を出発す(二)」も、戦争画というジャンルの絵にはまったくそぐわない。どちらの作品も岩田の挿絵のスタイルの延長線上にあるものであり、その表情にしろ、構図にしろ、戦争を描いてはいるものの戦争画のジャンルの作品とは言い難い側面の方があまりにも大きい。戦後、岩田がすぐに挿絵を大量に描けたのも彼が戦争画というジャンルの絵と真剣に対峙して戦争画を描いてはいなかったからだと述べ得る。
岩田とは異なり小川原は戦後も自分が戦争画を描いた事実について考え続けた。もちろん、それは戦争画を描いた日本画壇の責任を押し付けられたためであるが。しかし、フランスに帰化した藤田嗣治とは異なり、彼は戦争画の巨匠になることを目指した訳でも、画壇の中心人物として積極的に戦争画制作をリードしていった訳でもない。軍からの指令で、無理やり自分のスタイルではない戦争画というジャンルの絵を描かせられたと言ってよい。ドイツの社会学者のジークフリート・クラカウアーは『大衆の装飾』の中で、レヴュー・ショーに登場するアメリカのティラーガールズに関して、「究極にあるものは装飾である。実体的構造の中身は空になり、装飾だけになる」(瀬戸満之、野村美紀子訳) と述べている。それと同様に、小川原の戦時中に公開された三点の戦争画は、彼にとって芸術ではなく、装飾であり、提示されたシニフィアンから誰もが同じシニフィエを導き出す記号であったと考えられる。だがそうであったとしても、彼は戦争画を描いた事実を否定することはなく、上述した朝日新聞の記事にあるように、「どう戦争と向き合い、どう描いたのか。その経験が戦後どう結びついてきたのか。それを掘り下げたい」と語り、東京国立近代美術館で保管されている153点の戦争画は人々の目から隠すべきではなく、堂々と公開すべきだと主張し続けた。
全ての戦争画が芸術的作品としての完成を目指して創作された訳ではない。いや、そうした姿勢とはまったく逆に、多くの戦争画は国家イデオロギーを正当化し、それを飾るための装飾として存在していた。装飾記号として、繰り返し現れ、同じ意味へと常に還元される装置として。岩田専太郎と小川原脩という二人の画家の戦争画を見ていくと、こうした戦争画が何百点も、何千点も描かれることが権力者から求められただけではなく、戦争期間中に、何故大量に生産され続けることが理解できる。戦争画芸術を目指した巨匠たちの作品の方がマイノリティー的存在であったのだ。二人のような芸術的な戦争画を描けるはずのない画家が、描く気がなかった画家が無理に描いた戦争画の方がマジョリティーであったのだ。そう私には思われてならない。
この仮説を証明するだけの余裕は今の私にはない。ただ、クラカウワーが『大衆の装飾』の中で語っている「歴史過程の中である時代が占める位置は、その時代が自己について下した判断よりも、あまりめだたぬ表面的現象を分析する方が、より的確に規定できる」という言葉は、日本の戦争画とそれが描かれた時代性を考える上で、非常に大きな示唆を与えてくれる。この言葉は藤田嗣治の戦争画によっては見えない時代性が岩田専太郎の戦争画との比較を通して明確になり、中村研一の戦争画では理解できなかった問題が小川原脩の戦争画を見つめることで理解できるようになることを教えてくれるからである。クラカウワーはこの発言に続いて、「時代が下す自己判断は時代のトレンドの表現ではあるが、時代の全体的状況に対する的確な鑑定書とはいえない。一方、あまりめだたぬ表面的現象は、無自覚であるために、かえって現存するものの根本内容への通路を保持している。逆に、根本内容の認識には、表面的な現象の解釈が結びついている。ある時代の根本内容と、あまり注目を受けぬ動きとが交互に照明しあう」と述べているが、そこには現前にある事象の一面を見ただけでは時代的な特質は容易に導き出せるものではないことが明確に語られている。
戦争画の問題は一筋縄ではいかない。複雑な問題が絡みつき、もつれている。そのもつれた糸を解きほぐすためには、戦争画の巨匠たちの作品を見つめるだけでは十分ではない。戦時中画家が戦争とどう向き合っていったのかという問題は、戦争画を描いたそれぞれの画家の戦争画が語ってくれるものではないだろうか。宇佐美承が、『池袋モンパルナス:大正デモクラシーの画家たち』に載せている、宇佐美が小川原への手紙の中で書いた、「戦争は <群> の論理で <個> を圧殺するものだとわたしは考えている。「池袋モンパルナス」の絵描きたちはその犠牲になった。いま日本は戦争こそしていないが、<群> の論理が <個> の精神を圧殺しているように思えてならない。すべてのイデオロギーが説得力を失ったいま、<個> を <群> に優先させる哲理がほしい。圧殺されはしたが、「池袋モンパルナス」の絵かきたちが本来もっていた、あなたももっていた <個> の精神に希望をつなぎたい」という言葉、それは小川原が自らの戦争画に対して抱いていた思いを代弁してはいないだろうか。それは藤田の戦争画への、中村の戦争画への、岩田の戦争画への思いとそれを表す彼らの作品にはない小川原の戦争画への思いを表してはいないだろうか。
それぞれの画家がそれぞれの思いによって戦争画を描き、その行為について戦後も考え続け、あるいは、それを忘却しようとした。その一つ一つの思いや回想を丁寧に拾い上げることなくして、戦争画を単純に一方向に還元してはならないのだ。戦争画を経画いたそれぞれの画家にはそれぞれの画家にとっての戦争画の存在理由があったのである。私はそう思い、目の前にある岩田専太郎と小川原脩の戦争画を改めて見つめ直した。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-327.html#more
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9029:190926〕
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