“日本のサッチャー”荒井なみ子さんを偲ぶ -「平和」と「協同」のために生きた波乱の一生-

 大正、昭和、平成という激動の時代をひたすら「平和」と「協同」のために生きた女性が1月23日、亡くなった。荒井なみ子さん。94歳。その歯に衣着せぬ発言と類い希なたくましい行動力、加えて強烈なリーダーシップから、一部の人から“日本のサッチャー”と畏敬の念をもって慕われていた女性だ。視力を失い、意識朦朧となった臨終の床でもらした言葉も「平和と協同」「戦争はしてはいけない」だった。

 荒井なみ子さんの一生は、まさに波乱万丈であった。
旧姓は田中。東京・芝で生まれ、大森で育った。生い立ちの事情が複雑だったことから両親以外の人に育てられた。
 19歳のある日、石坂洋次郎原作、豊田四郎監督の映画『若い人』のエキストラ募集を新聞で見て、応募の葉書を出した。女優になりたかったわけではない。「若い人」のヒロイン、江波惠子と同様に、我が身をもてあました日々から脱出したかったからだという。
 エキストラとして松竹大船撮影所に出入りするうち、助監督の荒井英郎(ひでお)氏と恋におち、1938年、結婚する。荒井氏は栃木県氏家町(現さくら市)出身の日本画家、荒井寛方の次男。寛方は、戦前から戦中にかけ法隆寺金堂の壁画を模写した画家の1人として知られる。新居は東京・渋谷だったが、その後、藤沢市鵠沼西海岸に転居する。英郎氏が大船撮影所に通うにはこちらの方が便利だったからである。英郎氏は太平洋戦争勃発(1941年)とともに東京の日本映画社へ移る。

 敗戦後も荒井一家は藤沢市鵠沼西海岸に住んでいたが、食糧不足の折から、住民が肥料供出組合(通称・コヤシ組合)を結成する。自らの下肥を農家に提供し、代わりに農家から野菜を受け取るという、都市住民と近郊農民の「共存共栄」のための住民組織だった。コヤシ組合はその後、「藤沢生協」に発展する。
 なみ子さんは、この組合で活動した。彼女は後年、自ら生協を創立するなど協同組合運動に情熱を燃やすが、その原点は藤沢市鵠沼西海岸での経験にあったとみていいようだ。すなわち、コヤシ組合での活動を通じて、人々が協同すること、つまり助け合うことの大切さを学んだものと思われる。
  
 1951年、東京・練馬区へ転居。この年、英郎氏は企業整備のため日本映画社を解雇され、以後、フリーの記録映画作家としてドキュメンタリーの制作に携わる。1975年には『われわれは監視する――核基地横須賀――』がモスクワ映画祭、ライプチヒ映画祭で受賞する。1987年、76歳で病死。

 なみ子さんは、練馬区へ移ってから、一時、池袋の舞台芸術学院へ通った。その後、1970年には「ともしび生協」を創立し、理事長を務める。店舗は荒井家の風呂場を改造したものだった(ともしび生協はその後、練馬生協と合併)。
 生協がらみの活動はその後も続く。1996年に高齢者を組合員とする「生活協同組合東京高齢協」が創立されると、進んでその組合員となった。
 2003年には、東京高齢協の文化活動の一翼として高齢者による朗読劇団『八月座』を旗揚げし、その座長に就任した。イラク戦争の勃発に際し小泉首相(当時)が「米国の武力行使を支持する」と表明し、日本も軍事的な支援を辞さないとの動きをみせたことに危機感を抱き、「日本国民は今こそ反戦平和の声を上げなくては」と思ったからだった。八月は日本が敗戦を迎え、日本国民が平和を手にした月。「その八月を忘れたくない」。そうした思いから、劇団名を「八月座」としたのだった。この時、85歳。

 なみ子さんの呼びかけで集まってきたのは20数人。初演は長野県上田市での公演で、演目は『無言館を訪ねて』。同市内にある、戦没画学生の作品を集めた美術館「無言館」の館主、窪島誠一郎さんの著作『無言館を訪ねて』を元にした朗読劇。次いで、ビキニ水爆実験による被災事件を取り上げた『第五福竜丸 航海中』、憲法9条を紹介した『アーティクルナイン――日本国憲法第9条――』、戦争体験記『戦争と私』などを各地で上演した。八月座の活動は4年間続いた。

 彼女の「平和」と「協同」にかける思いは、別なところで一つの結実を遂げる。平和・協同ジャーナリスト基金賞荒井なみ子賞の創設だ。
 平和・協同ジャーナリスト基金は1995年に市民有志によって設立されたファンド(本部は東京・新宿区)である。反核平和、協同・連帯、人権擁護といった分野で優れた作品を発表したジャーナリストを顕彰しようとい狙いで設立され、毎年、数人のジャーナリストに基金賞を贈呈している。なみ子さんは設立と同時にその会員となり、2006年、基金に100万円を寄付。基金はこれを基に「荒井なみ子基金」をつくり、女性ライターへ荒井なみ子賞の贈呈を始めた。これまでに5人のライター、映画監督らが受賞している。

 彼女の社会的活動は極めて多彩であったが、荒井寛方の顕彰活動と、その活動を通じて日本とインドの文化交流に大きな足跡を残したことも特筆すべきことだろう。
 すでに述べたように日本画家だった寛方は夫、英郎氏の父。なみ子さんにとっては義父にあたる。
 アジアで初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人、ラビーンドラナート・タゴール が1916年に初来日した際、横浜の三渓園に宿泊。そこで、寛方が下村観山作の屏風『弱法師』を模写しているのを見た。日本画の技法に感銘したタゴールは『弱法師』の模写画を所望し、寛方筆の模写画がタゴールのもとに送られた。これをきっかけに、寛方はタゴールに招かれ、1年半にわたってインドの西ベンガル州に滞在、タゴールが創立したタゴール国際大学で日本画を教えた。
 タゴールは1924年にも訪日したが、この時も寛方と交流を深め、友情のしるしに自ら日本の毛筆を手にしてベンガル文字で「釈迦牟尼」と揮ごうし、自らのサインも添えて寛方に贈った。
 この「釈迦牟尼」の書は、なみ子さんの手元に家宝として保管されていたが、彼女は「荒井家が抱き続けてきたインドへの友好的な思いを何らかの形で表したい」として、1989年、駐日インド大使館を通じてタゴール国際大学へ贈った。

 その後、なみ子さんは何度もインドを訪れるが、タゴールと寛方の友情と2人が果たした日印文化交流史上の業績を永く伝えるための記念碑を、タゴール国際大学の構内に建立することを思い立つ。彼女は数百万円にのぼる自費を投じて記念碑を完成させ、その除幕式が1997年3月3日、現地で行われた。記念碑には日本の御影石が使われ、寛方がインドを去るとき、タゴールが寛方に贈った詩が、ベンガル文字と日本語で刻まれた。除幕式には、なみ子さんのほか、寛方の遺族、上田市・常楽寺住職の半田孝淳氏(現比叡山延暦寺座主)、日本画家の平山郁夫氏、氏家町長、タゴール国際大学副学長らが参列した。

 蓄財には無縁だった。何か収入があると、惜しげもなく社会的な活動に投じ、自らは質素な生活に徹した。平和・協同ジャーナリスト基金への寄付はその一例だが、義父が残した土地を相続せず、自治体に公園用地として寄贈したのもそうした生き方を示したものと言えるだろう。
 義父、寛方の生家は氏家町内にあった。敷地は約850平方メートル。英郎氏が相続したが病死したため、なみ子さんと長男、孝志さんが相続した。が、なみ子さんは「寛方とタゴールが日印文化交流で果たした役割を顕彰するために役立ててほしい」と、孝志さんとともに土地を氏家町に寄贈、町はこれを公園化し、その名を「寛方・タゴール平和公園」とした。「寛方もタゴールも世界平和を願っていたから」と言って公園名に「平和」を入れるよう主張し、難色を示す町についに認めさせたのは、なみ子さんだった。1994年のことである。

 長身にして大柄な体つきで、みるからにタフだった。それでいて女優のような華やかさを感じさせた。82歳でがんを患い、入院、手術を経験した。その後快復したが、10年前、西東京市内の軽費老人ホームへ入所、臨終もそこで迎えた。今年に入り、食物や水を飲み込めなくなり、衰弱が進んだ。点滴などの延命措置を断り、いわば自然死を選んだ。
 1月20日、老人ホームを訪ねると、小さな自室のベッドに横たわっていたなみ子さんは、時折、顔を私の方に向け、うわごとのようにいくつかの言葉をもらした。「平和と協同」「戦争はしてはいけない」と聞き取れた。これまで持てる全精力を費やしてやってきた活動のあれこれが、彼女の脳裏を駆けめぐっていたのであろうか。

 通夜、告別式はなかった。彼女の意思で、生前に献体を医科大学に登録済みだったからである。遺骨が遺族の元に返ってくるのは3年後とのことである。死んでもなお社会のために役立ちたい。いかにも彼女の生き方にふさわしい臨終に思えた。
 彼女とつきあいがあった人の間で「いずれ偲ぶ会を開こう」との声が出ている。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1157:130127〕