■第二江戸思想史講義 鬼神論  国民的救済信仰の語り出し ―柳田国男と『先祖の話』

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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「人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳は、信仰の基底が無かったといふことは考へられない。さうして以前にはそれが有つたといふことが、我々にはほぼ確かめ得られるのである。現在とても崩れ尽くした筈は無いのだが、不幸にしてそれを単純に認める人が少ないのみか、全く無いといふ反証を挙げようとする人も見付からぬのである。」

柳田国男『先祖の話』

1 戦争と私の原体験

「どうして東洋人は死を怖れないかといふことを、西洋人が不審にし始めたのも新しいことでは無いけれども」と柳田は『先祖の話』の六四章「死の親しさ」を書き始めている。柳田は『先祖の話』の「自序」で、「ことし昭和二十年の四月上旬に筆を起し、五月の終りまでに是だけのものを書いて見たが、印刷の方に色々の支障が有つて、今頃漸くにして世の中へは出て行くことになった」といっている。その「自序」には「昭和二十年十月二十二日」の日付がある。この「自序」とその日付はこの『先祖の話』と柳田をめぐっていろいろなことを教え、また考えさせる。

彼が『先祖の話』の筆を起こした昭和20年4月とは京浜地帯が米軍の大空襲によって焼け野原になっていった時期である。東京の大空襲は3月10日である。翌4月の15日には川崎市街が空襲で焼け野原になった。私はその4月に川崎中学に入学したのである。その前年に疎開で川崎の農村部に移っていた私は、空襲の日の翌朝も10数キロの線路を歩いて焼け残った学校に向かった。やっとたどり着いた学校の校舎は罹災者で溢れていた。私がここにはるかな少年時の記憶を掘り起こして書いたりするのは、柳田が『先祖の話』を書いていたその時期、やがて敗戦にいたるその時期とは私における歴史の原体験というべきものがなされた時期だからである。もちろんそれは戦争末期の悲惨に立ち会わされた国民すべてのものだが、いま『先祖の話』を読み解こうとする私の場合を特例化して書こう。

私がここに書こうとする原体験とは〈死の恐怖〉の体験である。昭和20年という時期、「一億玉砕」がいわれ、子供にもその覚悟が求められた。その頃ある夢をみた。それは玉砕が求められる場から逃げようとする弟を叱りつけ、引き戻そうとする夢である。この夢をそれ以後も夢分析しながらトラウマのように私は持ち続けてきた。「本当は逃げ出したかったのは自分ではないか、それを弟に転嫁して、叱ったりしている、何という欺瞞、卑怯」といい続けながらこの夢を私は持ち続けている。この全体主義国家日本が子供にももたらす「死」への恐怖は私における歴史の原体験として持ち続けられている。この原体験は柳田の日本人の「死の親しさ」をいったりする文章に直ちに反応する。

2 日本人と「死の親しさ」

柳田の『先祖の話』の六四章は「死の親しさ」というタイトルをもった文章からなっている。柳田が「親しさ」を「したしさ」と読ませようとしたのか、「ちかしさ」と読ませようとしたのか、どちらであるかは分からない。いずれにしろ私の原体験である「死の恐怖」の反対側にある心情であろう。私があの夢に戦いていたときに、柳田は「死に親しい」日本人を記していたのである。どこかで切りようのない『先祖の話』六四章冒頭の一節をそのままここに引いておこう。

「どうして東洋人は死を怖れないかといふことを、西洋人が不審にし始めたのも新しいことでは無いけれども、この問題にはまだ答へらしいものが出て居ない。怖れぬなどといふことは有らう筈が無いが、その怖れには色々の構成分子があつて、種族と文化とによつて其組合せが一様で無かつたものと思はれる。生と死とが絶対の隔絶であることに変りは無くとも、是には距離と親しさといふ二つの点が、まだ勘定の中に入って居なかつたやうで、少なくとも此方面の不安だけは、ほぼ完全に克服し得た時代が我々には有つたのである。それが色々の原因によつて、段々と高い垣根となり、之を乗り越すには強い意思と、深い感激との個人的なものを必要とすることになつたのは明白であるが、しかも親代々の習熟を重ねて、死は安しといふ比較の考へ方が、群の生活の中にはなほ伝はつて居た。信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦争ほど痛切に證明したことは曾て無かった。」

柳田の著述の翻訳は難しいことをだれかが言っていた。しかし翻訳が難しいだけではない。これを分かりやすい現代語に直すことももまた難しい。私は柳田の「死の親しさ」をめぐる文章をここに引きながら何度も読み返したが、すっきり分かったとは到底いえない。にもかかわらずここでわれわれ日本人にとって決定的なことがいわれてしまっていることは分かる。それは末尾の「しかも親代々の習熟を重ねて、死は安しといふ比較の考へ方が、群の生活の中にはなほ伝はつて居た。信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に證明したことは曾て無かった」という文章によってである。何度もいうようにこれをもう一度現代文で分かりやすく言い直すことは難しい。あえて私なりの整理で言い直してみよう。

「日本人の死を安しとする考え、あるいは死を親しいものとする考えは代々の親たち(先祖)の生活を通じて熟成されたもので、それは日本人の固有信仰と言うべきものである。だがこの信仰は個々人が内面に感得するものではなく、日本人の共同体的生活の事実である。数えきれぬ青年たちの死をもたらし、なおもたらしつつある今度の戦争はあの信仰が事実であることを痛切に証明するものである。」

昭和のこの戦争がもたらす「死」の恐怖に戦き、生涯ぬぐいえぬトラウマをもった私はその戦争最終期に「死に親しい」日本人をいう柳田の『先祖の話』に民族主義的誤謬というべき最後の日本救済譚を見るのである。

3 「死の親しさ」と民俗学的理由づけ

柳田は日本人における「死の親しさ」という固有信仰的な事実をこの戦争に見ると語ったあとでこういっている。「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ早すぎる。其上に常の年の普通の出来事と並ベて考へて見るのは惜しいとさへ私には感じられる。仍で是からさきは専ら平和なる田園の間に、読者の考察を導いて行くことにしようと思うのである。」これは『先祖の話』における論述の移り行き、戦争における青年たちの犠牲的行動から平和な農村的日常の考察への論述の転換をめぐっていうものであるが、この柳田のいう言葉が例によって分かりにくい。恐らくそれは戦争下の〈異常〉を民衆的生活の〈平常〉を語る民俗学的言語をもって語ることの中にある乖離がもたらす韜晦的修辞であろう。柳田は上に引いた言葉に続けてこういうのである。

「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其消息に通じて居るやうな気持を、抱いて居たといふことには幾つもの理由が挙げられる。」この言葉に導かれて「死に親しい日本人」の民俗学的な理由づけが語られていく。この柳田民俗学の異様に気付くこともなく、人びとはむしろ親しみをもって柳田の〈民俗学的お話〉を受け入れている。ところで柳田は「死に親しい日本人」の民俗学的理由づけをどのように語るのか。『先祖の話』という著書そのものが「死に親しい日本人」の民俗学的理由づけをなすものであるが、同書の「死の親しさ」の章で柳田はそれを集約して語っている。その理由づけには近隣の諸民族と共通のものもあるが、「特に日本的なもの」を四つほどあげると柳田はいう。

「第一には死してもこの国の中に、霊は留まつて遠くへは行かぬと思つたこと、」

「第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけで無しに、何れか一方のみの心ざしによつて、招き招かるゝことがさまで困難で無いやうに思つて居たこと、」

「第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成すると思つて居たことで、」

「是によっこうて子孫の為に色々の計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代つて、同じ事業を続けられるものゝ如く、思つた者の多かつたといふのが第四である。」

柳田は「死に親しい日本人」であることの理由をこの四つにまとめた上でいっている。これは「四つの理由」とともに重要な言葉である。

「是等の信条は何れも重大なものだったが、集団宗教で無い為に文字では伝はらず、人も亦互ひに其一致を確かめる方法が無く、自然に僅かづゝの差異も生じがちであり、従つて又之を口にして批判せられることを憚り、何等の抑圧も無いのに段々と力の弱いものになつて来た。しかし今でも多くの人の心の中に、思つて居ることを綜合して見ると、それが決して一時一部の人の空想から、始まつたもので無いことだけは判るのである。」こう述べた上で柳田は彼自身の祈りでもあるような言葉を記していく。私がここに芸も無くただ柳田の言葉を書き写していくのはそれが祈りの言葉であるからだ。それはいかなる祈りの言葉であるのか。

4 「先祖教」の成立と持続

「我々が先祖の加護を信じ、その自発の恩沢に身を打任せ、特に救はれんと欲する悩み苦しみを、表白する必要も無いやうに感じて、祭はただ謝恩と満悦とが心の奥底から流露するに止まるかの如く見えるのは、其原因は全く歴世の知見、即ち先祖にその志が有り又その力があり、又外部にも之を可能ならしめる条件が具はって居るということを、久しい経験によつていつと無く覚えて居たからであつた。さうしてこの祭の様式は、今は家々の年中行事と別のものと見られて居る村々の氏神の御社にも及んで、著しく我邦の固有信仰を特色づけて居るのである。少なくとも二つの種類の神信心、即ち一方は年齢男女から、願ひの筋までをくだくだしく述べ立てゝ、神を揺ぶらんばかりの熱請を凝らすに対して、他の一方にはひたすら神の照鑑を信頼して疑はず、冥助の自然に厚かるべきことに期して、祭をただ宴集和楽の日として悦び迎へるものが、数に於て遙かに多いといふことは、他にも原因はなほ有らうが、主たる一つはこの先祖教の名残だからであり、なほ一歩を進めて言ふならば、人間があの世に入つてから後に、如何に長らへ又働くかといふことに就て、可なり確実なる常識を養はれて居た結果に他ならぬと私は思つて居るのである。」

長々と柳田の文章を引いたが、もしわれわれ日本人に「先祖教」という固有信仰があるとするならば、それが何かを教えるのはこの柳田の文章ではないか。私は日本人における「先祖教」とは柳田の『先祖の話』とともに成立するものだと思っている。ここに見るのは日本と日本人の生の継承的永続への願いが、同時に日本の永続する民俗的宗教的な生の語り出しともなっている独特な言葉である。これは柳田とその民俗学だけが語り出す言葉である。私はこれを「祈り」といった。ここで祈られているのは、あの祈りの言葉で綴られている日本人の生の永続である。柳田はその生の持続を支えるものを日本人の「固有信仰」といい「先祖教」ともいった。そしてこの「固有信仰」なり「先祖教」の持続を支えるのは「家」の持続である。

「先祖教」という「この信仰の一つの強味は、新たに誰からも説かれ教へられたので無く、小さい頃からの自然の体験として、父母や祖父母と共にそれを感じて来た点で、・・・家の中でもそれを受合ふべく、毎年の行事をたゆみ無く続けて、もとは其希望を打消さうとするやうな、態度に出づる者は一人も無かつた。乃ち此信仰は人の生涯を通じて、家の中で養はれて来たのである」(六一「自然の体験」)といい、この信仰がむしろ日本の家を基礎づけていたと柳田はいう。「日本の斯うして数千年の間、繁り栄えて来た根本の理由には、家の構造の確固であつたといふことも、主要なる一つと認められて居る。さうして其大切な基礎が信仰であつたといふことを、私などは考へて居るのである。」(八一「二つの実際問題」)これは『先祖の話』の最後で柳田が駄目を押すようにしていう言葉である。

だが柳田が『先祖の話』の最後をこのような言葉で締めくくろうとしたその時、すなわち昭和二十年の五月の終りという時、本土決戦の代理戦といわれる沖縄の戦争が最も熾烈にして悲惨な最期の局面を迎えようとしていた。そして八月に日本が「終戦」と呼ぶ敗戦の日を迎える。柳田の『先祖の話』の「自序」、「昭和二十年十月二十二日」の日付をもつ「自序」はこの日本の未曾有の歴史的事態の経過の中で書かれたものである。だがこの「自序」に敗戦という未曾有の事態への感想を見ることはない。ただ「この度の超非常時局によつて、国民の生活は底の底から引っかきまはされた。日頃は見聞することも出来ぬやうな、悲壮な痛烈な人間現象が、全国の最も静かな区域にも簇出して居る」と戦後的混乱をめぐっていうだけである。だがその混乱とはただ戦後的な社会現象をいうものではない。柳田の「自序」を読むとその混乱はすでに戦中に兆し、戦後に一気に露わになるような日本人の精神的混乱をいうのである。「曾ては常人が口にすることをさへ畏れて居た死後の世界、霊魂は有るか無いかの疑問、さては生者の是に対する心の奥の感じと考へ方等々、大よそ国民の意思と愛情とを、縦に百代に亘つて繋ぎ合せて居た糸筋のやうなものが、突如としてすべて人生の表層に顕はれ来つたのを、ぢつと見守つて居た人もこの読者の間には多いのである。私はそれが此書に対する関心の端緒となることを、心窃かに期待している。」あの戦争の末期 から戦後に日本人の心をとらえていったのは篤胤が「霊の行方の安定しずまり」という救済論的問題であった。柳田は戦争末期にこの問題を深く自覚し、「先祖教」と「固有信仰」の民俗学的回想をもって答えていったのである。そしてこの救済論が回想する「先祖教」あるいは「固有信仰」の持続にとって決定的の重要なのは「家」の持続だと柳田はいうのである。

だがあらためて柳田の『先祖の話』の成立とともに終結を迎えたこの戦争について考えてみよう。日本政府によれば、一九四一年一二月に始まるアジア・太平洋戦争の日本人戦没者数は、日中戦争を含めて、軍人・軍属約二三〇万人にその他の戦災犠牲者を含めて約三一〇万人だとされる。この数字は吉田裕の『日本軍兵士』(中公新書)によっているが、吉田は「この三一〇万人の戦没者の大部分がサイパン島陥落後の絶望的抗戦期の死没者だと考えられる」といっている。なおサイパン島陥落は一九四四年七月である。とすれば柳田の『先祖の話』は吉田が「絶望的抗戦期」という大量の戦没者をもたらしたその時期に書かれたものだということになる。しかも二三〇万という日本軍関係の死者のもっとも大きな部分を青壮年が占めているとすれば、日本の「先祖教」も「固有信仰」もそれを保持し、伝えるべき場としての「家」の大事な担い手を失ったということではないか。これは私の実体験からもいいうることである。

川崎市内の商家であった家を嗣ぐべき長兄を日中戦争下の杭州で失ったのは昭和一七年(1942)であった。それから八〇年を経過した今、六人もの兄姉弟であった私たちは一つの家の墓に入るべき関係性を全く失ってしまった。それはわが家における特殊例ではないだろう。現在とは「墓じまい」が話題になり、その手引きが求められる時代である。日本人の「先祖教」あるいは「固有信仰」を維持し、伝えるべき場としての「家」はもはやないというべきだろう。『先祖の話』とは遅すぎた救済の教えなのか、あるいは早すぎた先祖教的レクイエムなのか。
初出「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2021.11.1より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/87077247.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1187:211103〕