■第二江戸思想史講義 1  第1章 朱子『中庸章句』と江戸思想 1

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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「天の命ずる之(これ)を性と謂う」

ー朱子による『中庸』首章解をめぐって

 

1 朱子と『中庸章句』

『中庸』はもともと『大学』とともに『礼記』中の一篇をなすものであったが、朱子はこれを『大学』とともに『礼記』から抜き出し、『論語』『孟子』と合わせて「四書」とし、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の「五経」とともに儒教におけるもっとも重要な経書の一つとしたものである。『中庸』は孔子の孫で孟子の師である子思の作と伝えられている。だが『中庸』全篇が子思の手になる孔子の思想的血脈を伝える書として見ることは疑われている。伊藤仁斎は『中庸』をその本書と見られる部分及びその解説と漢代の雑記と見なされる部分とに二分している。この『中庸』二分説は近代日本の中国学者武内義雄[1]にも継承されている。しかしここでは『中庸』という経書の文献的成立問題には立ち入らない。私の問題は『中庸』が朱子によって「四書」の一書として位置づけられ、中国と儒教・儒学文化圏の思想形成に大きな意味をもっていったことにあるのだから。

朱子は既存の『中庸』を三十三章に分章し、分章化されたテキストに注釈を加え『中庸章句』として公刊した。それ以降、これが『中庸』の定本となり、人びとに学ばれていった。いま『中庸章句』成立期の朱子の年譜上の事跡を見てみよう。われわれはそれによって南宋の学問知識ある士大夫朱熹という具体相における『中庸章句』の成立のあり方を知るだろう。

 

「一一七五年(淳熙二年)                 四十六歳

四月、呂東莱が来訪して、約四十日間滞在するが、その間に協力して『近思録』を編纂する。呂東莱を送って信州鵝湖寺に至り、陸復斎・陸象山兄弟と会見し、二日間にわたって学術討論を行うが、意合わずして別れる。七月、雲谷庵が完成し、草堂を晦庵と名づける。以後晦庵は朱子の号となる。また雲谷老人・晦翁とも称する。

一一七六年(淳熙三年)                  四十七歳

春、黃勉斎が入門する。のち朱子の娘を娶り、朱門第一の高弟と称せらる。(略)八月、武夷山冲祐観に差管される。十一月、妻に死別する。

一一七七年(淳熙四年)                  四十八歳

六月、『論語集注』『孟子集注』『論語或問』『孟子或問』が完成する。この年はまた『詩集伝』『周易本義』を書きあげ、朱子の古典解釈の作業が着々と進行していることを思わせる。特に『論語』『孟子』の集注と『大学』『中庸』の章句は、朱子の四書注の代表的なものであり、後世に重要な影響を与えた。

一一七八年(淳熙五年)                   四十九歳

八月、南康軍知事代理に任命され、辞退したが許されなかった。張南軒、江陵の知事となる。

一一七九年(淳熙六年)                   五十歳

一月、南康に着任。十月、白鹿洞書院を修復し、「白鹿洞書院学規」を定めて、建学の理念を示す。租税の減免について、中央政府に上申する。」[2]

 

朱子は二十二歳のとき吏部の任官試験に合格し、泉州同安県主簿に任命される。任期を終えた朱子は二十八歳のとき郷里崇安に帰る。「紹興二十七年(一一五七、朱子二十八歳)同安県を去ったあと、五十歳で南康軍知事として外に出るまでの二十年間、実質的には官職につかず、もっぱら家にあって読書と著述と弟子の教育に明け暮れる」と三浦国雄は『朱子伝』[3]で書いている。三浦の作成する「朱子年譜」はこれ以降を〈家居〉の時期として官に就いた時期から区別している。この「年譜」によれば朱子の〈家居〉の期間は圧倒的に長い。三浦は同書で朱子の官歴について、彼の高弟黃榦(黃勉斎)が記す一代記から引いてこういっている。「五十年の間に四人の皇帝(高宗・孝宗・光宗・寧宗)に仕えられたが、地方官として外にあることわずか九年、朝廷に立つこと四十日であった。道はかくのごとく行いがたいのである。」三浦はこの朱子の官歴から彼の読書と著述への強い思いを語っている。だが〈家居〉する時期の朱子の年譜を見れば、彼がただ読書勉学に沈潜していたのではないことを知る。私が上に引いた年譜を見ても、朱子の学問とは同時代の学者たちとのまことに動的な交渉の中に成立するものであることを知るのである。上掲の年譜の先立つ時期に朱子が求めてした張南軒との交流は朱子学の学的定立に大きな意味をもつことになるのである。

私は『中庸章句』の成立時期を知るために朱子年譜を写していった。それを写しながら私が知ったのは朱子の時代の学的人士における熱い交流の実際であった。それは宋代に成立する新たな士大夫たち、すなわち時代と文化とに強い責任意識をもった新たな指導者である士大夫たちの学的営為の実際を教えるものであった[4]。朱子が〈家居〉しつつもいかに一箇の士大夫として地方住民・農民に対する強い責任意識をもっていたかは以下の年譜が教えている。

「一一六八年(乾道四年)                  三十九歳

夏四月、建州地方に饑饉が発生したが、朱子の適切な処置により、惨禍をまぬかれた。この年、『程子遺書』を校訂編纂した。張南軒と書類の往復を重ね、哲学的根本問題について、切磋した。

一一七一年(乾道七年)                    四十二歳

建寧府崇安県に社倉を創立し、農民の生活の安定をはかる。」

官に登用された士大夫であるとは〈家居〉にあっても治世上の一翼を担い、社会的責任を果たすものだということである。一一六八年の朱子年譜上の事跡は宋代に登場する新たな士大夫、すなわち自立的な知識的官人のあり方をよく示している。そしてこの宋代士大夫としての朱子のあり方は、宋代が中国史上の〈近世〉と呼ぶべき時代であることの何よりの理由を示すものであるだろう。一一七七年(淳熙四年、朱子四十八歳)の『中庸章句』を含む『四書集注』の完成とは、歴史的中国の危機にある南宋の知識的官人としての朱子の大きな責務達成の作業と思われるのである。

 

 

2 『中庸』とその首章

朱子の『中庸章句』の『中庸』注釈史上の位置と朱子学上にもつ意味とについて、金谷治のすぐれた「解説」[5]を借りて見ておきたい。宋代に入ると『中庸』は多くの学者たちによって注釈される。北宋期だけでも司馬光、范祖禹、蘇軾、程明道の他、著名な人びとの専著は十指にのぼるとされる。それらを集めて編集したものが南宋の石墪(せきとん)の『中庸集解』であるが、朱子の『中庸章句』はそれをふまえた上で、独自の哲学的解釈を施したものである。『中庸』と『大学』との『章句』が完成することによって、「四書」を中心とする朱子の教学体系は完成したとされる。その教学体系における『大学』と『中庸』の位置について金谷は、『大学』が「初学の入徳の門」とされたのに対して、『中庸』は学問の「本源、極致の処」をのべた最も深遠なものとして、「四書」の最後に学ぶべきものとされたといっている。さらに金谷は朱子の「中庸章句序」によって『中庸』という書の内容を朱子の立場から解説している。われわれが『中庸』あるいは『中庸章句』をめぐってふまえておくべき知識・理解を金谷の「解説」によってさらに補っておきたい。

「朱子の解釈によれば、「中庸」こそは堯から禹へと、歴代の聖人が次々と伝承した道の正統である。孔子の孫の子思は、その道の伝統が微弱になるのを恐れて『中庸』の書を著わし、それを「天命の性」にもとづけ、精一不雑の「誠」によって解き明かしたとする。しかも「天命の性」こそは、朱子の「理気」哲学でその体系の中心を占める「理」そのものである(性=理)として、『中庸』の全体が朱子の哲学によってすっぽりと蔽われることになった。」金谷は朱子による『中庸章句』としての『中庸』の哲学的解釈による再構成の意義を簡明に説いた上で、朱子の『中庸章句』がもった歴史的な意義を次のようにいっている。「『大学』のばあいと同様に、『中庸章句』もまた朱子自身の哲学を説くことに急である。しかし、それによって古代の儒学が哲学的に深められ、新しい生命を注入されたことはいうまでもない。新儒学としての朱子学の完成である。そして、朱子学の流行につれて、その解釈はひろく大きな影響を及ぼすことになった。」

われわれの課題までも読み込んだ金谷のすぐれた「『中庸』解説」をふまえて、われわれは直ちにその課題に直面することにしよう。その課題とは朱子の『中庸章句』がわが近世の思想世界に及ぼしたものは何かということである。金谷がいうように『中庸章句』が新儒学としての朱子学の完成であるとすれば、江戸思想における『中庸章句』を問うとは江戸における朱子学を問うことではないかといわれるかもしれない。だが私の思想史には「日本近世において朱子学とは何か」といった問い方も答え方もない。具体的にいおう。『中庸』の首章は「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂教」のテーゼをもって始まる。これは日本ではこう訓まれていた。「天の命、之(これ)を性と謂う。性に率(したが)う、之を道と謂う。道を脩むる、之を教えと謂う。」[6]このテーゼに朱子は注釈を加え、このテーゼを哲学的(性理学的)に再構成していった。『中庸章句』が新儒学、あるいは朱子学の成立ともいわれるのはこのテーゼの哲学的(性理学的)再構成によってである。私がいま見ようとするのはこの「天命之謂性」という『中庸』テーゼと『章句』における朱子の解釈が近世日本の思想世界でたどる拒絶的反撥をも含んだ思想的交錯の実際である。この交錯はなにを生み、なにを失なうことになるのか。

 

 

3 「性とは即ち理なり」

『中庸』首章冒頭の「天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂教」というテーゼは朱子の注釈が付されて初めて『中庸章句』のテーゼとして成立する。ここで首章のテーゼを一節ごとに朱子の注とともに訓み下しておこう。訓み下しは島田虔次『大学・中庸』[7]による。

 

「天の命ずる、之を性と謂う。

命は猶お令のごときなり。性は即ち理なり。天は陰陽五行を以て万物を化生す。気は以て形を成し、理も亦た焉(これ)に賦す。猶お命令のごときなり。是に於いて人と物との生、おのおの其の賦する所の理を得るに因って、以て建順五常の徳を為す。いわゆる性なり。」

「性に率(したが)う、之を道と謂う。

率は循なり。道は猶お路のごときなり。人と物とおのおの其の性の自然に循えば、則ち其の日用事物の間、おのおの当に行くべきの路有らざること莫し。是れ則ちいわゆる道なり。」

「道を修むる、之を教と謂う。

修は之を品節するなり。性と道とは同じなりと雖も、而れども気稟或いは異なる。故に過・不及の差(たがい)無きこと能わず。聖人、人と物との当に行くべき所のものに因りて之を品節し、以て法を天下に為し、則ち之を教と謂う。礼楽刑政の属のごとき是なり。」

 

地上に人や物が生じると天は命令のごとくにこれらに性を賦与するというのである。その性とは理であると朱子はいう。「性即理」とは『中庸章句』におけるもっとも重要な定義である。これによって『中庸』首章のテーゼは朱子哲学的なテーゼになるのである。理とは理法であり、道理であり、理由でもある。人がこの地上に生まれるや、天は必ずその人に性を賦与する、そしてその性とは理だと朱子はでいうのである。人は人であることの理由、人の存在理由をもって生まれるというのである。人の生まれつきの心を意味する「性」が、いま人が人であることの本性すなわち「理」として再定義されるのである。

ところで朱子は「天の命ずる、之を性と謂う」を釈くにあたって宇宙生成論によっている。「天は陰陽五行を以て万物を化生す。気は以て形を成し、理も亦た焉(これ)に賦す」と。朱子の宇宙論的哲学は「理」と「気」という二つの基本概念による理気論的構成をもつものだが、その気は運動・形成・形象にかかわる概念で、形をもって生成する事物の差異を規定するのは気である。それに対して理はすでにいうようにそれぞれの存在の理由であり根拠であり、様々な現象を貫く道理でもある。気が事物の差異性を規定するのに対して、理は事物の根底的な同一性を規定する。人は相互に差異しながらも、なお人であることの同一性を規定するのが理である。これを朱子はいま、地上に生まれるすべての人物に天は「性即ち理」を賦与するというのである。ここから人の性と犬馬など物の性とははたして同一であるのか、どうかといった問題が、さらには差異する人びとにおける同一の性とは何如といった問題が朱子門における大量の質疑として繰り返し提出されることになる[8]。だがこの質疑は朱子学が宇宙論的哲学として成立することから来ることであって、いま『中庸章句』という人倫の哲学の確立にとってもっとも重用なのは人倫的存在としての人間の成立根拠の問題である。朱子はそれを天命の性すなわち理だというのである。人はだれもが人倫的存在としての根拠すなわち理を天賦として備えている。それが人の性だというのである。だから人はだれもが備えるこの根拠にしたがって人の道を見出し、道に従って行い、生きていくのだというのである。『中庸』首章第二節の注釈で朱子が、「率は循なり。道は猶お路のごときなり。人と物とおのおの其の性の自然に循えば、則ち其の日用事物の間、おのおの当に行くべきの路有らざること莫し。是れ則ちいわゆる道なり」というのである。そして首章第三節の注釈で朱子はその道を人の気稟の差異に応じて聖人がほどよく品節し、法として人びとに提示したのが礼楽刑政というような教えであるというのである。

朱子は『中庸』首章冒頭の三節をこのように解した上でみずからその意義を語っている。「蓋し人己のが性有ることを知って、其の天に出ることを知らず。事の道有ることを知って、其の性に由ることを知らず。聖人の教え有ることを知って、其れの吾が固有する所のものに因ってこれを裁(ととの)えることを知らず。故に子思此に於て首(はじ)めて之を発明す」と。子思による初めての発明としていうこの言葉は、むしろ朱子の「性は即ち理なり」をいう宇宙論的哲学とともに発見された『中庸』首章の意義をいうものだと私はみなすのである。

 

 

3 「天賦の性」を固有する人の同一性

私は日本近世の儒者、たとえば伊藤仁斎の『中庸発揮』や荻生徂徠の『中庸解』を読むために『中庸章句』を読んできた。いってみれば仁斎や徂徠などによる批判的読解の由来をたしかめるために読んできたといっていい。このきわめて消極的な理由で『中庸章句』を読みながらも、いつも衝撃に近い感銘をこの『中庸』首章の朱子の解釈から受けてきた。それは天の理によって一筋に基礎づけられた「性」と「道」と「教」とからなる儒学の「理」的体系性であり、何よりも「性即理」としての人性を固有の根拠としてもった人の同一性をいうテーゼの成立であった。しかしこの感銘から朱子を積極的に読むということを私はしなかった。私は朱子を否定的な前提として江戸思想を読むという読み方をしかしてこなかった。私は近代主義的な思想史の方法を批判しながら、朱子学を読み直すということをしてこなかったのである。

私のこの朱子学に対する消極的な姿勢に変化を与えたのは、『朱子語類』を読むようになってからである。私のような日本思想史家が『朱子語類』を読むというのは盲人の手探りにも似た危うさを伴うものであったが、阪大の教壇にあった最後の数年、すなわち90年代の終りの時期に『朱子語類』の最初の数巻を院生とともに読む機会をもった。和刻本をテキストとしてまさしく手探りでするようなこの講読は、朱子学についての私の見方を変えた。たとえば「理」という概念をめぐる執拗に繰り返される弟子たちの質問に粘り強く答え続ける問答の記録を読んでいくと、朱子的理学(哲学)がまさしくいまここに形成されつつあることを知ったのである。

『語類』の講読はほぼ20年を隔てて昨年再開された。この再開は私における朱子の思想体験をいっそう深めていったが、この再読を通じて私はつくづく思った。宇宙論的背景をもった大なる哲学体系の成立現場を尨大な質疑応答の記録をもって示すようなものは『朱子語類』を措いて外にはないのではないかと。「理」的世界は多くの質疑に答える朱子の「言葉」とともに成立してくることを、私は戦慄を覚えつつ読んでいった。と同時に私はこの『朱子語類』の尨大な質疑応答を構成する多くの門弟たちが朱子を中心に一つの知識・知識人集団を構成していることを知るのである。宋(朱子の時代は南宋)という時代とはそのような儒家的知識集団が数多く成立し、相互に知識学説を競い合う時代であったのである。宋とは時代の政治と知識・学問・文化に責任を負う士大夫が貴族に代わって成立した時代である。宋が中国史における〈近世〉の始まりを称される有力な理由はそこにある。私には朱子学とは宋代に成立する知識的士大夫の天下的規模における、哲学的には宇宙論的規模における思想的な自己表現であるように思われる。私が本稿のはじめに朱子の年譜とともに『中庸章句』の成立を記したのは、天下に責任をもつ政治的、思想的な活動主体としての知識的士大夫朱子の存在とそれが不可分であることをいいたいがためである。「天は人に命令として賦与するのにこの性をもってする。この性とは理である」という『中庸章句』の朱子の言葉に、己が「天賦の性」の同一性をだれよりも自覚する士大夫たちの誇らかな自己宣言を見る思いがする。

私は江戸思想の読み直しを考えながら、朱子学の読み直し、形成期の朱子を見ることから始めている。この結果が何をもたらすかは分からない。最初私は『中庸』首章の「天の命ずる、之を性と謂う。性に率う、之を道と謂う。道を修むる、之を教と謂う」というテーゼをめぐる日本の近世儒家による諸解釈を通観しながら近世儒家思想史を手際よく提示することを考えていた。だが今年の初めから中国で始まりやがて世界を覆っていったコロナヴィールスによる禍害と苦難とは、私の手際よい思想史の叙述を許さなかった。私は宋代という中国近世的世界を思想的に担う朱子学の形成の初めを見ることからわが思想史を読み直し、書き直すことを考えた。そこから本稿「天の命ずる、之を性と謂う」が書かれたのである。だがこの先は分からない。あたかも『朱子語類』を手探りで読むように、手探りで書き進めるしかない。

 

 

[1]武内義雄『易と中庸の研究』岩波書店、1943.

[2]「朱子年譜」『朱子・王陽明』所載、荒木見悟責任編集、世界の名著続4、中央公論社。

[3]  三浦国雄『朱子伝』平凡ライブラリー、2010。

[4]  小島毅は宋以降の士大夫が唐までの貴族的士大夫とどう違うのかについて、こう説いている。宋代の士大夫とは「科挙試験での合格を目標にする者や科挙によって官僚に登用された者たちがもつ強烈な自信と選良意識が一体感を抱かせて生みだされた文化的階層」ということになろうといい、さらに「彼らは経済的な意味で利害を共有する特権階級なのではなく、身につけた文化・教養によって連帯する士大夫なのである。・・・そのことが彼らに指導者としての自覚と責任感をもたせることになった」といっている。『中国思想史』(溝口・池田・小島著、東大出版会、2007)の「第二章唐宋の変革」の序言。

[5]金谷治「『中庸』解説」『大学・中庸』岩波文庫。

[6]後藤点『中庸』新刻改正版。後藤点とは江戸時代の高松藩の儒者後藤芝山によって『四書集注』に付された訓点をいう。江戸の後期社会から明治のはじめまで最も広く用いられた四書の訓点である。なお現代の注釈者の多くは「天の命ずる、之を性と謂う」と訓んでいる。

[7]島田虔次『大学・中庸下』中国古典選7、朝日文庫。これは朱子の『中庸章句』に基づく『中庸』の訳であり、解説である。

[8]この質疑が『朱子語類』の巻四の性理一を構成している。

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2020.7.8より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/83378272.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1129:200712〕