はじめに
北一輝の研究は様々な形で行われてきたが、それらの研究は北を超国家主義者として扱う視点からのものであり、彼の姿を捉えたものとは必ずしも言うことが出来ない。
1、 北が処刑されるときに、西田税が北に「天皇陛下万歳と言いましょうか」というと、北が「やめておきましょう」と言ったということになっている。これは、映画{動乱}のシーンだが、この動乱の原作である立野信之の小説{動乱}においては、「天皇陛下万歳と言いましょうか」と言ったのは、北一輝となっている。
事実は、このような会話は全くなかった。北は死刑台を前にして、「座って処刑されるのですか、これは良い」と語ったのみである。―天皇制問題
2、巷に流布されている北への誹謗は財閥に財政的な援助をされていた。だから、北は財閥の手先であったという考え方であるが、何故に財閥が援助したのかについて触れたものは少ない。―帝国主義の手先
3、北は神がかりの日蓮宗徒であるとされるが、彼の理論と日蓮宗の教義との関係は一切問題にされていない。唯一、北の神がかったカリスマ的指導者だとされる根拠は『霊告日記』である。―北はファッシストとする陰謀か?
これらの諸点のほかに列挙すべき問題点は多い。今回のレポートは、理論文ではなく、こうした北の革命的な実践活動を中心にいくつかの仮説を提起することにしたい。
第一章 北一輝の中国革命参与と黒龍会(内田良平)との関係
竹内好によると、北一輝は、黒龍会と左翼(片山潜、幸徳秋水ら)の間を動揺していたというがそうではない。黒龍会派に対する警戒をもって宋教仁、譚人鳳らと手を組んでいる。
「国家の中心点たる年少者が日本的思想を有し、日本的風采に化し、日本的行動を取りつつある、、、新しき大黄国(中国)は日本と等しく国権と民族の名において行動」するだろう。
「新興国に対して、侮りが見えたら最後、日本は、、ボイコットされるのだ、、、永久的に一切の方策からのボイコットだ」
「昔、ローマの将軍シビオ、カルセージ城に挙がる火を眺めて、誰か百年の後、わがローマの、また、かくのごとくならんを知らんやと言えり、、、不肖はこの飛雨粛々たる静朝の感慨を認めて、諸友中、最も熾烈なる大ローマ主義者内田君に送り以て憂国の情を訴えざるを得ざりしなり、、、日本何ぞ、一人、史上永遠の覇ならむ。国運の盛なるに驕りて、、、慢態驕姿、戒むる所を知らず、殆ど亡清の後を追うが如くなるは何ぞや」(98、)
北のいう「日本的精紳」「日本的風貌」とは何か。これに対する記述は殆ど見当たらない。
第二章北一輝と日蓮宗
北一輝の日蓮宗の見直しは、章炳麟との対話のなかで始まった。章炳麟とは、光復会の中心人物であり、反孫文派の急先鋒であった。孫文に対する怒りは激しく、彼が日本を去るや否や、党首室に残された写真を引きははがし、香港に送ったほどである。その章は、
「君の考えも、幸徳さんたちの無政府主義も僕に言わせれば、徹底していないと思えるのだよ。君は、たしか、あの書の中で、機械文明が更に発展していけば、食料さえも、鉱物から採れるようになり、我欲がなくなり、いずれは、無政府共産の幸せな世が訪れ、人間は神に近い『類神類』になるというようなことを言っていたよな」(五無論)。
「仏教の哲学思想からみると、実在するものはないんだよ。国家や政府は、我欲をもつ人間たちが作り出した幻想にしか過ぎない。君も書いているだろう、小さな集落が他の集落を征服し、次第に、大集落、国家を形成したことを。進化論的に言えば同化だよな。その同化の結果、どうなったか、争いは拡大し帝国主義的な大規模な殺戮になっていったじゃないか。その基本には人間の我がある。これを絶滅しない限り、真の幸福、涅槃はやってこない。われわれは有の世界の只中にある。その有の世界の論理を用いて無に近づく。それが、共和制。そして、無政府、無集落、ひいては無人類、無世界の世をめざすわけだが、そのためには、共和制を有の世界の中で実現しなければならず、次に、無集落―無政府ということになる」(五無論の要約)
北の図式と正反対。北の場合、実在の人格である国家、それの聯合、世界政府、人類の神類化。
小乗仏教と大乗仏教
田中智学の日本中心主義と大きな相違。
法華経の教義 仏陀は入滅していない、依他起性〈宮沢賢治〉、菩薩と仏の相違
第三章、北一輝の分派闘争
第一節 一時帰国後から上海時代
1、黒龍会=孫文との分派闘争 『支那革命外史』の執筆、一時帰国時、(21カ条問題と吉野作造)
2、孫文との和解(大総統就任時)の本格化と第一次広東政府
第一次広東政府には、章炳麟、干右任(宋教仁の側近)が孫文と同行。黄興派の協力、蒋介石、張群も参加
3、 孫文 中華革命党 「孫文党首に絶対服従を誓うこと」
4、当初はこの方針であるが、国共合作によって、この方針は変更を余儀なくされる。 孫文の他国依存路線は続く。(蒋介石としばしば対立)。
第二節 帰国後
1、昭和天皇の皇后問題 長州派の宮中勢力との対決、黒龍会系右翼勢力と連携
2、大川周明一派との対決 大川は牧野伸顕(薩摩派宮中勢力)と連合。
対大川、牧野との対決。
イ、安田共済生命保険問題――大川周明との分派闘争 5万円
ロ、15銀行事件――宮中の資産運用 対宮中闘争 5万円
ハ、宮内省怪文書事件―西田税が中心。西田はこの事件の一年前に秩父宮と長時間にわたって会談。宮内省の横暴について聞き憤慨
この事件は、北海道の土地の払い下げ問題で、宮内省の幹部に多額の贈賄が行われたことを暴露。料亭が作戦本部。3000円ほどの金を使う、敗北、北、西田ともに半年間、刑に服す
第四章 北一輝の政党工作
イ、大正15年 若槻礼次郎憲政会内閣打倒工作 「朴烈,文子の怪写真事件」鳩山一郎が政府の責任追及、内閣不信任案
ロ、昭和2年、田中内閣成立。中国国民党の蒋介石、張群の来日、田中義一政友会内閣(森恪外務政務次官、小川平吉鉄道大臣)この両名とも北の知己。
田中義一と蒋介石会談。
昭和3年5月 蒋介石の北伐、済南事件(日本軍山東出兵) 張群が単独で来日
(北一輝がおそらく田中内閣に働きかける。最初、田中は強硬姿勢も一週間で軟化。外交的解決)
6月4日 張作霖爆殺事件(満州国某重大事件)
昭和4年1月 中野正剛、永井柳太郎(民政党、が両名ともに北の知人)が国会で田中内閣を某重大事件問題で追及。安達謙三に手紙を書き追及を中止させる。中野を次期民政党内閣の政務次官に。
昭和4年3月 梅谷庄吉 中国に渡る。孫文の銅像(高さ3・6メートル7トン、上海、南京に1基、他3基を寄贈)2年後に帰国
昭和4年6月田中内閣辞任
ハ、昭和4年7月2日 濱口雄幸(民政党内閣)成立
昭和5年 1月 金解禁
4月 犬養政友会総裁 ロンドン軍縮条約攻撃
11月14日 浜口雄幸刺される(佐郷屋留雄-北の知己)」
4月 梅谷帰国
6月10日 加藤寛治、帷幄上奏、辞任
夏 岩田富美夫方に移る
10月 梅谷庄吉 別荘 中野区桃園町に移転 「軍服の人二人、玄関の前、梅屋の方に向ひて立ちいる。右腰に拳銃。」⒑⒗ 妻
註、傍線で梅谷の動向を記したのは、北と国民政府との関係を示すためです。
昭和6年9月18日 柳条湖事件(満州事変)
ホ、昭和6年12月13日 犬養内閣(政友会成立)
昭和7年 5月11日 5・15事件
へ、昭和9年 このころから三井から年2万円の収入
4/23 「第294回現代史研究会」
日時:2016年4月23日(土)1:00~5:00
場所:専修大学神田校舎5号館4階541教室(新しい校舎)
JR「飯田橋」駅より徒歩10分、または地下鉄・東西線「九段下」駅より徒歩5分
テーマ:「北一輝と中国革命」
講師:古賀 暹(元『情況』編集長)
資料代など:500円
参考文献:『北一輝 革命思想として読む』(御茶の水書房)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study715:160320〕