さる3月3日、高市早苗総務相は放送法4条をたてに「放送局の電波停止の可能性もある」と発言した。「行政が何度要請してもまったく改善しない放送局に、なんの対応もしないとは約束できない。将来にわたり可能性がまったくないとは言えない」とか、テロの宣伝と見られれば停止対象だともいっている。
ニュース報道の公正性、ことのよしあしは政府が判断する、場合によってはテレビ局の存立基盤を奪うぞという、とんでもない発言である。発言対象は直接にはテレビ局だが、メディア全体に対する脅迫である。こんなものを放置していたら日本は報道統制国家になる。
ところがこれに対し、ほとんどのテレビ局は反発しなかった。数日後、ようやく青木理氏らテレビキャスターらが呼びかけ人となって高市発言を非難する記者会見をした。また池上彰氏などは「欧米なら内閣がつぶれる」といった趣旨の発言をした。
ほかにもこのような動きはあるだろうが、今に至るも全国規模には到っていない。なにしろ私の知るかぎり、テレビで「圧力とは戦う」と発言したのは、テレビ朝日「羽鳥モーニングショー」の玉川記者だけだ(ほかにもあったらぜひ教えてください)。
テレビが腰抜けなら、新聞やラジオ、週刊誌が高市総務相に辞任を迫るキャンペーンを打ちそうなものだがそうはなっていない。背景には大新聞社が系列のテレビ局を持っているという事情があるかもしれないが、それは「知る権利」の前にはいかほどの言い訳にもならない。報道機関が存在する理由は、権力の横暴を掣肘し国民の「知る権利」を保証するところにある。
「報道の自由」と「知る権利」を制限し、メディアから権力からの独立を奪えばどうなるか。記事内容が画一化する一方で、第一線で働く記者・編集者のモラルが低下するのである。
私は中国で四川汶川大地震・青海玉樹大地震などを経験したが、報道パターンはまるで同じだった。災害の実態よりも現場に出向いた党指導者の動向の方が大きく、記事の日時と地名を取りかえればいつでもどこでも間に合いそうだった。げんにテレビで女性アナウンサーが現地報告と称して架空の災害レポートをするという奇想天外の事態もあった。
「紅包(賄賂)」をもらって、たいこもち記事を書くものもいた。これが習慣になれば「紅包」がないときに悪口を書くのはあたりまえになる。事件報道でも冗長な記事があるのは、字数を多くしてボーナスを得ようという魂胆であろう。編集者もそれを承知で載せている。この傾向は地方党機関紙にいちじるしい。
もちろん中国にも公然と「報道の自由」を求める勇気ある人もいるし、ジャーナリスト魂を持った記者もいる。最近の一例をあげる。
1月7日、甘粛省武威市(シルクロードのオアシス都市)中心部で防火訓練が行われたが、周辺の建物に引火して本物の火災になった。当局者は記者らに「取材するな」と圧力をかけたが、蘭州晨報の張記者ら3人はこれを無視して現場に向かい逮捕された。9日に地元警察は逮捕理由を「買春容疑の現行犯」とし、約1週間後には「政府を恐喝した」に“変更”した、と報道された(産経2016.1.30)。
中国では、この2月習近平中国共産党総書記が新華社通信などメディアに「党の代弁者たれ」と訓示・指示したためか、16日に閉幕した全国人民代表大会の報道は、全人代代表の習近平政権賛美一色になった。こうした現象をとらえて、日本は中国とは比較にならないほど自由だ、比較する方がおかしいという人がいる。そして日本のメディアは中国の報道規制をしばしば嘲笑する。
何を笑っているのか。君が笑っているのは自分自身だ。
テレビ・ニュースをごらんなさい。どの局も同じ項目で同じような解説をしている。国際ニュースは極端なほどアメリカに偏っている。NHKテレビBSの「ワールド・ニュース」が典型だ。にもかかわらず、あなた方は世界中のできごとを報道していると思っている。そして日本国民はメディアによって世界中のニュースを知ることができると思っている。いずれも錯覚である。
南スーダンの治安や、ジブチの自衛隊の拠点はどうなっているか。前者は自衛隊のPKO派遣地であり、後者は海賊対策で設けたはずだが、いまや「国際緊急援助活動」の基地になっている。その実態がどのくらい報道されただろうか。
日本のメディアはこれという権力批判をほとんどしない。やってもかるい皮肉、虎の尾におずおずと触る程度だ。中国のように党に楯突いて記者や編集者がクビになることもない。だが権力批判の自主規制は、それとわかりにくいだけに悪質である。国民はまるでゆでガエルだ。
中国といい日本といい、なぜ権力者は「知る権利」「知らせる権利」を制限しようとするか。情報を独占して支配を維持するためである。権力批判の自主規制は権力者による情報独占への協力を意味する。それは国民の選択の権利を奪い、機会の著しい不平等を導く。
いま日本のメディアはジャーナリズム魂を失っている。そして朦朧状態のなか、中国的状況への道を歩んでいる。高市総務相批判が拡大しないのがそのあかしである。このままではやがてジャーナリズムの心肺停止、死亡が確認されるであろう。
初出:「リベラル21」2016.03.23より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-category-9.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3348:1603123〕