明治維新の近代・15「支那民族運動」に正面する者 ―尾崎秀実『現代支那論』を読む

「今日、抗日民族戦線運動として現われているやや畸型的な支那の民族運動は、根本的には支那社会の半植民地性、半封建性を解決してその長き歴史的な停滞性を脱却せんとする要求をもっているのである。支那民族運動の大乗的解決は、まさにかかる要求に応えたものでなければならないのである。」                尾崎秀実『現代支那論』[1]

 

1 「国賊」ということ

「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人であり、マンガ家として歴史や神話を題材にした傑作を世に問うてきた安彦良和の20時間にも及ぶ取材をもとにして杉田俊介は『安彦良和の戦争と平和』[2]を書き上げ、今年の2月に刊行した。安彦氏は私の古くから知る人であり、杉田氏は新しく知った人である。それゆえ私はこの書を待ちかねるようにして読んでいった。だが安彦の名作とされる『虹色のトロツキー』をめぐる章で尾崎秀実を弾劾する安彦の言葉を見て驚いた。それは私の知る安彦の像を打ち壊すような衝撃であった。彼は尾崎についてこういうのである。

「ただ、今から思えば特に尾﨑秀実の描き方は甘かった。尾崎秀実は戦後、純愛の象徴、平和主義者というイメージがあるけれど、はっきりいうと、大変な国賊ですよ。偉大なスパイと言ってもいい。尾﨑によって対ソ戦は挫折した、ということもあるわけですね。」

尾﨑についての断罪ともいえるこの言葉に安彦はさらに付け加えていっている。「戦後の僕らは涙涙で尾﨑の『愛情はふる星のごとく』を読んだわけ。こんな平和主義者なのにこんな目に遭って、家族も可哀想にって。でもそれは違ったんだったことは、『虹色のトロツキー』が終わったあとで気がついた。非常に悪魔的な人間ですよ、尾﨑というのは。」この尾﨑に対する弾劾は『虹色のトロツキー』という満州の建国大学を舞台にするドラマの構成が要求する人物評価をこえている。それは現代史における尾崎秀実という最も高い水準の関心を中国に持ち続けたジャーナリストに対する決定的な弾劾である。「非国民」とは昭和戦前期の少国民であったわれわれの最も恐れたラベルであったが、「国賊」とは「非国民」どころではない。「非国民」は国家への非協力者であるが、「国賊」とは日本国家への内部的敵対者・裏切り者である。日本の国家権力は尾﨑を裏切り者として死刑に処したのである。安彦は2019年のいま尾﨑を「国賊」とした。そのとき安彦は尾﨑を国家の裏切り者とした1943年の日本の国家権力と守るべき「日本国家」を共有してしまったのである。

杉田の『安彦良和の戦争と平和』に尾﨑をめぐる安彦の究極的ともいえる誹謗を読むことは私にとってショックであり、残念なことでもあった。このことは〈ゾルゲ事件〉が日本人に残した負の刻印がいかに深いものであるかを教えている。私はすでに尾﨑のための文章を書いている[3]。だがあらためて尾﨑論を書かねばならぬと思った。それは尾﨑の冤罪を雪ぐためだけではない。むしろ〈ゾルゲ事件〉が押し隠してしまった尾﨑の現代中国をめぐる認識作業がわれわれにとってもつ深い意義を明らかにするためである

 

2 『現代支那論』は尾﨑の「遺書」である

尾﨑の『現代支那論』は昭和14年(1939)5月に岩波新書(赤版)の一冊として刊行された。岩波新書はその前年に現代的教養書として創刊された出版物である。現代の世界史的諸問題、ことに中国をめぐる問題がこの新たな新書のテーマになっている。津田の『支那思想と日本』は岩波新書創刊20点の一冊であったし、尾﨑の『現代支那論』に先立って4月にはウイットフォーゲルの『支那社会の科学的研究』(平野義太郎・宇佐美誠次郎訳)が刊行されている。尾﨑はその昭和14年の「中央公論」1月号に「『東亜協同体』の理念とその成立の客観的基礎」を書き、2月中旬の3日間、東京大学成人講座で「現代支那の特質」と題して講義をし、それをまとめて5月に『現代支那論』として刊行したのである。

私はほぼ10年前に尾﨑をめぐる最初の論を書きながら『現代支那論』を読んでいる。だがその読み方は尾﨑秀樹が戦後版『現代支那論』の「改題ふうなメモ」でこれを「尾崎秀実の遺書」だとしているそのような書としての読み方ではなかった。今回あらためて読んで、これはまさしく尾﨑の「遺書」だと思った。尾﨑秀樹の「改題ふうなメモ」は『現代支那論』をめぐる多くのことを教えているが、この書をめぐる貴重なエピソードを伝えている。それは尾﨑が逮捕された昭和16年10月15日、祐天寺の自宅での朝のことである。

「何ともいえぬ美しい日の光です。いい気もちです。

そういえば今日は二年前家を出た日です。あの日も丁度今日のように美しい日がさしていました。私は朝食後私の部屋で陽光を浴びながら、早大出の経済記者で大陸で戦死した人の遺書「不死鳥」という手記を読んでいました。その中には戦場で私の「現代支那論」を日記に書いて感想をのべていました。私はこの時ふと或る種の予感を覚えました。遠い過去から未来までも一瞬にして眺めたような妙な感じがしました。その時お迎えの人々がどやどやと入って来ました。」

これは「昭和十八年十月十五日」の日付をもつ英子夫人宛書簡[4]の冒頭の箇所である。尾﨑秀樹の「改題ふうなメモ」は書簡をここまでを引くが、そこにはこれに続けて、「家を出る時私は既に一切をほぼ見透していました。再びこの家に帰ることはないと心に期していました」という言葉が記るされている。ところで尾﨑秀樹は秀実逮捕の朝のこのエピソードを記した上で、なぜ『現代支那論』を秀実の「遺書」というのか、その理由をこういうのである。

「私はそのおりの尾﨑の胸中を去来した感慨を、理解できるように思う。彼は血みどろの戦いを大陸で展開している幾十百万の日本の若ものたちが、大陸から戻り、新しい社会の推進者として立ち現われる日を夢みていた。『現代支那論』はそのための捨石にすぎない、だが現に戦場でその瞬間にも散ってゆく若人の魂はどうなるのだ、「遠い過去から未来までも一瞬にして眺めたような妙な感じ」とは、それらの複雑な心情だったのではなかろうか。『現代支那論』はその意味で、若い世代に送った遺書だともいうことができる。」

38歳の尾﨑によるこの書を「遺書」というには、この書がこの時代にもった運命によっていうしかないのかもしれない。だが私はこの書に、大急ぎでしかも過剰に、だが整然と詰め込まれた尾﨑の現代中国をめぐる知識と分析と透察とによって、あえてこの書を尾﨑の「遺書」というのである。

 

3 現代中国の高度のガイドブック

私がこの書を携えて1930年代の中国の地に立てば、私は直ちにこの今がいかなる時であるのか、そして今ここに立つ土地がいかなる政治・経済的支配と抗争的関係の中にあるのかを私は具さに知ることになるだろう。その時とは世界史的な時であり、その関係とは中国をめぐる世界的関係である。これは高度の現代中国のガイドブックだと思った。ガイドブックとはこの書を貶めていっているのではない。むしろ驚きをもっていっているのである。私は高度のガイドブックといった。われわれはこの書によって1930年代という世界史のこの時・この土地における中国を知るのである。それはいわゆる〈支那通〉が提供する知識ではない。尾﨑は時代の言葉をもってその書の「自序」でこういっている。

「支那の正体を余すことなく正確に把握することは至難なことであろう。蓋し支那を正当に理解するためには局部的でなく全体的に把握することと、動きつつあるままで捉えることが必要であろうと思われる。科学的であることは必要である。しかし実験は顕微鏡的にとどまってはならず、また屍体解剖的であってはならない。生体解剖的であることが何より必要である。一見長き仮死の状態を続けるかに見える支那にも実は活力が保存されていて、しかも新しい運動法則すらこれに作用しているのである。」

これが書かれた昭和13年(1938)という時期、欧州では世界戦争への危機を孕みながらナチス・ドイツは膨脹を続けていた。では中国大陸で〈事変〉と呼ぶ戦争を遂行している日本にとって昭和13年とは何か。その前年の12月、参謀本部の指示をこえて進撃する日本軍は南京を占領した。「この追撃戦と南京占領の過程で、名目のはっきりしない戦争に苦戦を重ねて粗暴になった日本軍は、虐殺、強姦、掠奪などの残虐行為(南京事件)をくりひろげた。」[5]この南京占領に続く昭和13年(1938)の日中戦争をめぐる事態をここに簡潔にのべうる知識も能力も私にはない。私は今しがた引いた『中国20世紀史』の助けを借りてこの昭和13年が何であったかを見てみよう。

「一一月三日、近衛内閣は東亜新秩序の建設を声明した。ドイツのオーストリア併合、チェコスロバキア解体などにならい、アジアで現状打破を実行する宣言であった。ただ従来の「対手にせず」の方針をあらため、国民政府にも対応の門戸を開いた。はたして党内反対派の汪兆銘は一二月重慶からハノイに脱出し、日本軍と和平の交渉をはじめた。

軍事面では、軍中央部は一一月これ以上戦線をひろげず、占領地の治安の確保と周辺地域の小作戦に専念するよう決定した。しかし占領地といっても全体はおさえておらず、山間部や農村地帯には共産党指導下の抗日根拠地が組織され、日本軍・傀儡政権の支配はとどかなかった。日本軍は鉄道沿線の主要都市や県城を確保するにすぎなかった。・・・

この間、仏印、ビルマからの対中援助ルートを断つ航空作戦の基地を得るため、中支那派遣軍は江西省の南昌を攻略し、海南島を占領した。戦線不拡大の方針は、現実の戦局の前にたえずくずされた。」[6]

これが『現代支那論』を書き進める尾﨑が見すえている中国と中国をめぐる政治的・軍事的事態である。そしてその年の7月に近衛内閣の嘱託となった尾﨑が恐らく近衛とともに共有していた事態でもある。ただ上の引用に見る事態は、すでにこの事変・戦争の結末を知る歴史家の記述になるものである。もちろん尾﨑はこの結末を知らないし、それを予想しようともしていない。彼はただ事変の終結に向けての事態の転換をだけ願っている。そのために現代中国という歴史的現場のあの認識が必要なのである。「支那を正当に理解するためには局部的でなく全体的に把握することと、動きつつあるままで捉えることが必要であろうと思われる」とは世界史的現場としての中国の認識の方法である。

この認識方法をもって「現代支那」に大戦前夜の日本人を導くこの本は、厖大にして混沌たる中国をその本質を逸することなく正しく見るための方法的視点を提示する。この方法的視点からなる書として『現代支那論』は戦時昭和の日本人のためのガイドブックの域をこえてわれわれの中国認識を導く理論書たりえているのである。

 

4 「半封建性・半植民地性」

「支那社会が、その尨大な外貌に現われた如くその拡がりにおいて非常に茫漠としているという事情にもよるが、それよりも更に深く、この実体というものの内容が非常にバラバラであり渾沌としている」。では尨大にして、いっそう混沌たる現代中国社会というものを全面的に把握せんとする場合にいかなる方法によるべきか。尾﨑はその方法はあるという。「かくて我々のとるべき方法はかえって現代支那社会の特質となるべき点を一、二捉え来たって、それを中心に検討し、解剖を進め行くという方法である。」ではその現代支那社会の特質とは何か。一般的な表現にしたがえば、「支那社会における所謂半封建性なる事実と、半植民地性という事実に帰着する」と尾﨑はいうのである。「半封建性・半植民地性」とは現代中国社会の特質を歴史的に規定する概念であるとともに、この社会へのわれわれの認識を導く方法的概念でもある。この「認識」という語を「革命」に置き換えれば、「半封建性・半植民地性」は中国の革命を導くテーゼを構成する概念にもなりうるだろう。

「半封建性」の「半」とは数量的な意味ではなく、「封建的な性質が極めて多く支那社会に残存し、しかもそれは相当に重要なる作用を現代支那社会の動向の中に営みつつある」ことを意味するものである。それは厳密な意味での封建性のみならず「おしなべて現代の資本主義的な社会に到達する以前の社会における様々の遺された性質が、すべてこの半封建性の語の中に包括されて居る」と尾﨑はいう。封建的関係は現在の中国農村で広く認められるところであるが、農村ばかりではなく都市でも認められるとし、「封建的な残存形態のうちの代表として我々は屢々支那の軍閥を挙げる」といっている。

「半植民地性」について、ここでも「半」とは分量を現わすものではなく、「支那社会の中に、非常に多くの度合いを以て列国の植民地的な影響力が及んで居る」ことを意味していると尾﨑はいう。ただ尾﨑は後の頁で孫文の「三民主義」から次の言葉を引いている。「結局中国各地は挙げて列強の完全な植民地と化してしまっているに拘わらず、全国人は今尚列強の半植民地になったと考えているに過ぎない。半植民地という言葉は自慰的なもので、その実中国は列強の経済力の圧迫を受け、本当の植民地より更に不利な立場に置かれているのである。従って中国を半植民地というのは適当ではない。まさに「次植民地」と呼ぶのが至当だと思う。」ここで「次植民地」というのは植民地以下を意味している。尾﨑はこの孫文の言葉を引いた上で、「もとよりこの表現には幾分の誇張があり、かつ何故に支那が純粋植民地以下である彼の理由も必ずしも明瞭ではない。しかしながら孫文には支那の当時の現状が植民地以下と感じられたことは確かである」といっている。

尾﨑は「現代支那社会」を歴史的に規定し、同時にこの社会を認識していく上で目印になる概念として「半封建性」と「半植民地性」をあげる。その上で尾﨑は「支那社会の長き停滞性」の問題に触れている。彼は支那社会の根本的特徴を「父家長制的専制主義(デスポティズム)」とする秋澤修二の説などを引いた上で、「支那社会のかくの如き長き停滞性の原因が、農業共同体的遺制の根強い生存に因ることは、我々が現代支那の村落や家族制度の観察に基いてほぼ問題のないところであるとしても、しからば何故にその農村共同体的性質が保存されたかという点はたしかに重要なる研究題目であろう」といっている。

尾﨑は「半封建性」「半植民地性」を「現代支那社会」を知るための方法的概念として構成しながら、あざやかにこの社会の歴史的由来と世界史的現在の姿とを鮮やかに見せてくれる。『現代支那論』が読者に与えるこの印象は、80年後の読者にとっても変わりはない。私はこの書をあらためて熟読し、1930年の中国の地に立って最高度の「中国案内」を読んでいるような気になった。だがこの最高度の「中国案内」はあの時代の日本人に何を告げることになったのか。

 

5 「支那の民族運動」

「半封建性・半植民地性」を指導的な分析概念とした尾﨑の「現代支那案内」は、読者を「支那の民族運動」の問題に導いていく。「この民族運動、或は漠然と民族的動向と呼び得るものは結局においては現在の支那の政治の中で最も強い、最も大きな問題」であると尾﨑はいう。「学生運動、労働運動、農民運動、及び現在に於ける新しい形態の民族戦線運動は、結局に於て支那社会における特殊的な性格を基礎として生じたものであることは明らかである。即ちこれらは一方に於ては、半封建的状態を脱却しようという要求、他方に於ては、支那社会の半植民地性、即ち列国の影響を離脱しようという熾烈な要望を備え、それらの基礎的地盤の上に起ったのである」という中国の民族問題の1935年という尾﨑らの現時点における状況を彼の言葉によって見てみよう。

「この支那における民族戦線運動は、本格的には一九三五年八月、共産党側の所謂八・一宣言に発端する。この宣言は支那ソヴェート政府と共産党の聯合宣言であるが、これによって国民党に対する聯合を提義し、その共同の目標を日本に置いたのである。支那の排外運動は、一般的に非常に広い多くの面を持っているが、それが内外の諸種の条件から結局之を日本に集中して来るということになり、そしてこれによって頗る困難な民族戦線が遂に結成されたということは、日本にとって非常に重大な歴史的な問題である。」

尾﨑は国共合作による抗日的民族戦線の展開に最大の注意を払うべきことをいう。もちろん最大の注意を払っているのは尾﨑自身であるが、彼に接するすべての人にむかって注意を促しているのである。事は尾﨑の言説の透明性の問題である。彼は政権の中枢にいうべきことを、成人講座の聴衆に向けても語るのである。「事変」の遂行者が最大の注意を払うべき抗日民族戦線をめぐる問題を尾﨑は講座の聴衆と共有しようとするのである。

「(国共合作下の)抗日戦線は今日尚お互いに相反した二つの面を持って居る。その一つの面は、遅れた支那社会の特質に関連して生ずるところの分裂的或いは遠心的な諸条件である。これは反統一的勢力として分裂的な動きをもっている軍閥の動向に現れているのみならず、やはり遠心的な傾向を採り得る列国の動向にも見られるところである。しかしながらこの分裂的、反統一的な面に対して、他の面即ち、求心的統一的な面を決定しているのは正しく民族運動の動向である。之を決定するものは今後の内外の諸力の結果であろう。」

さらに尾﨑は「抗戦主体」をめぐってこういうことをいったりする。

「半植民地的、半封建的支那は、抗日戦の経過とともにその抗戦主体を自ずから変質して行かねばならぬ必要に迫られている。即ち一方に於いては内部を分解に導かんとする条件が発展するであろうから、これに堪えるために急速にその主体の結合力を強化して行く必要があるのである。その要求は外部からの圧力が強ければ強い程高まるわけであって、ここに相互の結びつきの新しい方式が求められるのである。」

しかし尾﨑はなぜここまでいうのか。彼は中国における日本の戦争が、それに抗する中国人に「民族戦争」の遂行者の自覚を与え、大きな民族的抗戦主体ができつつあることを警告しているのである。この戦争が「民族戦争」になってしまえば、もう勝ち目はないと思ったかどうかは知らない。ただ続くのは泥沼のような悲惨な長い戦争であろう。「この民族戦争を武力のみを以て解決せんとするならば、嘗て元が南宋を滅ぼし、或いは清が明を滅ぼした場合の例に見ても民族戦争としての解決には何れも四十年乃至五十年も掛って居るのである。かくの如き民族的な抗争は多くの日本人にとっては本意ならざる発展である」と尾﨑はいう。日中間の戦争を終息させねばならない。その時期は近衛首相が「東亜新秩序建設」を声明した昭和13年(1938)11月という時である。尾﨑は「東亜協同体」論をもってこの時の要請に応えるのである。

「「支那の征服にあらずして、支那との協力にある」「更生支那を率いて東亜共通の使命遂行」「支那民族は新東亜の大業を分担する」「東亜の新平和体制を確立せんことを」「東亜諸国を連ねて真に道義的基礎に立つ自主連帯の新組織を建設する」等の言葉によって、「新秩序」が帯びるべき特性と輪郭とは既に最高の政治的宣言の中に示されたのであった。それはまさしく「東亜協同体」的相貌を示すものである。」[7]

「東亜協同体」論は、「事変以来の民族問題との激しい体当りの教訓から生れ来ったもの」である。だから尾﨑は「真実の東亜協同体は支那民族の不承無精ではなしの積極的参加無くしては成り立ち得ない」ものだというのである。それゆえ「東亜協同体」論は「支那の民族問題」を丸ごとかかえこみ、それを己れと共に解決するような度量、力量を日本に要請するものでもあるのだ。尾﨑のこの「東亜協同体」論文が「中央公論」新年号の冒頭を飾ったその昭和14年の5月に刊行された『現代支那論』は、「支那の民族問題」をめぐる日本へのこの要請をもってその講説を閉じるのである。

「東亜の新秩序建設は支那の民族運動を根本的に解決、啓開すべき歴史的課題を日本人に与えている。今日、抗日民族戦線運動として現われているやや畸形的な支那の民族運動は、根本的には支那社会の半植民地性、半封建性を解決してその長き歴史的停滞性を脱却せんとする要求をもっているのである。支那民族運動の大乗的解決は、まさにかかる要求に応えたものでなければならないのである。

ここに於て、かかる歴史的使命の遂行に当るべき日本自体の主観的な力量を急速に備える必要が生ずるに至るであろう。それは、日支抗争の経過が否応なしに要求しているのである。」

 

私はそれ以後の尾﨑と日本とそして中国のたどった生死と興亡の迹を思うとき、この言葉をもって閉じられる『現代支那論』という書を、尾﨑がわれわれに残した遺書だとみなさざるをえない。この遺書に込められた思いとは何かを、尾﨑の最もすぐれた理解者である野村浩一氏が語っている。

「だが、ひるがえって、広く歴史をふり返る時、私はある一つの感想を抱かされる。それは、端的にいえば、およそ近代日本において、その体制に対する批判的視点を保持し、かつ、ある開かれた意識のもとに問題を構想しようとした人々は、ほとんどつねに、その展開の舞台を中国に求め、中国の革命を通じて、日本の変革、世界の革命を展望しようとしたということである。そうした人々にとって、中国の革命こそは、世界の革命と通ずる道であった。そして、それこそがまた、いわば良質の「アジア主義」の基盤であり、かつ近代における日中関係の構造であった。」[8]

尾﨑の『現代支那論』を読み直して私は野村氏のこの言葉に深く肯くのである。

 

[1]尾崎秀実『現代支那論』岩波新書、昭和14年。なお『現代支那論』は尾崎の論文「「東亜共同体の理念とその成立の客観的基礎」などと併せて一冊に再編集され戦後昭和39年に勁草書房から「中国新書8」として再刊されている。戦前版『現代支那論』からの引用にあたっては漢字・かな遣いはすべて現代当用のものにした。

[2]杉田俊介『安彦良和の戦争と平和ーガンダム、マンガ、日本』中公新書ラクレ、2019。

[3]子安「〈事変〉転換への戦闘的知性の証言ー尾崎秀実「東亜共同体」論を読む」『日本人は中国をどう語ってきたか』所収、青土社、2012。

[4]「愛情はふる星のごとく(全)」『尾崎秀実著作集』第4巻、勁草書房、1978.

 

[5]姫田光義ら6名の共著『中国20世紀史』東大出版会、1993。

[6]『中国20世紀史』第3章・2「日中全面戦争」。

[7]尾﨑秀実「「東亜協同体」の理念とその成立の客観的基礎」「中央公論」1939年1月号。

[8]野村浩一「尾﨑秀実と中国」『尾崎秀実著作集』第2巻、解説、勁草書房、1977.

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.11.22より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/81551507.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1082:191125〕