《ポストモダンと丸山はどう結びつくのか》
柄谷は丸山をいつどこで捉えたのか。
彼が、本格的に丸山を論じたのは2006年の「丸山眞男とアソシエーショニズム」が初めてであるらしい。しかし柄谷の問題意識は80年代に始まっていた。
柄谷の丸山認識は、優れた「近代主義者」というほどのものであった。
80年代、柄谷行人は「ポストモダニズム」の旗手の一人として認知されていた。
ポストモダンとは、「近代以後」または「後近代」の謂である。柄谷の近代批判は、「自発的な主体(主観)への批判」であった。自発的な意志なんてない。それは他人の欲望に媒介された結果にすぎない。主観は自由ではなく、「言語的な制度(システム)の中に規定されている」、つまり自由な個人主体というフィクションから出発するブルジョア的思想に過ぎないという批判であった。しかしそれは自由の否定ではない。1968年5月革命に象徴される運動は、アソーシエイティブ(結社的)な活動をめざしていた。
しかし構造主義もポスト構造主義もすぐに資本主義の脱構造に追いつかれ体制内化する。日本のポストモダニズムもポスト産業資本主義と同義となってしまった。私(半澤)は、吉本隆明が、有名ブランド商品のモデルになった写真をよく覚えている。
バブル経済もあって日本のポストモダニズムは、世界の先端を走っているように見えたが、実は近代の欠落を示しているのではないか。柄谷にはそういう思考が芽生えた。1984年頃に柄谷は、丸山がこの観点で近代に取り組んできたのではないかと考えた。
《知識人と大衆は乖離していない》
日本のポストモダニズムが、知識人の批判をするときの立場は、インテリが大衆を上から目線でみていることを批判するものだった。しかし、日本はそんな知の階級社会なのか。そうではない。日本では知識人と大衆は乖離していない。乖離は西洋やアジアにはあるが、すでに徳川時代に養子縁組による階層モビリティーの動きが始まっていた。
柄谷は丸山による鶴見俊輔批判を例示している。鶴見は、抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし実は庶民の視点ではなく知識人の視点からみている。日本では知識人が支配したことはないし、思想や原理が支配したことはない。そういう丸山の思考に柄谷は同意する。丸山の次の言葉を引用する。
■「イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているに過ぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。/大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、/われわれには実感できないんじゃないですか/思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない」。■
柄谷は、小林秀雄と正宗白鳥のトルストイの家出と野垂れ死にをめぐっての論争を例示した。小林は、プロレタリア文学が傑作を生まなかったとしても、彼らは思想に生きた。日本において初めて思想が「絶対的な普遍的な姿で」存在したのはマルクス主義だけであると「私小説論」で述べた。丸山は、針生一郎との対談でそう言った。
《丸山こそ唯一の批評家である》
柄谷は1984年に「ポストモダニズムと批評」という論文のなかで、丸山の発言は真の意味での「批評」だと称賛している。丸山は本物の「批評家」だと言っている。柄谷のみるところ、批評とは方法や理論ではなくて「生きられる」ほかないものである。小林秀雄は、戦中に思想を捨て「実践的な没入」でのみ感受できるベルグソン哲学の方向へ向かった。丸山はそれを実感信仰だといって批判した。丸山こそ批評家を継続した唯一の人である。ここで正確に、柄谷による批評の定義を見ておこう。「いきられる」の意味をかんがえながら読んでほしい。
■それは日本固有の問題ではなく、カントの「批判」とともに出てきた問題である。思想は実生活を超えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。カントは合理論がドミナントである時、経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなくヘーゲルになってしまうだろう。この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに私(柄谷)はこれをトランスクリティークと呼ぶ。■
《共同体の「個人の析出」の精緻な難解》
柄谷は政治学者にして批評家たる丸山眞男の思考様式を追跡する。そして丸山の「個人析出のさまざまなパターン」に達する。これは、1960年の日米箱根会議に丸山が提示した論文(英文)である。私にはとても難解で十分理解したとは言えないが、乗りかかった船だと思い、柄谷論文を抜き書きをする。それなりに整序はしたつもりである。
丸山は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出individuationされるパターンを考察した。これが近代化とともに個人が社会に対してとる態度を四つに分類した。タテ軸の上部に、「結社形成的associative」、下部に「非結社形成的dissociative」、ヨコ軸の右に政治的権威に対して「求心的centripetal」と左に「遠心的centrifugal」なそれぞれ態度をとる個人類型を、四象限に分けて配置する。そしてこの四つの傾向をもつ個人を次のような四タイプに分けた。
■「民主化した個人タイプ(D・democratization)」は、集団的な政治活動に参加するタイプである。中央権力を通じる改革を志向する。
■「自立化した個人タイプ(I・individualization)」は、そこから自立的するが、同時に、結社形成的である。市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。
■「私化した個人タイプ(P・privatization)」は、「民主化タイプ」の正反対で政治活動の挫折から、政治を拒否して私的な世界にひきこもる。
■「原子化した個人タイプ(A・atomization)」は、政治に無関心であり、逃走的であるが、それゆえに突如としてファナティックな政治活動に参加する。権威主義的育たなリーダーシップに帰依し神秘的「全体」に没入する傾向をもつ。
一般的にいえば、近代化が内発的でゆっくり生じる場合はIとPが多くなり、後進国の近代化の場合は、DとAが多くなる。四つのタイプが一生を通して純粋不変であることは希である。
《日本でタイプIが育たなかった理由》
近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っていたのに「私化」と「原子化」が早期に登場し、かつ圧倒的に多かったことである。「自立化する個人I」が育たなかった理由を、丸山はこう書いている。
■日本における統一国家の形成と資本の本源的蓄積の強行が、/驚くべき超速度で行われそれがそのまま息つく暇もなく近代化―末端の村行政に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍事工業を機軸とする産業革命の遂行となった/その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであった。/ヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいするバリケードがいかに本来脆弱であったかがわかる。/「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはそのためである。政治・経済・文化あらゆる面で近代日本は成り上がり社会であり(支配層自身が成り上がりで構成されていた)、民主化をともなわぬ「大衆化」現象もテクノロジーの普及とともに比較的早くから顕著になった。(『日本の思想』)■
《日本において私化するPが圧倒的に多い理由》
Iが少なくPが多い―すなわち自立した個人が少なく浮遊する個人が多い状況―のは同じメダルの両面である。Pが多い理由を、柄谷は文学者の敗北と、丸山による「国家による教育権の独占」で例示する。
明治一〇年代の自由民権運動は、徳川時代の農村の自治的コンミューンに依拠するものであった。それが壊滅したとき人々は政治的現実を斥ける「私化」、すなわち文学に向かったということである。透谷の自殺以後、文学は人間の内面に向かい遂には私小説となった。
すべてPのタイプである。石川啄木が「時代閉塞の現状」で、日本の知識人が「強権に対して何等の確執をも醸した事がない」と述べたのを読んで、丸山は啄木に「私化するタイプと異なる結社形成的な個人」を見た。しかし結局、日本文学は私小説へなだれ込んだ。
丸山は、別の重要な事実として国家が教育権を独占したことを挙げて、次のようにいう。
■国家が国民の義務教育をやるということは、今日近代国家の常識になっておりますが、この制度が日本ほど無造作に、スムーズに行われた国は珍しいのであります。/(ヨーロッパでは)教会が、教育を伝統的に管理していた。そこでこの教会と国家との間に、教育権をめぐって非常に大きな争いをどの国でも経験している。ところが日本では/お寺は完全に行政機構の末端になっておった。/ですから寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて容易だったわけです。そのほか、ヨーロッパでは、自治都市や地方のコンミューンがやはり国家権力の万能化に対するとりでとなり、自主的学園の伝統をつくる働きをしましたが、この点でも、日本では、都市はほとんど行政都市でした。また徳川時代の村にわずかに残った自治も、町村制によって、完全に官治行政の末端に包み込まれてしまったので、中央集権国家ができ上がると、国家に対抗する自主的集団というものはほとんとなく、その点でも、自由なき平等化、帝国臣民的な画一化が、非常に早く進行しえたわけです。(「思想と政治」)■
《「講座派」への回帰をめざす》
「近代主義者」丸山眞男はこのように日本近代化を批判している。「息つく暇もなす近代化―末端の村行政に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍事工業を機軸とする産業革命の遂行」への痛切な感情の吐露を、柄谷もまた共感していると読めないであろうか。
丸山の近代批判は、さらに進んで「明治以後に生じた問題は、徳川時代あるいはそれに先立つ織豊政権の時代に根ざしている」。柄谷は、丸山が徳川から織豊政権にさかのぼり、遂には歴史意識の古層にまで遡行して考えたことの意味を問い、いまや世界史のパースペクティブの中で、日本の特徴を見直すべきだと考えているという。それはマルクスの「アジア的生産方式、封建的生産方式」の視点を再考することで可能になるかも知れないといい、「日本資本主義論争」以来、丸山が考えていたことだと、「丸山眞男とアソシエーショニズム」と題する論文を結んでいる。
《紹介で終わったがそこで私の一言》
今回も柄谷論文の紹介に終わってしまったが、私の感想で締めくくりたい。
第一に、80年代のポストモダン言説は、日本の高度成長とバブル経済への、知的世界の一つの対応だった。柄谷はそういう意味のことを言っている。その観察に、私は一瞬唖然とし、次に変に納得した。
それは私自身を含めた「日本の企業人の心情」と通底し交錯しているからである。私は末端の兵士に過ぎなかったが、当時の経済人の言説を回顧すれば、思い上がりのパレードであった。
「ヨーロッパを日本経営のブティック(骨董店)にしてやる」というのがあり、「アメリカの軍事力を除き怖いものは何もない」というのがあり、リベラル陣営からも頭を冷やせという意味で「セールスマンの死よ、来たれ」というのがあった。我々は、日本が経済の世界最終戦争に勝利しつつある気になっていたのである。
第二に、本稿前回に柄谷の丸山再評価が、2016年の丸山著作中国語訳の序文に始まったと書いたが、どうしてどうして、今までのべてきたように、それは1980年代に始まっていたのである。この先見性には脱帽したい。しかも、講座派の視点による日本近代の再評価ということである。柄谷が引用した丸山の個人析出論文は60年代のものであり、おそらくケネディ・ライシャワー路線―すなわち帝国主義が出てこない近代化論―の開始を予感して書かれたように思われる。そして近代主義者でこそ言える日本近代の「成り上がり性」を批判している。
第三に、本稿では直接の主題にしていないが、「令和改元」で見えてきた「天皇制」の問題である。「戦後民主主義者」として見事に振る舞った明仁天皇の「譲位報道」から見えてきたことは、ある種の政治的危機の可能性である。現上皇・上皇后の「人間性の発露」によって辛くも隠蔽されていた「天皇制」の、不可侵・不合理・不可思議、がそろりと可視化され始めた。ここに発する困難が日本の近未来を覆うことになるだろう。「無責任の体系」をおのれの問題とせず、天皇制に正面から向き合うことから、我々は逃げ回ってきた。まだ私はぼんやりとしたことしか言えぬ。しかしここでも「戦後民主主義」に対する復讐が始まっていると思う。
結局、二人の言説紹介に終わったエッセイはこれで終わりである。「いまごろ丸山眞男か」と題した意味を、君に、少しは分かってもらえただろうか。(2019/06/18)
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